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2023年、今年も よろしく お願いします

明けましておめでとうございます。
昨年も多くの方が、サイエンズスクールの色々なコースに参加しました。
各コースへの参加や、参加者の感想紹介などを通して、みんなの中で自分自身をそのままオープンにできる安心と、そのまま聴いてくれて受け止めてもらえる満足を味わいながら、今年も共に進んでいきたいと思います。
みんなで「一つ」を深めながら、「気づきや学びの世界」を拡げていきましょう。
どうぞ、よろしくお願いします。
12月4日~の「自分を知るためのコース」に参加した人の感想を一部ですが紹介します。
img3321_IMG_0274.jpg信じ込んでいるものがあるって? フィクションって?
僕の中では、約束は破らない方がよいってなってる。
もし破るのならば、それを埋め合わせる何かをする必要がある。
約束ってものが三次元的にあるわけではない。
頭の中にあるだけ。
だけど、縛られてるな~。
フィクションの世界だわー。
今まで意識してこなかった気がする。

自信のある人は「信じ込んでいるものがあるひと」。
この認識、目から鱗。
自信のあるひとが世の中的に良いと信じてきた。
信じ込んでいるものがあると、考えが臨機応変にいかなかったり。
どっちが良い悪い、でないとおもうけど。
新たな発見(男性20代)



かたくなに守り固執していたことが「人間の考えである」事を知るだけで、頑固や固執は解消されていく
自分を知るためのコースは自分にとって、基本だと思っていて、暮らす上で欠かせない、「考え」と「実際」をわけて見れる状態を土台にしたいと常日頃思っていて参加しました。
やってみると、自分の中に、不満の素や頭の中の固着部分があって、日々、検べるのが楽しみでした。

やれない、できない、言えない自分を検べてみると、やれないような動作ではないのに、どうしてもその先に進めない。
一歩手前で立ち止まってしまう。
想像さえできないとは、どういう事か。

この時の自分の状態を体験して、自分が、考えて理解したと思った事も、実際生身の方でそうはならない、考え付いた事(解かったー)と、実際の身体(脳含めて)とは別の事なのかと思った。
考え付いたものは、理解したと思ったことでも、ある種フィクションのひとつのような成り立ちなのか。

実際はどうか、自分の実際はどうなっているか、そして人の実際は、この世界の実際は、とあるのだろう。
目標の中で、実際に存在するかのように思いこんでいる諸々を「人間の考え」で作りだしたものと知ると、誰のどんな発言や行動もそのまま受け止めることができるようになりますとある。 
自分の考えであること、そして実際はどうか、が明確になっていくと、自分のああだこうだが抜けて、人が言っているのが、そのまま受け入れられるようになるという事だろうか。

信じる信じ込んでいるを調べてみて、悪いとしていたものが、観念的に悪者としたまま、目を閉じて見ようともしない、自分の頭で作った産物のような物だと思いました。
それで隔てを作っている。
目標のおわりに、かたくなに守り固執していたことが「人間の考えである」事を知る(本当に知る)だけで頑固や固執は解消されて、人はみな誰もが柔軟で穏やかになります。 とある。
争いのない への地道な道。

個性と頑固を一緒にしていたかな。
自分の中にある固まりを見つける、外にあると思っていた「おかしい」を自分の顕れという観点から観てみる。
自分の考えであるという自覚。
これを深めるには。 つづく。(男性60代)
水仙6.jpg
「考え」の事実化が自信を頑なものにする、自信がない生き方から「実際はどうか」と柔軟で穏やかな、柔らか頭へ!
母が「食器を水に浸けておいてほしい」と言うのを音として知覚する。
そうして私は、食べ終わった食器を流しに持っていき、水道から水を出して浸ける。
このとき、母が言った言葉以上のことを自分で解釈し、行動している。
そのままの言葉を聞いておらず、意味づけを行っている。
事実や記憶についても、あいまいだと感じた。

私の中の記憶はおもいだすたびに変化したり忘れたりする。
このように自分の認識を事実だと思っているが、それが人間の間で共有されると本当のことに思えてくる。

人間が事実化したにすぎなくても、本当のことのように怒りや悲しみに振り回され、実際が見えなくなる。
人間はこのほかにもたくさんのフィクションを作っている。
ルールや約束、法律、カレンダー、時間。
最初はより便利に、安心できる暮らしができると思ったのかもしれない。
でも、それらが事実だと思っていると、どんどん振り回されていく。

コース中にふと周りの人と自分を比べて、「分かっていない自分はダメだ」という反応が出た。
分かっていないからダメというのは冷静にみると飛躍していて意味不明だが、頭の中にわかっているのが正しいという絶対的な基準があるから事実のように見ている。
ものすごい自信である。
この中には「自分なのにわかっていない」とか「自分だったらできるはず」とか、根拠のない自信が存分に含まれている。
自分の見方に自信があるから、自分を責めることができるし、責められて当然と思っている。
こんなふうに自信があるというのは、変化を厭ってカチコチに固まって何かの折に正しさを振りかざすような、生きづらさの原因みたいなものである。

もし自信がなかったらどうなるのだろう? 
一般的な社会では、自信がある方がいいとされる。
けれど、どちらかというと電車のシートに座ってゆれに身を委ねている楽な状態のように思える。
自信があるのが反応に振り回されている状態(しかも止まっていて立派だと思っている)だとしたら、きっと自信がないのはもっとニュートラルな感じがする。
反応が出ても善悪の判断をつけず、実際はどうかを見ているような。
柔軟で、穏やかで、人に頼ることをいとわないで、どんな風にも変化していけるような。
どこへでも、何にでもなれる可能性を持っているような。

そんな自信のなさが、どんどん生きることや社会を作ることを豊かにしていくような気がする。
そんなふうに、生きてみたい。
どこまでも軽く飛んでいけるように。

このコースで、予定や規則や人の言動が「事実」とぴったりくっついていたのが、ゆるゆると離れだしたようだ。
自分の中に何度も地震が起きた(自信だけに)。
この自覚は、ひとりではなく一緒に考えていける仲間とやっていけそうな気がする。

縛っていた糸を優しくほどいていくように、固くなった汚れを溶かしていくように、少しずつ自分を知っていく。
解放していく。
わたしは、どうありたいのだろう。
本心から、生きてみたい。
少しだけ、行き先が見えてきた気がする。(女性20代)
吉田順一5.jpg
「人の中で」気づきが進み、「頭の中」の決めつけられてるフィクションに、解放が起こる
全体を通して、いかに自分が限られた認識の中からつくられた考えで世界を決めつけて見ているかということをより深く実感するような時間だった。
そして自分の反応を観察していくことで、自分の決め付けや当たり前に気付いていくプロセスは面白くて仕方なかった。
今まで気付いていなかったものがボロボロ出てくる。
そうやって自分の凝り固まったものに気付いて、取っ払っていくことは本当に楽になっていきそうだなと思えた。 
けどその難しさも同時にすごく感じた。
日常に戻って、反応が出てきたときに自分の内側を見つめていくことが習慣化できるのだろうか? なかなか一人では難しいと思った。

自分は何でこういうことを学んでいるんだろう? ということを考えて今上がってくるのは、①その時その時の自分に正直に、楽に過ごしていける②誰とでも家族のように親しい間柄になっていける③そんな間柄の人と、自分が好きな場所に住むという3つが自分の理想としてある気がする。

今まではフィクションの中で、特に自分が縛られていると思うようなフィクション(責任、規則、所有、資本主義とか)を悪いものだとして、それを変えようとしたり、それを守らなくてもいい方法や正当な理由を探したりすることで、それに振り回されないで自分らしく生きていくことを目指してきたように思う。
でもそれがそもそも振り回されていて。
そのフィクションが実際はどうなのか、自分の中でどう認識されているか、ということを見ていくようになれば、どんなフィクションがある場所でも、それに振り回されず自分らしくいられる選択ができるようになる思った。
とにかくこのプロセスが面白すぎたし、この学びはなんとしてでも継続していきたいと思った。(男性20代)
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