人のための社会を

人は寄り集まって、社会を作ってきました。

今も、これからも、社会の中で、生きていきます。

現代社会は、複雑化して、多くの問題を抱えていますが、

本当は、どんな社会が、いいですか?

まずは、じっくりと、自分の社会観を調べてみましょう。

「社会を知るためのコース」の参加者のレポートの抜粋を紹介します。



心は、いつでも正直だ。

心は、決して嘘をつかない。

考えで心を捻じ曲げるから、

「心でないもの」を持ち込むから、

おかしくなる、親しくなくなる、話し合えなくなる。

心に基づいて生きていくことができるのが「人らしさ」だと、私は思う。

中略

『人のための社会をつくる』。

「何もしなくてもよい」観点。

何でも言える、何でも聴ける人間関係で、気持ちを言う、気持ちを聴くこと。

必要なのは、おそらく、たったこれだけ。

どこかの誰かがやってくれるのではない。

そういう社会を望むならば、自分がそうなること。

そういう社会を望むならば、それを望む人と、なり合っていくこと。

私自身も、「社会」なのだ。(20代男性)



社会についてじっくり考える機会が人生で初めてやってきた。

今まで物事の本質とか、人間の本来性とか、やんわりその内容に触れて検討機会があったのに既存の社会観人間観の中でぐるぐる考えて訳もわからずただ道に迷うだけだった気がする。まぁ、それくらいの衝撃というか、すごいことやなぁ。

初日の「責めるとは」はとても重要なテーマでこれが解決すれば世界から争いが無くなると本気で思っている。

考えていくと「責めるのは良くない!」「責めるのはやめよう!」としても解決しないというのは分かる。何かもっと元にある人間観というベースからなんじゃないかというのが見えてきた。

中略

「社会は何もしなくてもよい」

何もしなくてもよいと本当に何もしなくなるのか。

お互いのやりたい気持ちだけでやる社会は実現し得ないのか。

もともとは人の集まりである社会において自分にも他にも強いて、社会にも強いて縛って、それで人を動かそうとする。人を動かすものはその人の意思でしかないのに、それを無視して奴隷のような扱いをする。そんな恥ずかしい行為。

これこそものすごく無理のあることなんだということが浮かび上がってくる。

何もしなくてもよいのだから、ものすごく楽だなー

やりたいだけだと、どんどんやりたくなるなー

どんどん検討したい研究したい感じだし

なんでも言ってもいいからどんどん言える感じ

やりたいことだらけ

楽しみだなー(30代男性)



一人一人が自分の気持ちと意思で動くだけ。

一人一人の気持ちを、感情を、考えを表明するのを妨げるものは何もない。

すべきことは何もない。何もしなくてもいい。

ただ自分の意志でやろうと決めたことをやるだけ。

気持ちは変わる。口に出してみると、誰かに聞いてもらうと、その瞬間に何かが変わる。誰かの話を聞くと、自分の心がそれに反応する。その人のやりたいことが自分のやりたいことになったりする。

これが「自分と人の心は一つ」ということか。自分の中に固定や隔ての無い状態というのはこういうことか。

こういう心の状態でみんなの思いや考えを出し合って、一緒に何かをしたら、どんなことになるのだろう。想像するだけでワクワクする。

僕がやりたいのは、まさにこれだった。(50代男性)
社会を知るためのコース | - |

心の成長

人には、心というものがありますね。「人としての成長」というとき、心の成長を、一番に見ていきたいものです。ところで、その「心」って、一体どういうものなのでしょう?「心の成長」とは、どういうことなのでしょう?

5月の人生を知るためのコース参加者のレポートから、一部を抜粋して紹介します。



   *  *  *



意識上では「幸せになりたい、一人では無理だから周囲の人と成りあっていきたい。本当に皆で幸せになるには何をしようか?」等々浮んでくる。実際の私は、私の意識に上がらないところで、何かをやろうとしているのだろうか? 

人間性を踏み台にして後天的なもの(価値感、常識、善悪、良し悪し・・・・)に踊らされて生きているのだろうか?

4~5才の時、大学病院で、重い心臓病や肝臓病の子をお世話する看護婦を見る機会があった。子ども心に「自分もあんな風にやってあげたいなぁ」と憧れに近い気持ちを覚えたことを思い出す。医師や看護婦、親といった病児を取りまく人的環境に安心していたようにも思う。

途切れることなく与えられることで得た安心という状態の経験から与える側になりたいと思う。それは意志というより心の成長という方が適っている感じがする。

与えられて安心、与えて安心。

授乳中ってこんな感じだった。

(50代女性)



自分自身の実態を知る。人に対して、ある人の行為を見ておかしい常識のない人と、人を裁いている姿、無自覚で人を自分の基準で裁いている。

思いの世界で生きるのか、変わらぬもの、内面(心)、事実、実際の方に行かない図式。

一人ひとりに意志があり、その人の内面(心)があるというのが欠落・自覚なし、相手を動かそうとしたり、とても不自由なことをしていたことに気付かされました。

大きな分かれ道、健康正常(本質)か、不幸に進むのか、その人の行動迄も阻止出来るという、そこまで行ってしまう恐ろしさ、もう終わりにしたい と それだけなのに泣けますね。

(70代女性)

                            

安心と満足について

人の心というものは、人の心によって、人の満足には、「自分のこうしたいといった欲求」が満たされるだけではなく、「人にこうしてほしいという要求」も満たされてこそ、満ち足りた状態になっていくと思う。

これからの子どもたちが、いつも要求が満たされる環境で育つことで、自ずと人の要求を満たしたい大人へと成長していく、そうなることで、道徳や権利・義務の要らない社会になっていくのではないかと思った。

(60代男性)
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自分の状態は、どうなっているのだろう?

私たちは、自分なりに、五感で捉えたことに反応して、暮らしています。捉えたことは、その時々のものだけでなく、過去に捉えたもの(知識や体験など)も大きく関係しているでしょう。

自分が、自分なりに捉えているわけですが、自分が捉えたことを事実、実際であるかのように思い込み、そこからいろんな感情が生じて、怒りや争いになっていることが多いと思います。



5月の「自分を見るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。



自分を見てみると、自分が見たり聞いたりしたことが実際のことのようになって暮らしているのがはっきりした。

ときどき修正しようとしているけれど、ほんとうにここのところをはっきり自覚することが、人と人のあいだの壁をなくし、親しい間柄になるための大事な要素と思えた。

ここのところがお互いにはっきりしたら、何を言われてもその人が捉えたことを言っているのであり、自分が捉えたことを言っているということで、同じと思われることを見ていても反応は異うわけだから、どうしてそう思うのかもっと聴いてみたくなる様に思う。

対立や争いのない社会はこの基本的な、子供にもすぐに理解できることを、実際に顕していくことかなぁ~と思う。(50代 女性)



自分が普段、何を見て反応しているか?

目に飛び込んだ物、手で触れた物・口で味わった物など一瞬にして、自分で、実際として、捉えてしまう。

事柄に追われて立ち止まって考える余裕がないと思っていたが、「事柄に追われる」は自分の中に実際あるのだろうか?自分の中で何かに反応して、そう思っているだけの気がする。

自分の外にある物に対して事実化している以上、自分の中にある経験・記憶・知識などに合わないと、不安になったり、相手を責めたりする、元になるような気がする。

「自分の中の反応だ」という自覚が必要ではないかなぁと思った。(50代 男性)



どんなにはっきりこうだとしてみたところで、自分独自の捉え方で反応しているだけ。<洗ってないお風呂>と、捉えた私の歴史が見える。(ちょっと大げさかな?)こんなこと考えていたら自分がいとおしいっていうか、かわいいなと思えた。自分独自と思えたら、なんか自分に興味が湧くっていうか。周りの人にもその人の一言に人生があるのかなと。

自分も人に対して重くなるのは、自分の中で起こっている自覚がない状態(実際になっている)からきているのかも?

探究会をとおして、明るく霧が晴れていくように心も軽くなってくる。自分の反応の事例を出し合って、笑いとばして、検べていくって楽しいな!こんなこと日常でやりたいなぁ。 (60代 女性)
自分を見るためのコース | - |

自分を知るとは・・・

まず、自分の言動を観察してみましょう。

自分の言動は、どうなっていますか?

じっくりと見てみると。。。

あら、なぜ?そうしたのだろう?

自分でも、不思議。知っている?つもりだった。

そして、なんと、知らない自分に気づいていく、心の軽さ、明るさ。

心の状態に大きく影響するように思います。

5/8~自分を知るためのコースに参加した人の感想レポートの一部を紹介します。





いろいろ思ったことはあったが、知ることができない実際があるように、自分の意識も知らない世界が広がっているのだろうと思った。

全て自分の感覚で、実際を知ることができないが、全て自分の感覚だとなっているのと、自分の感覚が事実実際化しているのは、大きな違いがあるような気がする。

また、自分の感覚だとなっていることと、自分の感覚だと思っていることも大きく違うような気がする。

そのためには、観察が大きなカギのような気がする。

そういう人達で出来る社会は、今までとは確かに違う社会になるなと思った。(20代男性)



自分独自の回路でしか、見れない、判断できない「私」と、まったく別個に「事実・実際」があり、どんなに詳細に五感を働かして調べたとしても「事実」にはならない。

他の人の視点・感覚・判断を、かき集めても、点の集合で「事実」そのものにはならない。 う~ん、なるほど。それでも拠って立つところは自分。 自分独自の回路しかないが、それはとても「自信」といえるものではなく、ここはどうしても「事実がわからない自分」というベースからスタートするしかなさそうだ、となってきた。(60代男性)



悲痛な気持ちでいっぱいになって、自分ではどうしようもない状態だと思って、涙があふれ出た。

ところが、そんなに悲しくて辛い感情というものが、事実・実際を見て反応したわけではなく、ただの自分の認識の世界に反応したことにすぎないと感じた瞬間、「なんだ、そんなことだったのか?」とフッと軽くなってきた。あくまでも自分の感覚、認識、記憶であることに対して、泣いたり笑ったり怒ったり苦しんだりして来たのだったのか。そんなバカなこと、いつまで繰り返すつもりなんだ、、、と思った。

(中略)

認識って、また新しい経験や考え方によって変化を重ねて行くものだろうし、それに応じて反応もまた絶えず変わって行くものではないだろうか。 そして、その反応というのが実際をベースとしたものではないことが明らかになると、どのような反応だとしても、より軽く見て行けそうな気がした。実際ではない、自分の認識によって起こる反応の世界の方じゃなく、実際の世界はどうだろうかと、関心の方向が変わるではないだろうか... 再び希望が湧いてきた。真っ暗な夜の世界から明るい昼の世界へ、一歩、踏み出した、と感じた。(30代女性)
自分を知るためのコース | - |

知るためには・・・

「当たり前」「当然」としていると、そのものの成り立ちや背景を感じたり、知ることは難しいでしょう。ですが、人には、もっと知りたいという知的欲求があるように思います。



5月の連休に開催した<サイエンズセミナー>、参加した方の感想の一部を紹介します。



参加してみて、自分が日頃、周囲から感じる優劣や思い込みから動けずにいる状態だということに気づきました。自分がそういう状態にいると気づくと怒りから解放されたように感じます。自分という存在は今までの積み重ねからの視野でしか見ることができない。当たり前ですが、その当たり前になかなか気付かない。だから他の視点やその姿勢になれたとき、人の話を聞くことができるんだなと思いました。(40代男性)



普段は深く考えることのない『テーマ』、例えば、怒り・自由・所有 等を用意して、その事を誰かの考えを説明し、教え悟すのではなく、参加した各々の考えを出し合って、本当のところはどうなのか? 実際のところ、どうなのか? と見てゆくことは、話には聞いていましたが、体験すると「こんな面白い事はない!!」と感動しました。(40代男性)



・「あたり前だ」と思っていたことを探究して行くと、思いこみ、決めつけに気付き、それが外れると色んな気づきが生まれた。

・「思い込み」「決めつけ」が思っている以上に多くて驚くとともに、これを一つずつ外して行くことで、今まで出来ないと思っていたこともなくなり(出来ないということさえなくなり)←思い込み  何でもできるようになるかも! と思うとワクワクした。

・「知識」と「知ること」とは違うと思った。知識を増やすことはいいことだと思っていたが、逆に知ったつもりになり、そこで考えることをやめることになったり、逆に「~しなければ」という決めつけを増やしていたということに気付いた。(40代女性)
アズワンセミナー | - |

人生とは・・・

人は、生まれ、そして、生きる。

今を生きている。

ちょっと立ち止まり、落ち着く時間を持って、人の中で自分の人生を振り返ってみると、何が見えてくるのだろう?

4月の「人生を知るためのコース」に参加した人の、感想の中から一部分ですが紹介します。



普段、自分が考えているのは「意識上の自分」。

「実際の自分」はどんなだろう?

いろいろ思い、考える自分、感情や欲求・気持ちと連続射撃のようにどんどん出てくる、その自分をなんとかしたくて、おとなしくしたくて苦労していたのだが、それは「意識上の自分」であって、もっと内面に「実際の自分」がいるのか?

父と母の間で芽生えた命が、その生命力が消えずに今に至っている。

コースを通して、内面(心)・人について・心について・人の成長・人間性・人間らしさと検討してきて、私の中にある 心をおもう。  感じる。  まちがいなくある。

普段は、いろんな欲求や考えに忙しくて、見えなくなっていたり、捉え方で心にまで関心がいかなかったりだが、心がある。

不安をとり除いてみたら、安心、自分は安心していると思った。

無いものをみて、不安や怒り、疑いをふくらます方向から、有るものでやる生き方を強くしたい。

その回路を太くしたい。

(60代 女性)



○○○さんは、心のことを「デリケート」な部分と呼んでいたが、周囲社会からの影響で、どのようにでもなってしまう点では、そうだなと思う。

親をはじめとする周りの人間達から・また自然界からも、無数のものを吸収して、心は成長していくのだろう。

身体が常に正常健康であろうとするように、人間の心も絶えず正常健康な方向に向かっているのではないか。

死刑囚、永山則夫の例も出ていたが、劣悪な環境の中で気持ちが荒み、殺人を犯していまった場合でも、元の心迄そうなってしまったのでは無く、人間的な働きかけの機会などがあれば、正常健康になろうとして、人間味のある心に回復していく。

そういう意味では、人間の元の心は、とてもしなやかなのかもしれない。

人間らしいということは、何より、その人間の心が豊かに成長していくことだと思う。

心が満足している状態というのは、周囲環境から愛情がいっぱいに注がれ続けて、そうなるのだろう。

特に生まれたばかりの、赤ん坊は、受けるばかりだと思うが、心身の成長につれて、受けるばかりではなく、すること・与えることによっても満足を得るようになっていく、それが、豊かな人間関係、人間社会にも繋がっていくのだと思う。

(略)

「人間の心」でも、そこから現れた思い、考え、意志、感情、欲求、気持ちや行為言動の方に、知らず知らず重きを置いてしまうのだが、そういう「意識上の自分」を「自分」だとしていることが、ほとんどだと思った。

日頃は目を向けない「実際の自分」の方に焦点をあててみると・・・・

実際に、自分が今ここに生きているということは、生きるための条件が何十年にもわたって、一瞬一秒も途切れることなく、あり続けたからだと見えてくる。

それだけでも奇跡みたいなことなのに、生まれ時には「生命力」というものまで、タダで宿してもらっている。

(略)

自分自身が、元の心を成長させながら、もっと自由に豊かに生きていきたいとも思う。

悩みとか、不安とか、ほとんどなくて、とてもシンプルな心の状態だった高校時代のことを思い出したりもした。

心を成長させていくには、どうしても周囲環境が大きい。

心に重点を置いて、お互いに育ち合っていける社会が無くては始まらない。

自分の命が終わっても、次の世代・次の世代へとつながっていくことが出来たらと思う。

(50代 男性)

                        
人生を知るためのコース | - |

観察 そして 自分に問う

 「自分を知るためのコース」では、「どんな自分だろう?」 というのもありますが、そもそも「自分」とは、なんだろう?どうなっているのだろう?と、観察することから始まり、観察すると、「なぜ、そうなったのだろう?」と、もっと探ってみたくなります。



4/3~9の「自分を知るためのコース」に参加された方の感想を少し紹介します。



小さい頃、おばあちゃんに「なんで?」を連発していた。

「なんで?」と聞いて答えが返ってくると「それは、なんで?」と次へ次へと続く・・・。たまらずおばあちゃんが言った言葉が「ごんぼ掘り!」。もちろん私は「ごんぼ掘り、って何?」と聞く。「ごんぼ掘り」とは、掘っても掘ってもなかなか先に届かないごんぼ(ごぼう)を掘る人のことで、「それは、なんで?」と際限なく聞くのは「ごんぼ掘り」みたいだ、ということだった。

あまり「なんで? なんで?」と聞くのは、大人を困らせることらしい、ということがわかり、だんだんと「なんで?」と外に発することは少なくなった。しかし、自分の内に「なんでやろ?」という自問は大人になっても続けてきた。

これまでも、これからも、続いているこの「ごんぼ掘り」が、今の私のベースになり、今私はここにいるのだろう。 さあ、さらに掘り続けてみましょうか・・・。

(60代女性)
自分を知るためのコース | - |

探究心を培う サイエンズセミナー

3/19~24で、サイエンズセミナー開催しました。

ここで、出会った人たちで、寝食をともにしながら、「どういうことだろう?」「なぜだろう?」「ほんとうはどうなんだろう?」と、自分の頭を使っての、探究する5泊6日間。

参加された方の感想の一部を紹介します。



日常に埋もれていた感覚を呼び覚まされることとなった。

怒り・自分とはなにか・自由とは・所有とは…

もうすでに解っている、と思っていた。

錆付き、薄れ、頭だけの事柄になってしまっていたことに気付かされた。

(60代男性)



コースの前半、「私は見た。」「彼はそう言った。」など、解釈とか判断などが、あまりないと思っていましたが、そのものに対して思いをくっ付け、事実にいくつも観念をくっつけている、という事に気づき、ゼロポイントから見るのは不可能で、いつも古い先入観が着いているのに気づきました。(略)

一連のテーマはどれも興味深いものがありました。

歩きやすい道筋を、一歩一歩、軽く楽しく造り出していくようで、最後に具体的にこの結果を見ると、この過程を生きている人達を見て、インスピレーションが湧いてきて…自分には何が出来るのだろうと考え始めました。

テーマに対してもそうですか、参加者達との交流・合宿生活も、軽く感じました。決めつけない、決定しないというのは、何か具体的でなく、一見不安定なようですが、人は常に変わって行くという事を実際とする方が安定していると思いました。

(40代女性)



何度か、何について考えたら良いか、わからなかった時がありましたが、そういう時もゆったりと他の人の話を聞くことができ、とても楽しかったです。時折、「これは説明しすぎだな~」とか、「それについてはもう考えたことがあるな~」とか思う場面があり、これではインサイトはこないな~とか思う時も、最後にはいつも新しい気づきがありました。特に力むこともなく、探究が行われました。

テーマ一つ一つに対して出てくる気持ちをはっきり観察することができ、その気持ちは自分の中から出てくるということを洞察することができました。テーマと「格闘」したのではなく、ただ「探究」したのでした。

例えば、私の「嫌いなもの」は、ただの「もの」であり、「私のカバン」は、ただの「カバン」である等、実際を「そのまま」見ることでき、それは開放的でした。

自分の「嫌いな気持ち」、「私のものと思う気持ち」等、感知して行くということが、強く印象に残りました。自分の中にあるものをもっと自覚して行く、もっと自分をケアしていく、より自分自身を尊重する、…やさしく…。。

他人事で無い、やさしいシンプルな社会。蓄積と契約(これは私の物、保証された物)に安心を求めるのではなく、安心を人との関係の親密さに構築して行く(本当の安心)。

サイエンズについては、「真の人間とは」を探究し、真の人間として生きていく。

これからは本当に大事なものを大事にしていきたいです。

(20代女性)
アズワンセミナー | - |

分かったりすることはできない自分を知ることから始まる。

幼い子どもを見ていると、見る・触れる・聞く・舐めるなど、身の回りの物、人に飽きずに向かっていきますね。「これはなんだろう?」と、知ろうという、知性が働いているように見えます。

知性は、人の意欲や認識する能力のベースとなっているのではないでしょうか?

人には、心があって、この知性もあわせ持っていると思います。

人間らしく生きるには、この知性がポイントになるように思うのです。





自分を知るためのコース(2015/12月)感想レポート



コースを通してひたすら意識するようになったのが、「自分の頭の中の概念や想像、記憶、感覚、想い」と「事実・実際」の違い。

すべては自分の頭の中に事実・実際があると思い込んでいることからおかしなことになってしまったんだなぁと思う。



”目の前にある美しい花”も”困っている人”も、自分がそう思っているものとは次元の異なる実際がある…。

まずは五感で感じてINPUTした時点でただ在る存在が美しい花になったり、困った人になったり、様々な解釈を頭の中でし捉え、それに判断を加え、ときにはOUTPUTとして、悩んだり、怒ったり、しなければいけないことをキメたり、よく頭を使ってきたなぁ…。



これまで、頭のなかに事実と思い込んでいる知識や経験を詰め込んで、行き着いたのが、世界を知っている、その人を知っている、自分を知っているという思い込み。

また、分かっている、分かるはずだという思い込み。

おそらく次元の異なる事実・実際を頭で知ったり、分かったりできるはずもないであろうことにも気づかなかった。



そしてもう一つ。数学的思考法のAだからB。

なんとも分かりやすいことだが、実際の世界ではどうやらそんな単純になっていないようだ。

BのためにはAだけでなく、世界の実際のあらゆるものが関係してBとなっている。

例えば、自分が電気を点けている。自分が稼いでいる。自分が生きている…。

自分で何でもできる、していると思っていたが、自分ができる・していることは世界のほんの一部なのに。ある意味傲慢な考えであったと思う…。



自分で自分を縛っていることも目からウロコ。

朝何時に起きるか、仕事に何時に行くか、何をするか、しなければいけないか…。

やりたいことがあって決めたことでもいつの間にか、自分の心よりも頭で決めたことを守るために実際を合わせていく。

こんなことを当たり前のように自分に、人に強いていたなぁと。



最後に、自分を知るためのコースを終わってみての総括として…。

思うに、(実際の)世界を(自分の頭で)知ったり分かったりすることはできないが、知ろうとしたり近づいたりすることはできるということ。

思うに、(実際の)人の心を(自分の頭で)知ったり分かったりすることはできないが、知ろうとしたり近づいたりすることはできるということ。

思うに、(実際の)自分を(自分の頭で)知ったり分かったりすることはできないが、知ろうとしたり近づいたりすることはできるということ。



そしてそれらに対して、分からないからこそ知りたいという関心がでてきたということだと思う。

これまでへんてこなことしてきたな…。

そしてこれから面白いことになりそう…。

はたして実際はどうだろう…。これから、試みはじめてみよう。

(30代 男性)
自分を知るためのコース | - |

「知る」~人として生きる営み~

朝起きて、お母さんだったら、家族の朝ごはんやお弁当をつくり、子どもを学校に送り出す。それから、仕事に行ってと、日々の暮らしの営みが、人生でしょうか?

どんな生き方がしたい?どんなライフスタイルを望んでいる?のかと、自分でもいろいろ情報を得て、探したりしますが、「自分は、本当は、なんのために生まれてきたのだろう?」「本当は、なにがしたくて生きているのだろう?」と、ホントウに、知りたいことは、もっと、なにか、あるように思うのです。

「人生を知るためのコース」(2015年11月)に参加した感想レポートを紹介します。









おもしろかった~



人、生きるって、どうなっているか、



探るさぐる~

ずっとやりたかった!ひとりではできんかった。

ゆっくり座って、じっくり1週間も!

こうやって、今も、生きてる、この実際が、何かを。



探ったったで~!

やった~!



生きてる実態(実際)、体の実態(実際)、心の実態(実際)。

みんなで、あーかな?こーかな?



生きてる実際ってものすごい。

地球、宇宙規模から体の原子レベルのことまで、

つながってく、つながってく・・・

生きてる実態。



見えない。あるのはわかってたけど・・・。

地球から人、人のなか、体のなかみ、心のなかみ。

みんなの体験や感じたことを出しながら、ふむふむ・・・



わたしは、心のなかみがおもしろかった。

あれ?心って、そもそも安心してるやん、幼かった自分、安心してすべて委せきっていた自分。

それがいろいろ経験から予想したり、やらにゃならんって、安心が見えなくなったりする。

安心は、そもそも、心に備わってるやんって、実感した。



うわぁ、力抜けるわぁ、 ほわぁ~

こんなん、なんも要らへんやん。



こやって書きながらまた嬉しくなる。



心の作用、満足、満たす満々な状態、満々にしたい作用。

自分ひとりでは満々にはならない。

自分は他から全て、もらってる。

そうやなぁ~。ほんまそれあるなぁ~。



心がある。体がある。人が生きるとか・・・

そやけど?なにか?みたいに正体不明やったし、



実際は?とか思っても、はて?みたいに焦点をどこにやったらいいかわからなかったけど、

あてるところを見つけた感じがする。



私のあたまに新たな風がはいって、知るってすごいと実感した。



今、ほんま、そやなぁと思うことも、生活の中で、また、心の作用を実感したり、

また、そやなぁって、実際を見ながら噛みしめたりしたいなぁ。



検討会中

何度もじわじわ涙が、出そうになった。

自分の心の作用、元気でいよういようと、してたんやなぁ。

子どもたちも、けなげやわ。

わたしって、暖かいんや。

みんな暖かいんや、うれしいよぉ~



自分は今も意識のほうでいろいろあるけど、

実際のほう、あるから安心して、

ゆっくりぼちぼち生きますから、

実際の心、実際のほう焦点あてながら・・・



あ!意識の中のいろんな話、あふれるほど、あるけど、そうゆうのより

実際のこと探っていくほうが、幸せへの近道かもしれないなぁと、今、思った。



ぼちぼち、生きまっせ~、やりまっせ~。



あ~ちょっと自分の頭ン中、整えれた感。

レポート嫌いやったけど、

書きだすとおもしろいなぁ

(30代女性)
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