自分を縛っている思い込みや、決め付けからの解放!

自分が普段何気なく考えていることや、していることなどを観察し、それをミーティングで出し合いながら、人としての自覚のある健康な状態を皆で探って行きます。
思い込みや決め付けから解放され、自分らしさ人間らしさを発揮できる、健康で心豊かな自分に成り合って行きます。
知性と心の育ちに焦点が当たります。
7月3日~の「自分を知るためのコース」に参加した人の感想を一部紹介します。
0953956878d84d16da0df57e913a45c4.jpg自分自身を縛っている、自分の考え と 事実実際は?
「これは何ですか?」その問いに自分の思考や体が一時停止する感覚になる。
2日くらいそんなことを繰り返した。
当り前に思っていたことの「事実」「実際」はどうなっているのか探究するうち、だんだん区別して「知る」楽しさに少し慣れてきたかと思ったら、時間をおくと私の思考はまた「事実」「実際」がどうなっているのかを忘れている。
繰り返し失敗する。
長い時間で培ったクセなのだから、そう簡単には手放せない。
でも実際、「知ってるつもり」になっていること「わかっているつもり」になっていることを、「知る」という探究の道にのせることは楽しいし、楽しいからまた思い出せるかもしれない。
余白がないなと気づければ「思い込み」に気づけるかもしれない。

また「絶対イヤ!」という発言に対して、「そうなんだ」と受け止める一方、実際はどうなるかな、こう言ってみたらどうなるかなと提案をしてみるという、「人と共に考え合っていける」という事例をいくつも知れたことがよかった。
知らない世界を知って、自分はどうなるだろう。
自分の現場で、このことを思い出して実践できたらと思う。(女性40代)
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自分自身を縛る事実化からの解放は、自覚のない状態から自覚状態に進んでいく事から!
初日は、自分を知るためのコースで、初めに「人間の考えを知る」から始めると。
その人間の「感覚とは?」で戸惑ったことを思い出した。

????が頭の中で沢山出てもやっとしたが、2日目は少しだけ感覚的に分かったような、そうでないような。
そして、自分の感覚・認識という状態には「自覚のある状態」と「自覚のない状態」に分かれるらしいと。
私は、前者を、レッテルを張っていない状態。
後者を、レッテルを張っている状態と書いた。
自分には、自覚のない状態の感覚や認識だらけだなと思った。
無自覚のまま自分が感じたことが正しい、自分なりの捉え方が正しいとしていた。
誰かが“事実とは理解が及ばない、分析もできないものと認識している”と言ったのを聞いて、ようやく少しだけ理解が進んだような気がした。

「事実・実際と記憶の関係は?」「(頭の中)意識上の事実化とは?」なども今思い出しても????がつく私がいた。
やはり言葉の意味の捉え方ができないので混乱した。
事実化とはどうやらレッテルを張った状態のようだ。
他の人に指摘されて、私は“この事実化という言葉に対して、即座に善悪の判断をして悪いもの”としていることを知った。

子供の頃の“怒られるのが恐いという経験”を通して、怒られないようにする方法として善悪の判断を使っているようだ。
これが私の事実化の例。
この発見は大きいと感じた。
普段自分がどのように見て、聞いて反応しているのか? 
自分なりに観察する目は持っているつもりだったが、それでは全く実際が見えていないことだろう。
徒労に終わる見方をしていたのかもしれない。

朝、窓の外に電線があり、そこに小さな黒い影が動いた。
何だろう? 実際は何? その実際を見ることができたらどんなに楽しいものだろうか。そう思えた。 初めての感覚。
「実際はどうだろうか?」を見ていくと、それに興味・関心が向く自分を発見した。
ある人が初日に「その人がどんな人なのかに興味・関心がいく」と言っていた。
それがどんなことを指しているのか分らなかったが、その朝少しだけその感覚に触れた気がした。
静かだが喜びの感覚だった。

見て → 感じて → 記憶になって → ここからどんなことが起こっているのか?
見て感じて、その受け取り方、捉え方はどうだろう?

ここがとても大事なポイントのような気がした。(女性60代)
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