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「本来の人生」って、心通い合う「一つ」の現われ

今まで生きてきた自分の人生の「実際」を振り返りながら・・・
探究会の輪の中で、何でも出し合い、「人生って何?」と探ってゆくと
怒りや争いのある「現状の社会」の中で作られきた各自の人生観に変化が起こり、怒りや争いの一切ない「次の社会」用の、やわらかくてふわっとした人と人の営み、人と心通わせながら生きる「本来の人生」が見えてきます。
2月20日~の「人生を知るためのコース」に参加した人の感想を一部紹介します。
IMG_20220308_102008.jpgそもそも人生を知るとは? 人生とは? 生きるとは? から始まる。
考えたことがあるようで、ほとんどない。
人とはどういうものか。

いま、自分から見た「人」は、形はそれぞれで個性があるけど、1面だけ硬くて平らな面があるかんじ。
自分を抑えるように、周りと同じように平らに整えた面を表に向けて、無機質にやることをこなしている。
「自分をどう表わしているか/見せようとしているか」とも言えるかな。
そうすることは、今の社会では楽かもしれないけど、本来の人としてはものすごくエネルギーを使うことだと思う。
本来の自分のやわらかくてあたたかい、ふわふわ(心)を大切にしながら生きたいな、人に対してもそうでありたいなと思った。

ふわふわ(心)をありのままさらけ出せるには安心が重要になりそう。
隔てのない間柄・隔てのない社会には、私もあなたも、敵も味方も、自然も人工も、良いも悪いもない、人が人でありながらすくすくのびのび生きて行ける世界が広がっていそう。

「私」とか「私の人生」とか言うけれど、そもそも「私」を作っている要素は計り知れない。
たくさんの人から受けてきたものがあり、自然や人や歴史や宇宙の中で作用しあって形成されてきている。
「私」は私であって、私ひとりではない。
「私の人生」は始まりも終わりもなく、私ひとりのものでもない。

私の人生は何をしようとしている人生か。
受けてきたものがあって、中には抑えたり隠したりしてきたものもあって、それらを知りながら、認めながら、自分のふわふわを大切にしてみたくてここにいるんじゃないかな。
人と人との間で、人として、自分のことも人のことも隔てなく大切に愛でながら、満たしあえる社会を創り、残そうとしているんじゃないか。
事柄ではなく。
考えたり予測したりする自分の脳が愛おしく思えたり。
そばに誰かいてほしい気持ちが出てきたり。
それをみんなにシェアすることができたのはこのコースの中で見えた変化の一つかな。

そして、こういう探究、同年代の仲間とやりたいなというのも出てきた。
なんだか人懐っこくなりそう
なるというよりは、もともとの自分に気づく感じかな。(女性20代)

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1~2日目のテーマにそって実際を観るということによって、自分、私というものは大きな一つのいのちのなかで成り立っていることを、改めて実感した。
私とそれ以外には、実際のところは境界線がない。
実際にはひとつしかない。
実際を観ていくと、私も現象の一つなんだなあ、常に変化しているんだなあというところに至って、なんだかほっとした。

細胞は常に変化して同じということはないし、細胞でできている私の身体は常に変化してるから、昨日の私と今日の私は違う。
身体の表面と内部には数えきれないほどの微生物がいる。
物質も空間もすべて素粒子だから、境界線はないし、だから、私とその人、私とそれとの境界線は実際にはない。
すべてが影響し合いながら変化していて、一つのいのちとして変化し続けている。

地球も、宇宙も、たくさんの宇宙も、すべて作用し合っていて、ひとつの動き。
私とか、自分とか認識してるのは人間だけで、それは脳の機能にすぎなくて、認識以前の実際には、私はない。
そう捉えると、私の人生とかというのはなくて、一つのいのちの営みが人生なのかなあというところに立ち至った。

よーく考えたら、実際を観るというのはとても自然というか、シンプルなことなのに、常に現象を見てそれに対応することを訓練され続けてきたから、現象が事実、実際のようになってしまっている。
だから、人間社会はとても息苦しくなってるんだなと捉えた。
生まれてきてからずーっと訓練されてきたから、実際を観るというのはとても難しいことになってる。

人と人の間に隔てがないと人は安心する。
安心してると、自然に「~してほしい」と伝えられる。
してあげると、相手の喜びを感じてうれしくなる。
そういう人と人との間のやり取りのなかに、見えないもの(エネルギー?)が行き交っている感じがする。
そうすることで、人の内面というスポンジが水を含んだように柔らかくなって膨らんでいく。
そして、それはすべてのいのちに影響し、波紋を拡げていく。
そんな様子がイメージされた。

これまでは現象を捉えて、考えで判断したり、感情が沸き起こってきたりしてきたけれど、現象の下にある内面はどうなんだろう? という関心を向けることで、今まで見えなかったものが見えたり、気づかなかったことに気づける感じがする。
自分の内面を観る、その人の内面を観るというのは、これまでとは違う新たな発見があって面白い。

これまでは自分の現象、人の現象を観るということをしてたけど、それは実際じゃなくて、そのさらに奥にある内面を観ることで実際がみえてくるというのがわかってうれしい。(女性50代)

istockphoto-171137516-612x612.jpg一週間をかけて人間という、人生という壮大なドラマを観てきたような感じがする。
そのスケールの大きさに圧倒された。
私が今、ここにいるという実際。
両親がいて、祖父母がいて、その祖父母にもそれぞれ両親がいて、、、。
一体、どれほどの人たちがいての自分なのだろう。
それに加えて、今を共にしている人たちの存在もある。
直接関わりをもった人も、会ったことがない人たちも。
そして、そんな私が生きている。
空気、水、植物、動物、微生物、もちろん、人間もいる、大きな循環の輪の中で、絶えずエネルギー(生命とも言えるのかな)を受け続けて生きている。

ほんのほんの小さな小さな私、とも言えるし、これまでも、この先も決して存在することがない私、とも言える、そんな私は、これからどう生きていこうか。
個体としての、残りの人生をどう生きていきたいだろうか。
私の本心は何を望んでいるだろうか。

光を好む観葉植物は、鉢の向きを変えても変えても、光が差し込んでくる方向へと、茎を伸ばしていく。
たとえ茎が曲がっても、光の方へと進んでいく。
これまでの自分の人生を振り返ってみると、現われは変わってきたけれど、大切にしたい何か、進んでいきたい方向があったような気がする。

私には心というものがある。
人が喜ぶように、満たされるように自分を使いたい、、、そんな思いが湧きあがってきた。
人の中でふわふわと、心のままに伸び伸びと、やれる分だけ楽しんで。
そんな感じかな。
安心して委ねられたら、そして隔てがなかったら、頑張ることも無理することも張り合うこともいらない。
一人だから、とか私がやらないと、の思いもいらない。

今回、20歳の〇〇ちゃんと一緒に参加できてとてもよかったな、 と思う。
みずみずしくて、柔らかで、若いっていいなとしみじみ思った。
ほぼ全ての人たちがフィクションを現実だと信じ込み、自分を、人を縛りあっている、この社会の中で、若い人たちの存在が、次の社会への大きな可能性、希望の光に見える。

私たちは訓練を受け続け、考えで固まって縮こまっているような実態だけど、それに気づき、少しでも人間らしく生きていこう、実際を知ろうとしている姿、そんな日々の姿勢が、若い人たちの希望に繋がっていくことができるとしたら、とても嬉しいことと思う。(女性60代)

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