新しい学びのスタイル アズワンセミナー

様々なテーマについて、参加者で話し合いながら、楽しく、深く、探っていきます。

誰かに教えてもらったり、何かを学習するのではなく、自分の頭を使って、じっくりと調べていきます。

その中で、「当然」「当たり前」としていた思い込みやキメつけから解放されていき、自由で豊かな明るい世界が見えてきます。

新しい知性の使い方、心とつながる学びを「体験」「体感」できる機会です。

4月29日~開催された「アズワンセミナー」の参加者の感想を紹介します。

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次回「アズワンセミナー」は、6月9日(土)~14日(木)開催。申し込み受け付けています。



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自分をみる視点が変わり、同時に他者をみる視点が変わった。

良い悪いの判断を超えた、自分をみる、他者をみるやさしい視線。

その視線の元はどこなのかと探ると、行き当たったのは他でもない、わたし。

そのわたしは、捕まえられそうで捕まえられない、見えるようで見えない、実体はないけれども、確かにそこにあると感じられるわたし。

私はあなたに会いたかった。

自分を苦しめ、愛する人を傷つけ、現実をゆがめ、適当な理屈を作っては、あなたに近づこうと、随分遠回りをしたものだ。

言葉だけではなく、着想や、思考や表現の方法、あらゆるものが、その人のその時、その瞬間のありようを表現する味わい深いものとして感じられるようになった。

話を聞くことが、相手を聴くことに変化した。

自分も、みんなも、聴いてほしい、認めてほしい。

こころから安心できるやさしい関係、やさしい社会を求めている。(40代男性)



自分自身や自分の世界が、自由で、安全・安心・安定であることを、自分自身が大切にしていることが改めて分かりました。

アイスクリームが溶けて形が不明確になるように、自分と他人との間にあった境界が薄くなった感覚があり、驚きました。(40代男性)



「立腹」「所有」「決めつけ」「幸せな状態」というような、キーポイントとなるキーワードをお互いに考えて、表明して、聞き、更に話し合う中で、自らの中から出て来たもの、他者から出て来たものが可視化され、“ふ”に落ちてゆき、共通点・違いへの気づき、深まり、愛おしさが感じられて、普段なかなかないレベルでの理解に至っている感覚も共有出来ました。(50代男性)



視点が変わったように感じています。

自分なりに色々と考えて来たものの、そこにはじっくり時間をかけて、人との対話や想いを通して、考えることが無かったと思います。

探究の仕方も自分なりになっていたと思います。

今後、人と接するときは、自分も人も其々信条・信念・価値観・時にはバイヤス・思い込みがあるという事を知って、他者の心の声・伝いたいことに心と耳を傾け、自分の心の癖を知りながら対話したいと思います。(50代女性)



一緒に参加しているメンバーと、探究会でも暮らしでも自分が何を聞いているのか何を見ているのか常に意識を向けることで、頭の中がすっきりしていくというか、フィクションと実際の違いが明確になっていった。

自分で自分の中を見ようとひとりでもがくよりも、みんなの話は割と客観的にすっきり見ていけて、その感覚のまま自分を見ることで自分の観察がしやすい下地が出来ていくように思う。

もう一つ、本音の本心で願っている部分が実現されない原因は、そういう世界を作れない自分だからではなく、すでに存在している実際の世界をまげてフィクションのドラマを見ている自分にあるんだなというのを改めて思った。

地域でどこまでやれるだろうか。

実際の世界で、人らしく生きていきたい。

子供に、みんなにそういう人生を歩んでもらいたい。(40代女性)



どんな事も、どんなものも、自分一人の力では成し遂げられない事ばかりだった。

もっと自分を過大評価せず、自分の事を環境がもたらした意志を持つ存在として考えてみたい。

自分とは孤立した存在ではなく、つながったネットワークに表出された存在なのかもしれない。

自分が気持ちを表すことは、孤立した閉ざされた存在から出た思いからではなくつながりの中から感じられた、表出されてきた思いを素直に出していくことではないか。

それは個人の願いだけでなく、あらゆる万物の願いなのかもしれない。(30代男性)
- | comments (0) |09:39

本当は何を聴きたいのだろう?

快適な社会生活を営むためには、話し合いは不可欠だと思います。その話し合いが上手く機能しないことから、不快になったり、対立や争いなど様々な問題を引き起こすことに繋がっていきます。

その話し合いの一番の要になるのが、「聴く」という要素です。そして、単に言葉や表面的な気持ちや考えを聞くのではなく、その人そのものを理解する、つまり「人を聴く」ことで、心から通じ合える、人を尊重し合う豊かな話し合いが実現されていくのです。

3月「人を聴くためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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自分の身に迫るテーマが次々と出される感じだった。

言葉を聞き、そう思うからそう言っているとなっている僕がいました。

聴いたらやるのが良い一辺倒の僕がみえてきました。

聴くは相手の心でした。

言葉の前のその人の心。

ああ、本当に「聴くとは何か」を知らない僕だなあと思いました。

(60代男性)



「人を聴く」って何も「しよう」としなくてもいいんだ!

「人の話を聞く」っていったら結構エネルギー使ってるからなー

「人を聴く」はエネルギー使わないでいいのかぁ…

「人の話を聞きなさい。」と言われると「やる」とか「返事する」がくっついている…

子供の頃は聴くが元々で「やる」、「返事をする」があまりくっついていないかな…

ずっと、言葉を理解すれば相手のことを理解できる幅が増えると思っていた。言葉と相手が結びついていて、さらにその結びついたものを自分の頭のミキサーにどんっと入れてグイーンとやって、最終、相手のことを理解するまでに至ると思っていた。

言葉というものが、同じことを言っている、との実感はなんだろうなぁ…?

言葉が出るまでの背景や心があるって知らない状態だったなぁ…。

発せらる言葉=相手の思っていること=相手。

本来の「聴く」が実現されることによって、愛(心を受ける)を向けると、人間果てしないほどのエネルギーがあって自発的に何かをやりたくなる。

やらせようとしないと、動かない。動けないようにしている現状の社会はどうなんだろう?

「聴く」と「やる」を結びつけて、言葉とその人を結び付けて、言葉でコントロールできるように調教されている家畜扱い、人間ではなく。

自分自身に重い枷を取り付けさせる作業を小さいころからやるって、面白い。しかも社会全体で。

「人を聴く」は、自分の認識だとはっきり知っている状態じゃないと、なかなかかな。

その反面、関心があればいいだけというものもあるかな。

なにも「しよう」としなくてもいい。

人本来の繋がりたいという本心ってやつに身を任せるのみ。

「人を聴く」の意識はいらない。もともとあるし。

日常の中で自分がどのように聴いて・聞いているか観察が楽しみ。

色んな観点もらったから。。。(20代男性)
- | comments (0) |18:12

今を、自分を、生きているだろうか?

結果に一喜一憂する、周囲の評価を気にする、他の人の言動が気にさわる、等々は自分の生き方をしていないからではないでしょうか?

趣味・興味・関心・得手不得手・感情・欲求・願望・知識・経験・発想・思考、等々、自分のものだと思っていても、自分の生き方をしていない自分から出ているものかもしれません。

人の一生を観察し、人生とは何か、人生の目的や生きがいを知るための機会を持ってみませんか?

2月人生を知るためのコースに参加した人の感想を紹介します。

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「なんで生きているのかわかんない、生きる意味は?」って考えていた。

考えていたというよりは、思っていただけで、なんのために生きているのか全然わかんなくて苦しかった。

でも、もう、そんな風に辛くなることはないだろうなと思う。

何をしたいかが見えてきた気がする。

問題や苦しみが起こる根本的な原因は、目的を知らなかったからなんだろうな。

行為や感情や欲求や気持ちは、全て手段であり目的ではないんだ。

食べることも、仕事をすることも、勉強することも、目的を達成するための手段なのだから、やってもやらなくてもいいんだ。

常に、手段と目的を取り違えないように、自分の本心は何か、目的は何か、見失わないようにしたい。

もしも、人の本心が一つなら…

他人が幸せで、私が幸せじゃない、なんてことがありえるのだろうか。

私が幸せで、他人が不幸せな状態ってあり得るのだろうか、、、いや、そんなことは、無い気がする。

自分と、他人の関係を断ち切ることは、どうしたってできない。

出来たとしたら、幸せな感じがしない。

自分の考えの中にも、いろんな人たちの考えが混ざり合っていて、自分と他人で別々なんかじゃない、つながっている。

意識だって目に見えないけれど、一つと捉えることができるんだから。そもそも、生命は一つだと捉えられるのだから。

人の行為や言動ではなく、その人の実際はどうなんだろう、を見たい。

ひとかけらの遠慮もなく、もう親しすぎて親しすぎてこれ以上親しくなれないよ~、みたいな関係を築きたい。(というか「築く」みたいなレベルじゃなくて、全世界のすべての人に、そんな親しみを感じられるような自分でいたい。)

そんな親しい関係だと、あなたの幸せが私の幸せであり、私の幸せがあなたの幸せになる。そうやってどんどんどんどん周りを巻き込んでいきたい。

こんな人たちがいっぱいになれば、幸せな社会は実現していけると思う。

「したい」「してあげたい」欲求から、世界がどんどん発展していけると思う。(20代女性)



現われた世界をすべてだと思っていた。

自分が捉えていたものを、実際だ、としている自分がいる。

人の言動や、肩書とかで、人を捉えている自分がいる。

その人の内面に関心が行かない。

そういうものだと思っているから。

実際の自分は多分何もなくて受けたものしかなくて、物質的にも精神的にもそれらがある事に気付く・知るだけで心の状態は変化するのかなと思う。

むしろそれだけで幸せか…

満たされるには「知る」って要素が大きいなー

「知る」ってどんなだろう、知ったらどんな世界だろう。

ただ率直に素直に考えを自分の考えとして知るのがもっとも大きなカギとなるのかな…

(20代男性)



「人っていうのは何なのか」について、しらべて見て、とても興味深いものだった。

普段自分の側から見ると、自分と環境があって、という感じがするが、「自分がどうやって生きているか」を観れば、自分の体のすべては周りから来ているし、内面のものも外からの影響で形成されていってる。

生きるにあたっての身の回りの物も、人の手や自然の産物で、飲み物ひとつとっても、それが作り出されるには、作る工場も、その工場を作るための多くの物があってそれらで工場を作った人があって、その工場でその飲み物を作った人があって、届ける人とその手段があって、なんせすごい人の連携の中で自分がコーヒーを飲んでいる。

自分が何かを受けていて、それが当たり前のことになって特に受けていないとなっているが、そこにあるということは、背景は、実際はどうなっているか?(50代男性)



健康に生きようとするエネルギー、方向性。

そういう方向性は、どのような時も変わらずあるようだ。

「死にたい」と言う人にも、生きようとするエネルギーは、死ぬまではあるだろう。

心底は?

幸せに生きたい、みんなと幸せに生きたい。

一人では生きられない。

人として生まれたときから備わっている本心。

うちにあるもので、のびのびと、人間らしく、知性も心も成長していく。

そういう人生をみんなと送りたい。(70代女性)
- | comments (0) |15:55

自分について、どれくらい知っているだろうか?

「自分って、どんな人だろう?」と、自分の行動や思考、感情など、自己観察し、科学的に調べてみませんか?

誰かと比べたり、周りの人から言われて、自分って、こういう性格だとか、~が苦手だとか、得意だとか、いろいろ自分について、思うことはあると思いますが、そもそも、「自分ってなに?」、「もともとの自分って、どんな人だろう?、なにを望んでいるのだろう?」と、「自分」に「人」に関心が湧いてくるようです。

1月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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「何に関心があるか。」 すべて自分の願望が出てきて驚いた。

この中には、人からどう見られているかに関心があるということもあった。

だけど、全て自分の感覚であるという自覚できた時、他人の目をそんなに気にしなくなった。今まで生きてきて、他人の目に捕らわれるような感覚をずっと持って苦しんでいたが、これは本当に嬉しいなと思う。

自分に一番関心がある。 そのままでいいんだなー。

今までは、エゴイストとか、他人を思いやれない人間?とか、、まるで悪いことかのように捉えていた。

だけど、自分は自分のままでいてもいいんだなと、感じてとても楽になった。

嬉しいな。

「頭の中の近況、何に関心があるか?」が大分変った気がする。

今までは、自分の軸を持ちたいとか、認められたいとかが大きく占めていた。

でも、自分の軸なんて持たない方がいいな。

人から認められる必要なんてなかったんだなと思い、今はとにかく自分のことが知りたい、楽しく生きたいという思いが大きい。

自分を好きになりたいとか思ってたけど、なんかもう好きだよなーと思った。

今まで自分に対して愚痴を言ってきて、嫌だなと感じていた人、その人のことをふと考えると、何故かすごく愛おしいなぁ!という思いが出てきて、びっくり! 仲良くなりたいな。 気をつかわない関係になれたらな。 

私が一番大切にしたいのものは自分。 今、そう思っている。 自分をもっと大切にしてあげたい。

私が自分を大切に生きることで、周りも楽に生きられたらいいな。

わがままだと思われるのが嫌だと思っていた自分にとって、わがままでいいじゃーんと思えたのはとても嬉しいことだった。

自覚で見えてきたものが沢山ありすぎる。

もし何か感情が沸いてきたら、本当にじっくりと味わったり観察したりして見てみたい。

欲求とかも同じく。(20代女性)



自信を持つことがイイコトだとされる社会で生まれ育ち、「自信なしにどうやって生きていけるの?」と思ってる自分を発見した。

“できない”という自信、自信がないことに自信がある等の聞きなれない表現を耳にして目からウロコが落ちた。

自信のある・なしで一喜一憂し、踊らされていたことに初めて気づいた。

自信がなくても生きられる社会?!・・・私にとって全く新しい概念だけど、自信持つことに力入れて緊張と競争に満ちた社会より、ずっと肩の力抜いて生きられそうだし、そこには安心がありそう。(50代女性)



「自信のある考え方と自信のない考え方」というテーマがあった。

「自信のある」ということは何なのかと調べていくと、実際でないものを大事に、それがなくなれば自分も無くなるような感覚を伴うもので、意識してそれを離すことが出来ないとなっているもので何故そうなるかは種々の原因がありそうで、複雑怪奇にも見え、それを維持するのに相当なエネルギーを要するもので、、、、と。そしてそれが及ぼすものは自分に強いるもので、それだけに止まらず人にそうさせようとする。

「自信のない」というのはシンプルで簡単で無駄なエネルギーを要しない。

人にたいしては親しさや愛情のみが溢れる。

自信のない考え方、実際に即した考え方。

「何時に行きます」「了解」その時間が過ぎた。どうしたのかな?30分過ぎて来た。「よう来たね」とそのつどそのつどその人を思う。(60代男性)



私は、自分と異なる感覚のことを言われると、特に家族に対して、「おいおい大丈夫か?」と自分が正常であるかのように思ったし、それを相手に堂々と表現していた。

ひどいことをしていたのだ。

感覚と考えと思い込みが全部一緒になって錯覚している自分。

だから人とのズレに対して感情的なっていたのだな。

「約束」はどこにある。

人と待ち合わせを約束した瞬間に、約束がかなっているイメージが浮かび、人と待ち合わせして来なかった時に、自分のイメージを事実化して、それを基に感情が生じる。

この感覚には、本当に驚いた。

事実を捉えていない日常、自分の中に生じていることにだけ反応している日常だったのだ。

今まで生じていた、人との関係の中での感情は、事実とは無関係だったのだ。

愕然とした。

「事実化のメカニズム」を知るかどうかは、人が生きる上で大きなカギになると思う。

探究したことで自分のことを耕した感覚があり、いつしか日常の中で無意識の内に、作用していくものと思っている。

探究の最後に「自分を知るためには」という問いがあったが、この問いに対する自分の

考えを、暮らしの中で検証したい気持ちが高まっている。(40代女性)
- | comments (0) |12:35

自分を知るための内観コース

自分の人生に向き合う。

幼少時から現在に至るまでの自分とじっくり向き合ってみませんか?

その中で自分を客観的に観察する力も養われていきます。

客観的に自分を観る能力が出来てこそ、本当の自分を知ることも出来るようになっていくでしょう。

昨年12月の内観コースに参加した人の感想を紹介します。



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内観コースを終えて、今思うのは、自分の身の周りにある、豊かさに気づくことが、幸せにつながるように感じたことです。

内観では、自分の中の記憶をたどりながら、その時あったことをみつめるのですが、記憶を星で例えたら、私の場合大きくよく光る星ばかりで、それらはたいてい被害者としての自分の記憶で、「もっとこうして欲しかった」「もっとこうしたかった」という、子供の頃の私の声が聞こえてきました。

もう少し目をこらし、ようやく見えてくるのは、小さな星の集まりで、この中にようやく「してもらったこと」を見ることができました。その数は、実は大きな星よりも圧倒的に多く、すき間もないほどにあることにも気づきました。

人は満たされなかった欲求には、関心がいかなくなり、いつしか忘れてしまう。

けれども、満たされなかった欲求は、いつまでも手放すことなくその欲求もさらに大きくなり、記憶に残り続けるのかもしれません。

母からは、母を反面教師として「女性は自立すべきだ」という考えを。

決して私をほめることがない厳しかった父からは「自分は無価値な人間である」という考えを。

これらはいずれも私がこのように捉えたのですが、大きな力をもち、人生の中で何かを決断する時、選択する時、行動する時、人と接する時、すべてに影響を与え、私を苦しめてきました。

でも、人生とは不思議なもので、この影響を与えた本人である母の病気、父の病気を通じてと、わたし自身が会社という肩書きを捨てて、なんでもないひとりの人間になって、人生の底辺にいたということも重なり、家族と時にはケンカしたり、話し合い、助け合いとしている中で、その考えが全く私の勘違いだと気づかされるに至りました。

この経験は私には本当に意味が深く、この内観で振り返りながら、複雑にからまった糸が、きれいにまた一本の糸にもどったような、スッキリとした気分と透明な気持ちがしています。(これも家族の力により、解くことができました)(40代女性)



お母さんがいるから私がいるんだな。

お父さんがいるから私がいるんだな。

おばあさんがいて、私がいるんだな。

彼らがいるから、今の私がいるんだな。

お母さんに、父に、おばあさんに、彼らに

受けてきたすべてのことが今の私にある事なんだ。

私が持った考えも、

私が自分だとしてきたことが全部では分からないが、受けてきた考えだね。

実際に繋がっている存在。(30代女性)
- | comments (0) |11:43

心のスタート 人生を豊かに生きるために

<自分>・<人生>・<社会>についての、様々な問いに対して、自分の頭を使って、じっくり、探ってみる時間をもってみませんか?

アズワンセミナーは、日常から離れた合宿生活の中で、日頃、自分を窮屈にしたり、自分らしさの発揮を阻んでいる観方などに気づき、人生をよりよく生きるための根本的な問題について深めていくセミナーです。

11月アズワンセミナーに参加した人の感想を紹介します。



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社会について、このようにあらためて考えることが少なかったので刺激になった。

自分と社会の関係についてや、社会をどのように見ているのか、その中に「人」との関係も見えてきたように思う。

争い・対立のない幸せな世界について思いを巡らせると、参加者それぞれの言葉や表現は違っていても、本質的には同じような事を大切にしているんだということがわかり、人間は一つなんだなということを再認識した。

その世界を実現するために私個人に何ができるのか考える良いきっかけとなった。

全体を通して独特の「間」があり、その感覚について違和感を持ったこともあるが、それは今まで答えのあること、早く答えを得ることに慣れていたことからくる、自分の反発だったのかもしれない。

でも、今まで得ていた「答え」も本当の意味で、どこまでゼロから探究しようとしていたか顧みる良い機会になった。(40代男性)



身近な実例を上げて探究していく中で、最初は相手に原因があると思っていたものが、最後はそうだと言い切れなくなってしまいました。

勝手に自分が相手の言動に意味づけをしていて、自分の感情が実際の中に紛れ込んでいたことに気付いた時は衝撃的でした。

今までは、怒りが湧いてくることがあってもそこに目を向けることをしてこなかったし、相手に対してなんでそんな行動したのか考えることはあったけど、なぜ自分が怒ったのかは考えることがありませんでした。

自分自身を探究していくことは自分自身を観察していくことであって、全てを受け入れることでもあるなと思いました。

そして何気ない会話の中で、「実際はどうだろう?」と問うことで、普段自分の中で思い込みやキメツケをしていることに気付くことが出来ました。

初めて参加者同士顔を合わせたときも、自分の中で、この人はきっとこういう人だと決めつけていた自分がいました。

また、「実際の自分とは?」ということを探究するとき、「実際の自分」は、「自分と思っている姿」とは全く同じとは言い切れず、体がここにあるのに私とはこれだと断言することが出来なくなりました。

自分らしく生きるということは、自分だと思っている虚像、もしくは、なりたいと思う姿をまねて生きているのか、自分らしく生きることと自分であることは少し違うなと今でも探究が止まりません。(20代男性)
- | comments (0) |11:58

心通う話し合いのできる人に 「人を聴くためのコース」

「話し合い」になっていく上で、一番の要になるのが、「聴く」という要素です。

単に言葉や、表面的な気持ち、考えを聞くのではなく、その人そのものを理解する、つまり「人を聴く」ことで、心から通じ合える、人を尊重し合う豊かな話し合いができるのではないでしょうか。

10月「人を聴くためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



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相手の情報を集めてそれを分類していけばこの人はこういう人だと分かると思っていた。

だから身近な人は多くの情報があってよく知っているという感じがする。が、

どうやっても、完全に知ることができない相手の世界がある。 

それをはっきり知ることで、相手の世界に向かっていく働きが生まれていくんだろうなと感じた。

相手の世界を表現しようとした言葉や表情、雰囲気をこちらは感覚で受けて自分の世界で意味付けして理解しようとする。

自分の世界と相手の世界は全然別のもので、それでも何とか探って知ろうとしていく。

相手の世界が自分の世界に入ってくるのか、それぞれの世界が溶けて混ざっていくのか、何となくそれを続けていったら、世界が一つになっていくのではないかという発想が出てきた。

それぞれの世界が、心がつながっていき、一つになって調和していく。

そうしたら現れも自然と調和していくのでは。

それぞれの世界に上下も優劣もなくそれぞれがそれぞれとしてそこにあるだけ。

色々な世界と混ざり合い自分の世界がより豊かになっていく。(30代男性)





自分の中で「聞く」と「やる」がくっついてる。これはなかなか根深いなと思った。小さい時から相当訓練してきたのか、普段あれっ?と後でそういう状態に自分がなってたのかなと思うことはあっても、聞く瞬間は「やる」で聞いてるから、それを「やるか、やらないか」の選択で頭が忙しい。やらなくても「やる」で聞いている。

最初は相手は何が言いたいんだろう?と相手のほうに向いていても、言葉を聞いてから自分の頭の中で言葉の意味を探したり、相手が話してる内容を自分がちゃんと理解できてるかとか、言葉の意味があやふやだと「あーかな?」「こーかな?」と自分の頭の中で浮かんできたことをぐるぐるとやりだす。そうなると途中から相手の話にも集中してないし、その話が出てきた相手の本体には関心が向いていかない。(50代女性)





そもそも人が話し合おうとするのは、聴いて欲しい(知って 欲しい)と、知りたいという欲求があってのように思う。満たされることの無い単独の欲求なんて無いように思う。特に子供のうちは知って欲しいというのが強くあると思うが、大人にもそれはあると思う。

一人の時に話す人はあまり居ないと思うが、誰か人が居て話したくなる。人ってどういう生き物なんだろうと改めて思った。何もなくて言葉が出てきているのではなく、その人の中で何か心が動いて、それを人に見て欲しい、知って欲しいという現れの1つで言葉というのが出てきているのかなと思った。

人を聴くことで聴く人にある影響として、聴く相手の存在が自分の中で厚みを増していくということなのかなと思った。自分の中でその人の厚みが増していくことは、自分の豊かさが厚みを増すことでもあるのかなと思った。ここはもうちょっと調べたい感じがする。

(20代男性)
- | comments (0) |12:26

素直に見て、聴ける、知的な人へ~自分を見るためのコース

自分自身に対してや、日常の物事の観方や捉え方は、それぞれの価値観・人間観・社会観などを物差しして判断しているのだと思います。

その物差し自体は、自分に身に着いてしまって、日常では自覚することもなく、当然のようになっていることが多いと思います。

その物差し自体を観察して、客観的に調べられるようになることで、キメつけや頑固さから開放され、素直に自分自身や物事を見ることが出来るようになるでしょう。

10月「自分を見るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。



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普段の暮らしから離れて、自分の中に目を向け、つぶさに観察する日々を送った。

「見る」とは、どんなことをやっているのか、どう捉えているのかを「知る」機会になったと思う。

常に自分にベクトルを向けていると、ゆっくりコマ送りに観察する「眼」が養われて行ったように思う。

目はどんなふうに対象を捉えているのかを、図で表されたのを見ている時点では、頭での理解。

いろいろなエクササイズの中で、壁掛け時計を検討会室に持ってきて、逆さまに置かれたのを見たとき、自分の中で、「時計」にする瞬間があるなと気がついた。

それは、とてつもなく瞬時に起こるので、捉えるという実感はなかなか掴めない感じだけど、自分が「それ」を「時計」に「した」から、「あ、逆さまだ」とか「止まっている」とかの反応が出てくる。そのものは、「時計」でも何でもなく、クオーツとかプラスティックとか呼んでる物質が組み合わさってなんらかの動きをしている。

それを、「見て」→「時計にして」→「逆さまだ」という順序に自分の中で起こっている。

自分の例で、面白かったのは、夜中に目が覚めて考え事をしていた時、ぼやーっと部屋の中のものが黒く見えている。暗闇に目が慣れてくると、昨日までの記憶から「これはタオルかけ」だとか「これは電気」だとかに「する」瞬間があり、そのように見ている。

お風呂に入るときに、脱衣かごに布がかかっているのを見て、「足ふきマット」とする瞬間があり、「昨日敷いてあった場所に敷こう」と動いている。

「見る」の中には、○○に「する」瞬間が組み込まれている。

自分の中の知識や経験や記憶のデータからそれは一瞬にして起こっている。

○○にしているのは自分だから、当然そのものではないわけで、自分で○○にしたものを見ている状態。

この一枚が加わり、その瞬間を実感すると「自分が捉えているんだ」と強く思い込まなくても、自然にスーッといく感じ。

コースが終わり、久しぶりに見る街並みには、目を刺激するようなものがたくさんある。

今までの習慣ですぐに反応のほうに引っ張られる感じだけど、「○○にする」瞬間を実感するには、常に自分の中を見ている「眼」を鍛えていく必要があるのかな。(60代女性)



ボードの文字を見てそれがボードに書いてある、意味がボード側にあるなとなっているのか、それとも見て像を捉え認識した、が自分側にあるとなっているのか。

自分がそう見た、読んだ、読み解いたとなっているのか。

意識と行動の関係は、自分がそうしようと思って行動していたりするが、その行動自体だけを見るとそうしようと思ったことと別のように感じた。

料理しようと思って料理した。とか、自分が料理していると思いがちだが、実際には手足を動かしているだけ。それしか出来ないとも言えるだろう。

あの人が面白いことを言って笑ったのではなく、自分が聞いて、面白いと感じて、自分の中で笑いが起きている。

五感で捉えるもの全てがそうなのだなと思った。

○○さんに言われたとなっているのは相手の事がわかっている感じがする。

「思われる」とか「言われる」とか「○○された」とか果たしてそんな事が出来るのだろうか?

自分が主体となっているとそういう表現すら出てこない感じがある。



ナニカを見て、聞いて自分の中にあるものとそのものの要素が組み合わさって、自分で認識しているのだろうか・認識?自分が判断しているのだなと思う。

捉える→推測ではなく、よくよく見ていき、「なぜそうしたのか」と問えば自分の中で何が起きていたのか一つ一つある気がする。

そこが大事なポイントのようにも今の自分は思う。

なるようになっている世界では自然とそのものや本質的なものに関心がいく感じがする。この「自分を見る」のベースがハッキリとしていると自然とそうなるのではないかな。

意識しなくても、そうなっている状態。

コースに通ったら出来るわけでも知識を詰め込んだから出来るわけでもなんでもない気がする。

言うてみればただ人間の元々もっている仕組み通りに生きていくだけなんじゃないか?と思うと、今は複雑に絡み合いすぎてよくわからんちん状態となっている。

その元々の状態に気づいていく、知っていく。それに尽きるのではないかな。

なにかを得たい、分かりたい、知りたいとなるのは人間の本性な気もする。

それは自分の中に新しい知識を入れるのではなく、自分の中にある元々の状態に気づいていくのが自分を知るや自分を見るということなのだろうか?(30代女性)
- | comments (0) |13:21

もっと、自分らしく~自分を知るためのコース

自分らしく生きたい、でも、自分らしさって何だろう?

「自分らしさ」「自分らしく」を捜し求めたり、自分ひとりで考えてみても、わかるようなものではないでしょう。みんなの中、人のなかで、自然に現われてくるものなのかもしれません。また、気づかない縛りや決めつけから自由になることで、もっと自分らしく、もっと軽やかに生きられるようになるでしょう。

9月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



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自分の回路の根底に「善し悪し」の概念が相当の強さで存在しているだろう、ということに気づきました。

目の前の現象や、行為をとらえる際のベースになっているとさえいえるような「善し悪し」。

しかも、それはふと立ち上がる“思い”さえも支配していました。

そんなことを思ってはいけない・・・・。子どもを亡くした時に、自分で気づいてしまったある思い。

母親だったら、絶対にそんなことは思ってはいけない・・・。わたしは、それを30年以上も忘れることなく、心の中にしまい込み、自分を責めてきました。

あまりにも自分を知らない、という実態。 というのか、自分の知り方を知らなかったということなのかもしれません。(50代女性)



自分の中で起きるすべてが、どこまでも、自分の感覚、自分の考えという自覚があるか、からが始まりだなという気がした。

「自分の考え」というのが鮮明になれば、鮮明になるほど、実際の自分に、実際の世界に対して、関心が進むことになるのではないかな。

「自分の考え」という自覚が消えるとき、断定することになったり、自分の考えに自信を持つようになったり、自分が思ったのが変えられないことになるかなと思った。

一つ一つのテーマで、探究してみて、「自分の考え・感覚」という自覚が、なぜ消えるのだろうか考えるほど不思議だった。

「 自分の考え」は、考えだということがもっとも易くて,簡単な感じだが、あえて事実化して、事実化からもともとの状態に戻るのがどうして難しくなってしまったのだろう。

「知った」「断定」「事実化」「善悪」「当然」などが、考えの中でいくらあると考えても、追求しても、実際の世界は、考えの世界とは別だろう。

実際の世界にない幻想を見ながら暮らしているんだと思う。

実際の世界が見えないほどの人間の考えで。。。 (30代女性)



そうなってしまってきているのは、自分を含め、そもそも人は人間はどういうものか、どうなっているのかというのを”知らない” ”知っているつもり”というのもあるのだなと感じる。

そのあたりがハッキリしてきたらずいぶんと楽に生きられるような気もするし実はとてもシンプルに感じる。

そこで「知っている状態」になるとまた同じ回路の考え方で、固まってしまってその先がなくなる。

どこまで行っても「知っていく」ことでやわらかく生かしていけるのかな。

“決めつける”というのと“決めつけない”というのは同じ回路な気がする。

決めつけていた自分を否定して、蓋をし、そうなってしまっていることを否定する感じ。

思ってしまった自分が悪い。

それは2重のレッテルを貼っているようなもので決めつけよりも複雑化させてしまっているような感じだ。 とても無理がある。

そもそも“決めつけること”自体が可笑しく思えてきた。

出来ない気がするのだ。

自分がどのように捉えているのか順を追ってみていくと…”自分”ってなにをさしているのか見ていくと…そもそも決めつけることなんて出来るのだろうか?

“決めつけないようにしよう”ってとても無理があるように感じる。

決めつけること自体がなくなってくると独自の回路も徐々に書き換えされていくように思う。(30代女性)



人間が持っている考え、認識、言葉、記憶、心、知性など個人の中にありながらも世代、地域、社会の中で影響し合っていると思った。

一度その集団の考え方、価値観などをインプットすると無意識にいつでもそれを踏襲する。

そうなると、自分にとってそれがどういうモノか?

そのことで何がどうなっているか?

見直すことが難しくなるように思う。

「私はこう感じるけど、本当はどうだろう?」とならないのは、単にそれを知らないからだと思う。

それは人の中で自分がセットしたように、人の中で気づき調べていくことのように思う。

自分の存在を知っていき、考え、記憶、言葉などの性質を知っていき、自分の現状を知っていくことが人らしく生きていく上で欠かせないと思う。

良し悪しの評価ではなく、只々自分がどうなっているのか?

その中に何があるのか?

子どもを見守る親のように自分を知っていきたいと思う。

今までに何回か自分を知るためのコースに参加したが、今回は、自分でもたくさんの人の中にいて安心している自分が浮き彫りになってきた。

日常の私を取り巻くすべてのモノの中から現れてきた。

それは私一人では現れようのない自分だと思う。

こんな風に人の中でどこまでも知っていける。(40代女性)
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楽しく、深く、「ほんとうは、どうだろう?」 

身近な問い、例えば、「見るとは?」「聞くとは?」「自分とは?」「幸せについて」「社会について」など、自分たちで話し合いながら、楽しく、深く、探ってみませんか?

「問い」「テーマ」を発するスタッフはいますが、誰かに教えてもらったり、何かを学習するのではなく、自分の頭を使って、自分たちで、じっくりと探究してみましょう。

新しい知性の使い方、心とつながる学びを「体験」「体感」できる機会です。

9月アスワンセミナー、参加者の感想の一部を紹介します。



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みんなの経験・考えを出して、一つのテーマを見ていくと、今までに自分にはなかった考え・見方に共感し合ったり、提案し合えたりして、その場の雰囲気がとても心地よく感じている自分に気づいた。

探究が楽しく、日常ではあまり使っていない頭を使っているせいか、テーマ「怒り」では違う疲れがあった。

人との関係性、社会との関係性、自分とは、幸せとは、考えとは、経験とは、キメつけとは、テーマを一つ一つ見て、考えてきたのだけれど、どのテーマも、生きて生活していく中では、どれ一つとして、一つでは存在していなくて、影響し合っているのではないかと感じた。(30代男性)



人や物とあらゆるものとの関わり影響し合いながら存在しているというのが見えた時、とても身軽になった感覚がした。自分ひとりでなんとかしようとか、そういうのから解放されていく感じ。

不安や警戒もこういうところから来るのではないだろうかと思う。

本来の幸せな状態は親しいと感じる人が幸せであってほしいと願う気持ちから探っていくと、その人がその人らしく安心した心の状態であって生きれること。

自分も大切な人たちもそんな社会で生きていけるといいなと思う。

そんな社会で育っていく子ども達は身につけていくものが違うだろう。

人は人の中で生きていく。

そものもがそのものらしく幸せに生きられる社会を創る一人となりたい。

小さなところから…。(30代女性)



沈黙の時間が心地良かった。

(私自身は)他の人の発言を聞いていたのか、いなかったのか、分からないけれども、聞いたこと(聞こえたこと)から、引き出される、自分の内側の言葉をおもしろいという風にとらえたのかも知れない。

テーマに添って話すわけですが、始めから何を話しても良いような雰囲気があり、緊張しながらも居ごこちが良いと思いました。

「親しい間柄」を普段の生活の中では、続けることは大変かもしれないけれども、「親しい間柄」について話し合える場があると分かった事は、とても心強いです。(50代女性)



幸せはお互いの事。

本当に何を願っているか見えづらくなる。

関係、関連の中で生きている。どこから自分といえるか、どこから自分の力といえるか。

赤ちゃん、生きているだけで影響している。

対立、対抗心、優劣感、劣等感は一時的なもの。

安心状態とは?

本当はどうありたいか。本当は・・・。発見の連続(探究)

人の中でこそ人として生きていける。

知識、経験、キメツケ、前提にならなくても残るものあるのか。

培われるという感じもする。

現状においてお金に囲いがないかというのはみえやすいバロメーターではないかと思う。

それが出来ているか出来ていないかという事よりその人の内面の状態。

調和を実現するには、・・・

そのものらしく生きられる社会、実現したい。知りたい。(20代男性)
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