足るを知り・味わう、暮らしへ・・・・。

この毎日、心から楽しく暮らしているだろうか?
人の安心や満足は、どんな状態なのだろう?
母乳を飲む赤ちゃんや、母乳を与えるお母さんの満ち足りた心に思いを馳せる。
言葉の前の、感情や気持ち、人の心を知りたい。人の心の声を聴きたい。
8月18日~「人を聴くためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。
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言葉の性質を知らずに起こる、知ったという勘違いは
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言葉を通じて感情や気持ち、考えを伝達する。
言葉は非常に具体化された表現方法という考えに、言葉を聞いて、認識された言葉にその人の考え方や気分、感情などがあると思っていた。
しかし、言葉というのをよく知らずに使っていたことを気づくところからコースが始まった感じだった。
相手の言葉を聞いて、同一の性質だと捉えた私の中にカテゴリーと結びつけて、認識されるプロセス。
そのカテゴリーがどのように分かれているかによって認識されることも変わることが新たに感じられた。
韓国語ではウチワとセンスを同じ言葉「ブチェ」という。
しかし、日本語でウチワとセンスを分類して言うことを知ってから
「ブチェ」を見るときウチワか、センスなのか分類してみる方式が私の中に新たにできた。
各自の中に分類されたカテゴリーに言葉を認識するのが見えてきた。
しかし、知識や経験などによって各自のカテゴリーが異なるにもかかわらず、言葉を聞いて'知った'という勘違いが、 その人の中にどのようなことから言葉が出たのかに関心が行かないようにするんだという気がした。

"エルサドレスを買って"という甥の言葉を聞いて、エルサドレスを買った。
甥の言葉を聞いて何かを満たしてあげた感じがしたけど、今振り返ってみると、甥に関心があるというよりも、甥が言った言葉に関心を置いた。
話を聞いて、物や行為を通じて豊かにする方向に向けがちだが、感覚的に豊かにする行為はその瞬間の快感はあるだろうが、 すぐに再び感覚は消え、再び感覚的に満たそうとするパターンに陥りがちになってしまう。
そうしたら、満たし、満たして受ける行為に執着するようになる状態になっていくかもしれない。
行為以前に本当にその人に関心を向けた状態が本来の人と人が満たされる状態で行ける道かな? よく分からないが、一応ここにポイントを置きたい。(30代女性)

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相手が発する言葉の前のものへの興味・関心は?
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聴くということを調べていく中で、改めて言葉になる前のものがあって言葉が出てきていて、聴く側はまず言葉が聞こえるのだろうけど聴くということは言葉を手掛かりに言葉になる前のものに目を向けることだなというのが浮かんだ。
現状は言葉になる前のものに目が向くのではなく、聞いた言葉に大きく目が向く構造になっているように思えた。
人が満たされるというのも、肉体的な面は食べ物などで満たされるようにも思うけど、心はというと人の関心を受けることによって満たされるように思う。
体で言うところの酸素のような要素かもしれない。
人を聴くためのコースに入る前に社会を知るためのコースや集中研究会を経て、人が安心して満たされるということが人にとってとても重要な要素だなというのを思い、人を聴くという要素が大きいなというのを思った。
本当は人と人は常にお互いの独自の世界同士が聴き合うことによって交流しあってるのが正常で健康な本来の姿のようにも思えた。
それは言い換えると精神面も一つの存在という人の姿が少し自分の中で浮かんだ気がする。(20代男性)

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相手が何が言いたいのか聞けないのは、なぜだろう?
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今回コースの参加した目的は 、相手が何を言いたいのかがキチンと聴けて、尚且つそれに対して的確な返答が出来て、本当の意味での「話し合い」が出来る自分になりたいと思って参加しました。
今回やっとその本当の「話し合いとは?」ということが分かったような気がします。
というか、「なぜ今まで私の聴くが実現しなかっただろう」ということが分かった。という表現が適切かと思います。
それが実現しない「4つの原因」を具体的に丁寧に探っていく中で特に自分に当てはまったことは、「聞くこと」と「やること」の癒着、そして「聞くとすぐに自分の見解を言いたがる」という癖でした。
良かれと思い自分がやっていたことが、実はその人の本当の心を理解していない(聴けてない)が故に、相手の依存を増長し結果的に双方が悲しむ結果を生み出していたことに気づいたときは愕然とした。
またそれを繰り返すうちに私の人間不信が深まっていったことにも気づきました。
その瞬間瞬間に相手の内面(本心)に意識を向けて聴くことができていたら、このようなことも起きなかったろうと深く感じました。(50代男性)

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聴くと心の関係は? 人の満ち足りるとは?
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次の日の午前中、「言葉とモノとの関係は?」を検討していると、ますます娘の言葉ではなく気持ちを聞いてあげたいという気持ちが起きて、スッタフさんに電話したいと言ってみた。
スマホを持って来てくれたので、電話してどういう風に不安なのかをじっくり聞いてみた。
娘はだんだん安心したらしく、
「お母さん、聴いてくれてありがとう」と3回も言っていた!!!
このことを、電話を切ってから、思い返していると、じんわり涙が出てきた。
今「聴く」コースにいることを知ってるわけじゃないのに、「聴いてくれてありがとう」と3回も言ってくれたなー、安心してくれたみたいで、私も安心したなー。
なんで涙が出るんだろう。
言葉に出来ない感情が心にあるなーと思った。
3日目に「なぜ聴くが実現しないのだろう?」というテーマをじっくりやっていくうちに、早く実践したい!という気持ちでいっぱいになった。
そういう訳で、4日目の夜、無事に帰宅して、娘や夫の話を聴いた。
とても おだやかで満ち足りた時間だった。

そして翌日の午前中。自分の店の仕事をして、猫の世話して拭き掃除、片付け、掃除、たまった洗濯もして、銀行と郵便局と動物病院に行こうと用意をしていたら、娘が「行きたくない」とぶすっとし出した。
早速、聴くモード。
するとすぐに機嫌がおさまった。
すごい。
その後、「お母さん、これ見て」「お母さん、耳かきして」などなどをこなすうち、遅い朝ごはんを作ろうとしていたのが、いつのまにか12時になっていた。
リビングは娘のもので散らかりっぱなし。
だんだん、余裕がなくなってきた。
さらに、仔猫の1匹が、吐きはじめ、様子がおかしくなってきた。
病院に電話するも、昼休みで15時まで連絡がとれない。
15時になってすぐ電話し、連れて行くことにした。
郵便局で発送する仕事の荷物があったけど、慌てていて、家に忘れて来てしまった。
家に帰ったのが17時半、すぐに荷物をもってまた山を降り、夜も開いているちょっと離れた郵便局まで行き、戻ってきたら夕食の準備が待っている。
疲れた・・・。
完全に聴く余裕を失ってしまった。
そこから寝るまで、いつも通りに、片付かない部屋にイライラし、片付けない娘にいつもと同じように小言を繰り返すはめになってしまった。
頭では聴けてない、聴けてない、と分かってはいても、私の心が満たされない状態になっていると無理!ということが判明した。
そうかー、そこはコースではやらなかったもんなー。早速実践で、そう簡単にいかないことが分かった(笑)
その後、仕事から帰ってきた夫に、1日の出来事を聴いてもらったら、心が少し回復した。
そうすると、娘の話も聴くモードになれた。
聴く、には、自分の心の状態も大事!!!これ大事!!!(40代女性)
人を聴くためのコース | - |

歌にも歌われている、世界は「一つ」、自分の中を探ってみると・・・

「太陽の周りを地球が回っている」という、観察によって、実際の宇宙を捉えようとしてきた歴史が垣間見える。
「明日は晴れるでしょう」天気予報士の言葉にも観察の世界が感じられる、観察の世界に怒りや不安は存在しない、どうなっているのだろうか? どういうことだろうか? 謙虚に実際の世界を探る姿勢を、人間に・自分自身に向けて探っていくと、観えてくるものが・・・・理の世界の中に、存在する人・社会・・・
8月26日~開催された、「一つ」を実現するためのコース参加者の感想の一部を紹介します。
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私の中の、固定や隔てから生じる自分の心の状態は?・・・
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終わってみての感想を一言でいうと、「まずは私から」ということにつきる。
「as one 一つの社会」のテキスト中には「心の状態」という言葉がそこかしこに出て来る。
自分でも最近この言葉に焦点が当たりだして、自分の「心の状態」に関心が向けられるようになってきていた。
そして自分の場合、姑との確執から解放されて心の状態は健康になったと思い込んでいた。
ところがどっこい、不健康な心の状態が出るわ出るわ、、、夫とのことで、また研修所での暮らしのことで固定や隔てから生じる自分の心の状態があらわになって来た。
責めたり、疎外感だったり、警戒心だったり本来の人間にはないはずのものが、ぞくぞくと出て来た。
今まで意識上に上らなかっただけで内在していることが初めて自覚できた。
それまでは、あって当たり前という意識でもあった。
「心の状態」を分かったつもりになっている自分だったなと思う。
人類史から見ると、そういう「心の状態」を作り上げてきた歴史でもあるわけで、言い換えればフィクションを共有してきたのだ。
実際あるものに目が向けられず、ないものばかりを追いかけてきた空しい歴史とも言える。
実際にあるものの豊かさを私は何にも知らない。
知らなさすぎる。
目が曇ってしまって見えない自分だ。
その目の曇りは自分ひとりで取れるわけもなく、「一つの社会」を志向する人たちと手を取りながら明るい豊かな愛にあふれた社会を目指して進んで行きたい。(50代女性)

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本質的なものが実現しないのは当然な状態って?・・・
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自分の不健康な心の状態が次々と明るみになってくる。
それも、大笑いの安心の輪のなかで。
不平不満があれば、それをなんとかしなくっちゃ、問題があればそれの手当をしなくっちゃ。
不平不満を言う人がいないように、疎外されたという人が出ないように、みんなが明るく元気でいられるように、「人を大切にしなくっちゃ」でも、やっていることは不健康な心の状態の現れを肯定して、相手の機嫌が悪くならないように、機嫌良くやってもらえるように、そのことに力を入れている。
本質的なことよりも、表面的な優しさで繕って、不平不満も安心して出せる職場 とか、
休みたい?いいよいいよ とか、そんな風に言われたの?そりゃ相手が悪いわ不平も出るわ とか、そう言っている人の「心の状態は?」といけない、不平不満があることを肯定している、疎外感のように実際にないものを外にあるとしていることを肯定している
本質的なものが実現しないのは当然な状態
そうなってしまう、自分の心の状態に気がついていなかった、観ようとしていなかった、
「良くない」として、蓋をして気付かない振りをしたり隠したりしてた
大きいのは「不安」な心の状態(40代男性)

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不健康な心・健康な心・・・人間の考えとの関係は?・・・
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健康な心の状態とはは何か? 自問 自答、どうやら”人間の考え”が、影響している。
既存の常識としている人間の考えのままでは、うまくいかない・・ のだ。
日頃、”対立感情の火種”になっている。(不安、恐れ、劣等感、焦り)、健康な心は、理にかなっていこうとする”人間の考え”がベースとなり、それが、”人”と”社会”の本来の姿を明らかにし、そして、実現につながると。
自分の考え、常識、観念が、心の状態に影響している。
なぜ、自覚が大事か、何を焦点にしていきたいか?
何が、不健康にさせているのか?
探っていきたい、自覚のイメージが変化した感じである。

話のテーマはこの視点も必要になるのだろう~
それが、自覚の焦点、ハッキリと自分を知ることになるのか?
固定や隔ての無い”心の状態” 
社会は一つ  理とは
○固定しているものは何もない
○単独で存在しているものは何もない
2つの 何もない えっ たったこれだけなのか? といった感じである。
この理を いいかえると ”あらゆるものは一つ” となるらしい、空気は一つ、水は一つ、地球は一つ、宇宙は一つ・・??・???
今回、自分はどれだけ、理解できたのだろ~(50代男性)

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体も心も「健康な状態」へ、大笑いの中で・・・
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鈴鹿に通い始めて4年目。
コースに参加するたびに、新しい視点や世界が観えてきて、自分自身が軽くなっていく感覚が好きだった。
戻ってからもスクールを体験した友人たちと、「自分を調べたり」「検討したり」する場を続けてきた。
それをやっていたら、何となく「サイエンズ」をやれている人になっていける感じがあった。
でも、今回のコースを受けてみて、それが大きな勘違いだったなぁ! と今衝撃を受けている。(笑)

すべてのものにとっての「理」が本来あるということ。
それは人の考えとかではなく、もともとの本来の姿。
その「理」のベースの上に、あらゆるものやこと、現象があるということ。
あらゆるものの「根幹」
人に関していえば、体も心も「健康な状態」~理に適っていれば、人と人は誰に対しても親密で、心もオープンな状態なのだろう。
幸福ととりたてて言わなくても、ただ「ある」だけで、幸福なのだろう。
そのことが、このコースで観えてきて、「ああ、このことに気付かずに、今まできたんだなぁ、この根幹なくして、検討会とか自分を調べると、やってたんだなぁ」と。
自分の中にある「悪感情」に蓋をして、「かりそめ」の幸福を幸福と捉えて
生きてきたなぁということ。
「悪感情」に気づいても、それは個人的なことで、自分で何とかするもの、としてきたこと。
けれども、それも「不健康な社会」の中で、身についてきたもので、個人のモノでもなさそうだということ。
まずは、自分の悪感情に気づいて、「こんなのあったんですよ~!」と軽く出せるようになったらいいな。
今回のコースの中でも大笑いな中で、出し合えたように。
そうすれば、社会はもっと生きやすくなっていくだろうな。
人はもっと伸びやかに、本来の人らしく「健康な心の状態」に、なっていくだろうな。
そんな社会で生きていきたいし、そんな社会をつくっていきたいな。
そんなシンプルな思いから始めたい。(50代女性)

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変化の中・繋がりの中に、「一つ」の実現への道が!
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1つの実現…あらゆるものは、ひとつであり、固定しているもの、単独で存在しているものは何もない…という「理」に適った本来の姿に立ち還る(ゼロ)こと。
アズワン鈴鹿コミュニティは、ただただこれを実践しているのだ!ということが腑に落ち、とても元氣をもらった。
真理、理、ピュアなものに触れると、人は元氣になる。それを体験したコースだった。
そこで、重要になってくるのは、1つを実現するための人的環境であり、それはいかにコアな根幹をなす人が健康な心の状態を維持して、ブレない人たちになりあえるか、ということ。
そこを基点=スタートラインとして、1つというのが成り立つのだそうだ…いろいろな失敗談などを聞いたり、検討したりしてみて、きっとそこが難しい部分なのだと、想像できた。
もともとすべては1つなのだから、(みんなで)(一緒に)などという必要がないのだ、ということが身に染みて理解できた。
あとは、とりあえずSmile MAPやまぐちの3人で根幹な人的環境を整えたいと思った。(40代女性)
「一つ」を実現するためのコース | - |

地に足ついた、幸福な人生を生きているだろうか?

人は、生まれて自分の人生を生きる! 
どこからどこまでが自分と言えるものなのだろうか! 
ここからが自分・これが自分だと、厳密に区切れるところがあるのだろうか? 
つながりの中での存在、人にやってもらったり・甘えたり、ゆっくり観ていくと、人の中で安心出来る性質が観えてくる。
人は生きて、何する生き物なのか? 
8月12日~の人生を知るためのコースに参加した人の感想の一部を紹介します
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これまでも、自分が何者かを知るために色々な所へ行ったり、色々な方たちにお会いして自分なりに探究してきた。
今それを思うとあたかも自分の中で想像していた理想の図のパズルを完成させるためにそのパーツパーツをあちらこちらで拾い集めては、一喜一憂していただけの自分だったかもしれないとさえ思える。
それは決して無駄だったとは思わないが、随分と遠回りをしたものだと思う。
まずは今回のコースで、自分が何も知らないということを知ることがこのメソッドのスタート地点でもあり、ベースともなるところだと改めて思った。
次に、では実際はどうだろう?と色々と考えてみると、そこには自分の存在を成り立たせるための膨大な情報が織り込まれていることに改めて気づかされた。

そうするともっともっと自分を知りたいという意欲が湧いてきて、自分の内面に目を向けるようになってきて、同時に周りの人にも意識を向けるようになる。
自分の内面にある心を観てみると色んな心があり、場所や時間と共に移ろい変化しているように感じるが、比較的変化の少ない心もあるようで、それが本心というものかも知れないが、それさえも意識上の産物だとも思える。
ただその心というものの中にも反応や判断を超えた「何か」があると感じた。
自分なりにそれが「愛」というももの正体かも知れないと思った。
見返りのない絶対愛とでもいうか、相手に与えることを自分の喜びとして、お互いを生かし合おうとする心・・・・無償の愛。
本来私たち人間には、それが元々備わっていて大人になるにつれて外部からの影響をうけ、知らぬ間にそれを忘れていってしまっているのかも知れない。
しかしその外部の影響も意味のあることで、自分を知るためには自分以外のものを体験しなければ分からないと思えば、それさえも有難く思える。

現時点ですべてが明確なったわけではないが、一つの「道すじ」が見えてきたような気がする。本当に有難いことだと思う。(50代男性)
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夜、娘がどう過ごしているかな、私がいなくて寂しい想いをしていないかな、と不安・心配が起こった。
その日に「安心・安心感」をテーマにしたばかりだったので、早速、「私の今の不安・心配は意識上のものだな」と認識することが出来た。
もしかしたら、娘は私のことを忘れるくらい楽しく過ごしているかもしれない。
頭で不安を作り出して、それに捉われているより、コースに集中したい、と思った。
もちろん、娘が楽しく心地よく過ごしてくれることを願う気持ちは持っている。
私の本心は、それだろうか。それともまだ奥にあるのだろうか。
きっと、娘が心地よく過ごしていると、私は幸せなのだ、と思った。
その幸せを求める心が私の本心?

Aちゃんの話を聞いて、「(相手が求めているのは行為じゃないと分かっても)どうしたらいいのかなーって思う」と言ったら、「どうしたらいい?を考えるんじゃなくて、やっぱり相手を知るとか自分を知るとか、それをやっていくことかなー」と話してくれた。
その言葉が、ずどーーん、と自分に響いて、「なるほどー!!!」という感じだった。
人間は何をする生き物か?
「知る」生き物。
本心をよく知って実現に向かう。
意識上のものと実際のものの区別がちゃんとついていれば、実際に沿ったものを知るようになっていく。(40代女性)
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コースで時間を過ごすうちに、自分に根深く入り込んでいる観念が見えて来た。
「何か人に与えなければ愛情をもらうことはできない」
「仕事で成果を出したり、役に立たなければ、人から受け入れてもらうことはできない」
頭ではそんな考えを「ばからしい」と思いつつ、無意識のうちにそれを当たり前のように原則として行動していたように思う。
頭では全然別の所を目指して進んでいるつもりでも、心の奥底に染み付いている強迫観念に気付ききっていなかった。

自分で自分を満たすことはできない。
「自分で何とかしなければいけない」という発想を強く持ちすぎて、人から満たされる余地がなくなっていた。
心が満たされることで初めて人は健康に成長していく。
心の充足によって、自然と人に愛情が湧いてきた理、知性が働き始めたりする。
心が満たされるところから人の健康な成長は始まるのだと思う。
自分の場合、自分が満たされないまま、知性の成長や人を満たそうとすることを追い求めてきた気がする。
それはかなり無理のあることで、自分が疲れ果てるような状態にもなっていた。
そもそも、自分が満たされるとはどういうことか、そこから始めたい。

人に満たされるとか、「甘える」とはどういうことだろう。
現状の自分としては「甘える」ということに抵抗感を感じたりする。
「甘えてはいけない。自分で何とかしなければいけない。」という観念が強い。
それでも、きっと本当は満たされたくて、人に甘えたいのだと思う。
意識上では今まで特に苦労もなくうまいこと生きてきたつもりが、だいぶ無理をしていたのかもしれない。
本当は自分を追いつめていて、しんどかったのかもしれない。

そんな現状から少しずつ、人に素直に求めたり、甘えたりすることを始めてみたいと思う。(20代男性)
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何をどう捉えて感じたのか、それは客観的に観て実際に何をしているのか、どういう本音や反応が起こったのか、それは実際にどのような状態なのか・・・で、本心は何をしたいのだろうと徐々にじっくりゆっくり調べることが大切かなと今回思った。
そして、人と人とで探究しながら一緒に調べ合う探究会というのはそのような状態でそのようにしていくことに適っているということをとても認識した。

探究会で一緒に調べよう探ろうとすることに関心が出てくるのは人と人とのつながりの中での本来の人間の活力から生じてくるのかな。
若いころから「自分の適性を見出して自分を生かしたい」と強く願っていた。
能力や資格等身につけても結局うまくいかなかった・・・自覚のない状態で自分の考えやこだわりで自力で頑張ったからかな。

でもそういえば人間社会に対する関心や疑問は気持ちを我慢しながらも子供のころから子供なりにあったよな、そして気づかないけど心や知性を動かす源は強く動いていたんだろうな・・・
その根源からの生きる活力に気づく喜び・・・本当の人と人との間柄から、人間を知り人間らしく生きる営みから、人として生きていきたいし共に活かし合いたい・・・
そのような本心からの社会づくりをしていきたい・・・ゆっくりとじっくりと知る状態からやっていきたいと思う。
その中に本当の適性を見出して生きるというのがあるのかな。
人への感謝が大切だと人間の観念で言われてきたけど・・・人が人らしく生きるを知るという状態が本当のいままで出会ってきた方々への感謝なのかなと今は思う。(50代男性)
人生を知るためのコース | - |

安心・満足・分かち合う・幸せへの道を歩む

人は人と人の中に産まれ、人の中で一生を過ごす。
人の中でこそ、安心していられるのではないでしょうか?
人に見守られ、人にやってもらいながら・・・満たされ・自らの内に人に資する欲求が発露され、人と共に仲良く暮らしたい欲求が・・・?
サイエンズスクールの協賛で行われた、8月10日からのアズワンセミナー参加者の感想の一部を紹介します。
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正悪の判断無く、自分の話を聞いてもらえることで、得られる安心感を久し振りに味わわせてもらった。
また、人の話を自分も聞くことで、自分にも変化が生まれるのを実感できた。
自分を在りのまま受容したい
子どもを在りのまま受容したい
親と和解したい
妻と友人とも、これからも話し合って行きたい(40代男性)


今回私がこのセミナーに参加した動機は、夫との家庭生活を見直したいと思って参加しました。
いつも眉間にしわを寄せている私、いつも不機嫌な顔をして、良くないなと思いながら、4年ほど過ごしていました。
セミナーで感じたことは、「その場を離れることの大切さ」冷静に「 」を掘り下げて、探求するためには、一度その場から離れて。「考え、探す」ためだけの時間を設けること、帰宅してからやってみるのが楽しみです。
それから、親しい間柄になれる人の存在をありがたく感じました。
これから自分の事を伝えたり、相手のことを聴くことが出来るかと思うと、わくわくします。
目の前で起こる(私にとって!)良い事も、悪い事も、すべては、自分の手の中にあるのかもしれません。(40代女性)


まず、人の考え、自分の考えであることを自覚することから始まり、そこから、実際はどうか、ということを考えることによって実際に起こっていることは、どういうことなのか、自分を整理すること、自分を知っていくことが出来たように思います。
決めつけや思い込みとは何か、決めつけがあるとどんな状態か、決めつけがないとどうか、幸せとは何か?
自分自身を探究すると同時に、探究する人がどのように変化するのかを見たり、実践している方のお話を聞いたりすることができたのも、とてもよかったです。
普段、何かのテーマについて深く自分を見ていくという事のみ時間を使うという事は、ほとんどないので、とてもぜいたくな時間の使い方をさせていただきました。
人にとっての幸せとは、本来の自分自身でいられて、自分の力を発揮することを楽しんでいる状態なのかなと思います。(40代女性)
アズワンセミナー | - |

自分の中を、そのまま観ていくと、自分を成り立たしているものが観えてくる

自分を顧みる、ゆっくりと、落ち着いて、認識のもっと奥、自分自身を見ていくと、もともとあるものが観え始める・・・自分の成り立ちにゆっくり気づき始めていく。
サイエンズスクール、8月2日~内観コース参加の人の感想文、一部を紹介します。
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終わった今、とても貴重な時で、始まる前に感じていた長さは全く感じていず終わることが残念にさえ思っている。
こんなに丁寧に自分に関わったのは、生まれて初めてもかもしれないくらい、自分に丁寧に関われた。
座っている間に自分の身体の部位を何度も丁寧に触ったのも初めての感触な気がした。
自分と丁寧に関わる以上に大事なことがあるのか、日々一体どんな事を大切にして、大事なことをおろそかにしているのか、とても大きな気づきだった。

母親との最初の調査は、やはり“怒り”の源、母のおかげでどんな目にあったのか、それが亡くなって8年たった今もどんなに自分を縛っているのかそんな気持ちだった。
でも、思ったよりは感情的にならずに進められたことに驚きだった。
そして、自分が認知できていなかったお世話になったことが、たくさん出てきた。
私は10月生まれなので、ちょうど今のような季節を大きなお腹でそれも一人で過ごしていて、それを乗り切ってくれたおかげで私はこの世に生まれでることが出来た。
そしてお乳を飲ませ、おしめを替え、服を着させ、お風呂にいれ、泣いたらなだめてくれて寝かせてもらって、そして長女だったのでそれらを全て揃えてもらって私は育つことができた。

そして、自分の人生を「嘘とごまかし」をテーマに内観。
3日目に入ったせいか、集中力が高まっているのか次々幼稚園時代からの人を思い出す。
出来事と人が走馬灯のように浮かび上がる。
そして出るは出るは、自分をごまかしてきたこと。
言えなかったこと。 やらなかったこと。
寂しいくせに、その場に100%関わっていないと自分から距離を置いてしまい寂しく居続けてきた。
自分からは入れてと言えない、本当に困っていても困っていると言えない、いいカッコをしてしまうがその結果に喜びはなく不満を収めてしまってきた。
本当は私どうしたかったのか、その自分の選択は自分の幸せから遠のいていたのではないか、そしてそのことは今も続けているのではないか。
でもすべての時代を振り返り、おもい出せたのはとても幸せなことだった。(50代女性)

今回の内観で一番に得たものは,自分が我欲の強い人間であることをはっきりと自覚できたことである。
我欲は,自らの普段の自己中心的な言動ともつながっている。
また,虚栄心や,自己顕示欲ともつながっているように感じる。
自分のそのような立ち振る舞いは,時として周りの人々の気持ちを悪くさせたり,傷つけたりする。
場合によっては,その人との関係を決定的に悪くすることもある。
それはまた,自分の幸せ感や喜びを阻害するものでもある。
これまでも,自分は我欲が強いと自覚できるチャンスは多々あったと思うが,それを覆い隠し,自己弁護でごまかしてきた。
またこれも我欲のなせる業であるかと思う。
内観を通じて,これまでの人生は,我欲が少なく,穏やかで,自分に無償の愛を傾けてくれる人たちに囲まれてきていたということも自覚できた。
母,父,弟,祖母,親しい友人たち,いずれも,である。
今頃の気づきでは遅いのではとも思うが,これまで無自覚で過ごしてきた日々を挽回すべく,まずは身近な人々に対して,自分がいただいた愛のお返しをして,さらには,その周りにいる人々や自然環境に対しても,我欲に溺れることなく,愛が傾けられるような人になりたいと思う。(50代男性)

高校時代でしてもらったことを内観、して、高校の恩師を思い出していた。
してもらったことを思うことは、不幸を幸福に変える魔法だった! 
私は、十分に配慮された教育を受けた少女であり、国語の先生の示してくれた思いやりで、私の定時制高校の生活は、苦から愛情いっぱいの高校生活だったことを、内観で思い出した!
決して不幸な少女ではなかった! “してもらったことの回想”は生きる力でさえある!

最後に・・コミュニケーションスタイルの変化!?
今回の内観を通じて、コミュニケーションは心と心の双方向と今更ながら気付く!
この内観の当初、“言いたいことを言っていた私自身”を見て、 一方通行だ! これでは心と心が通い合わない!と気づいた。(70代女性)

今回の内観コースに参加した目的は、自分を深く観察して自分が何を考えてきて何をしたいのかを知ることでした。中でも一番知りたかったのは、父母に対して自分が本当はどう思っているのかでした。
内観を進めるうち4日目あたりに「自分に対する嘘、ごまかし」を調べている最中に、自分があまりにも多くの方々にお世話になっていることに今更ながらに気付きました。
そのあと、感謝の渦に巻かれてしまい、自分が思っていた不満や葛藤はそのお世話になったことに比べると宇宙の中の紙屑くらいに思えて気にならなくなりました。
この内観コースに参加させて頂く目的の一つに父母に対する自分の感情を観るということがありましたが、何よりもこの肉体を産んで頂いたことへの感謝、そして育てて頂いたことに比べると、色々な負の感情は考えることですら無かったことだと思いました。

最終日は、本当に安らかで穏やかな気持ちで迎えることが出来ました。
今後は自宅に戻っても時々日常内観を心掛け、今回の気づきを忘れないようにしてきたいと思います。
また今まで多くの「して返せなかった分」を今後の森づくりやコミュニティづくりに投入して、未来に役立てたいと思います。(50代男性)
内観コース | - |

現状の自分と社会、誰でもが自由に生きられる社会って?

自分の気持ちや意志を、そのまま見たり探ったり・・・・不自由な心の状態で暮らしていないだろうか?
人としての自由欲求・・・満たされる社会とは?
7月29日~の、社会を知るためのコースに参加した人の、感想の中から一部ですが、紹介します。
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法律、民主主義、合意形成など一見言葉の印象からはクリーンなイメージがあるようにも思うが、実態としてはどれも決まったことに人が従う、やらせる、やめさせるという中身のもので、それに沿わなかった時に責められたり、罰せられたりでの恐怖によって人が動くというのが今の社会のように思う。
誰もが自由や豊かさを求めてそういう方向に向かおうとする作用があるように思うが、権利を拡大すると自由になり、所有が増えると豊かになると思ってそれらを追い求めてやってるように思う。
しかし、実際は権利が増えることによって義務で従う不自由な人が増え、所有が増えることによって所有者以外の自由に使えない人が増えていって本当に求めているものと逆行してしまっているのが現状のように思う・
法治国家で先進国でクリーンなイメージがあっても、実際は不自由で人に対して野蛮な社会というのが現状のように思う。
学校なども通しながら自分の意思や気持ちとは関係なくやることがあると教えられて従って身につけて生きてきたように思う。
自分の意志や気持ちと関係なくやることに従ってやる状態を自発的服従状態のように思う。
自分も小さな頃から外のものに従って生きてきて、長い間自分がどうしたいかということに目を向けないでやってきたように思う。
おかげで気持ちがなくなった訳ではないだろうが、気持ちに目が向きにくく、意識上に昇ってきにくい体質になってるように思う。
やることがあるというのは意識上で、実際は、やりたい、やって欲しいというシンプルな人の気持ちがあるように思う。
「~やって欲しい」というのに対して「予定がある」と答えてたりすることがよくあるように思えた。
逆に相手から予定があると聞いてそうかとそれで諦めることもある。
全然気持ちや意志とは関係ないことを言ってるけどそれも自覚がなかったりする。
特に悪感情も伴ったりが無くあまり問題視されなかったりするけど、ここら辺が見直されていかないと本当に自発的服従状態から自発的自由意思には成っていかないなと思った。
気持ちと気持ちのやり取りっていうとシンプルで簡単そうだけど、長くやって身についたそうじゃないやり取りが染みついててリハビリが必要だなと思った。(20代男性)
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責任・権利・義務・やらせる・やめさせる・・・の探究している時、
事がうまく運ばなくなったり、不都合が生じた時に、そうなった原因を誰かに負わせるために、前もってその任に就かせるのが責任者というのが見えて来た。
お店とお客の関係・会社と社員の関係・親と子の関係でも、今の社会は槍(権利)と盾(義務)を各自が持ち、権利と義務の中で暮らしているように見えて来た。
やらせる・やめさせる状態も、人に心や気持ち・欲求・意志などがあることを知らず、現象面を捉えて、服従状態を強いている状態のように見えて来た。
責任・権利・義務・やらせる・やめさせる・・・で生きている人は、人(自分も人も)の心・本体を知らない野蛮人といえるのかと思った。
自分の中の自発的自由意志を知らずに、自分の中に培ってきた自他を縛る観念・・・自発的服従状態の正体を知りたいと思った。
誰でも本来の人として生まれ、野蛮人で作る社会の中で育つ過程で、少しずつ野蛮人になってきた自分の姿が少しずつ見えて来たように思った。
幼い頃からの育ちの中で、恐怖から、周りの人の顔・態度を見ながら、人間らしさを失っていったように思う。
いい子だね、いい人だねと言われる安心感を得つつ、自発的服従を加速してきたように見える。
人として生まれ、野蛮人に変身(心)していったように見える。
今まで培ってきた自発的服従の癖が、どこまで矯正できるものなのか・・・分からないけど、自分も人も何もしなくてもよい、所有・権利・義務・責任などで縛らず、本当に縛りのない世界の中で、野蛮人から人間復帰したいと思う。(70代女性)
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何もしなくてもいいのに、スーパーではたくさんの野菜が、お菓子が、日用品が並び、ジュースは冷やされて置かれている。
レジにはいつでも人が立ち、駐車場では警備員が案内してくれる。
トイレはいつもきれいに清掃され、買い物しやすいようにかごも用意してある。
それによって、僕たちはどれだけ楽に生活を送ることが出来ているだろうか。
スーパーだけでなく、身の回りのもの全てがそうだ。
洋服、歯ブラシ、ごみ袋、いす、家、食器、食事・・・
そのひとつひとつに誰かの想いが込められている。
どれだけのものを受けて生きているのか、想像もつかない。
そういう中で生きている。

やることや役割があってそれをこなしていく。
それをやってない人に責めることが出来るのは、その人を人として見ていないからだと思う。
それは自分自身すら人として見ていないということにもなる。

どんな国でも、どんな人でも自由を求めているし、平和でありたいとも願っていると思う。
でも、どんなに強く願っていても、それを所有・権利という形で人を縛る事で手に入れようとする。
だから、どんなに活動しても自由にはならないし、平和にもならない。
不安や恐怖で人を圧迫して、従わせたり強いたりしても誰が満たされるのだろうか。
自分の自由のために、相手の自由を認めない・縛る先に本当の自由があるだろうか。

人を動かせるという見方ではなく、自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか気持ちを伝えて、聞いた人もそれを聞いて自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか気持ちを伝えていく。
そういう営みの中から、したいことを実現していけるといいな。(20代男性)
社会を知るためのコース | - |

自分について、どれくらい知っているだろうか?

「自分って、どんな人だろう?」と、自分の行動や思考、感情など、自己観察し、科学的に調べてみませんか?

誰かと比べたり、周りの人から言われて、自分って、こういう性格だとか、~が苦手だとか、得意だとか、いろいろ自分について、思うことはあると思いますが、そもそも、「自分ってなに?」、「もともとの自分って、どんな人だろう?、なにを望んでいるのだろう?」と、「自分」に「人」に関心が湧いてくるようです。

1月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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「何に関心があるか。」 すべて自分の願望が出てきて驚いた。

この中には、人からどう見られているかに関心があるということもあった。

だけど、全て自分の感覚であるという自覚できた時、他人の目をそんなに気にしなくなった。今まで生きてきて、他人の目に捕らわれるような感覚をずっと持って苦しんでいたが、これは本当に嬉しいなと思う。

自分に一番関心がある。 そのままでいいんだなー。

今までは、エゴイストとか、他人を思いやれない人間?とか、、まるで悪いことかのように捉えていた。

だけど、自分は自分のままでいてもいいんだなと、感じてとても楽になった。

嬉しいな。

「頭の中の近況、何に関心があるか?」が大分変った気がする。

今までは、自分の軸を持ちたいとか、認められたいとかが大きく占めていた。

でも、自分の軸なんて持たない方がいいな。

人から認められる必要なんてなかったんだなと思い、今はとにかく自分のことが知りたい、楽しく生きたいという思いが大きい。

自分を好きになりたいとか思ってたけど、なんかもう好きだよなーと思った。

今まで自分に対して愚痴を言ってきて、嫌だなと感じていた人、その人のことをふと考えると、何故かすごく愛おしいなぁ!という思いが出てきて、びっくり! 仲良くなりたいな。 気をつかわない関係になれたらな。 

私が一番大切にしたいのものは自分。 今、そう思っている。 自分をもっと大切にしてあげたい。

私が自分を大切に生きることで、周りも楽に生きられたらいいな。

わがままだと思われるのが嫌だと思っていた自分にとって、わがままでいいじゃーんと思えたのはとても嬉しいことだった。

自覚で見えてきたものが沢山ありすぎる。

もし何か感情が沸いてきたら、本当にじっくりと味わったり観察したりして見てみたい。

欲求とかも同じく。(20代女性)



自信を持つことがイイコトだとされる社会で生まれ育ち、「自信なしにどうやって生きていけるの?」と思ってる自分を発見した。

“できない”という自信、自信がないことに自信がある等の聞きなれない表現を耳にして目からウロコが落ちた。

自信のある・なしで一喜一憂し、踊らされていたことに初めて気づいた。

自信がなくても生きられる社会?!・・・私にとって全く新しい概念だけど、自信持つことに力入れて緊張と競争に満ちた社会より、ずっと肩の力抜いて生きられそうだし、そこには安心がありそう。(50代女性)



「自信のある考え方と自信のない考え方」というテーマがあった。

「自信のある」ということは何なのかと調べていくと、実際でないものを大事に、それがなくなれば自分も無くなるような感覚を伴うもので、意識してそれを離すことが出来ないとなっているもので何故そうなるかは種々の原因がありそうで、複雑怪奇にも見え、それを維持するのに相当なエネルギーを要するもので、、、、と。そしてそれが及ぼすものは自分に強いるもので、それだけに止まらず人にそうさせようとする。

「自信のない」というのはシンプルで簡単で無駄なエネルギーを要しない。

人にたいしては親しさや愛情のみが溢れる。

自信のない考え方、実際に即した考え方。

「何時に行きます」「了解」その時間が過ぎた。どうしたのかな?30分過ぎて来た。「よう来たね」とそのつどそのつどその人を思う。(60代男性)



私は、自分と異なる感覚のことを言われると、特に家族に対して、「おいおい大丈夫か?」と自分が正常であるかのように思ったし、それを相手に堂々と表現していた。

ひどいことをしていたのだ。

感覚と考えと思い込みが全部一緒になって錯覚している自分。

だから人とのズレに対して感情的なっていたのだな。

「約束」はどこにある。

人と待ち合わせを約束した瞬間に、約束がかなっているイメージが浮かび、人と待ち合わせして来なかった時に、自分のイメージを事実化して、それを基に感情が生じる。

この感覚には、本当に驚いた。

事実を捉えていない日常、自分の中に生じていることにだけ反応している日常だったのだ。

今まで生じていた、人との関係の中での感情は、事実とは無関係だったのだ。

愕然とした。

「事実化のメカニズム」を知るかどうかは、人が生きる上で大きなカギになると思う。

探究したことで自分のことを耕した感覚があり、いつしか日常の中で無意識の内に、作用していくものと思っている。

探究の最後に「自分を知るためには」という問いがあったが、この問いに対する自分の

考えを、暮らしの中で検証したい気持ちが高まっている。(40代女性)
自分を知るためのコース | - |

自分を知るための内観コース

自分の人生に向き合う。

幼少時から現在に至るまでの自分とじっくり向き合ってみませんか?

その中で自分を客観的に観察する力も養われていきます。

客観的に自分を観る能力が出来てこそ、本当の自分を知ることも出来るようになっていくでしょう。

昨年12月の内観コースに参加した人の感想を紹介します。



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内観コースを終えて、今思うのは、自分の身の周りにある、豊かさに気づくことが、幸せにつながるように感じたことです。

内観では、自分の中の記憶をたどりながら、その時あったことをみつめるのですが、記憶を星で例えたら、私の場合大きくよく光る星ばかりで、それらはたいてい被害者としての自分の記憶で、「もっとこうして欲しかった」「もっとこうしたかった」という、子供の頃の私の声が聞こえてきました。

もう少し目をこらし、ようやく見えてくるのは、小さな星の集まりで、この中にようやく「してもらったこと」を見ることができました。その数は、実は大きな星よりも圧倒的に多く、すき間もないほどにあることにも気づきました。

人は満たされなかった欲求には、関心がいかなくなり、いつしか忘れてしまう。

けれども、満たされなかった欲求は、いつまでも手放すことなくその欲求もさらに大きくなり、記憶に残り続けるのかもしれません。

母からは、母を反面教師として「女性は自立すべきだ」という考えを。

決して私をほめることがない厳しかった父からは「自分は無価値な人間である」という考えを。

これらはいずれも私がこのように捉えたのですが、大きな力をもち、人生の中で何かを決断する時、選択する時、行動する時、人と接する時、すべてに影響を与え、私を苦しめてきました。

でも、人生とは不思議なもので、この影響を与えた本人である母の病気、父の病気を通じてと、わたし自身が会社という肩書きを捨てて、なんでもないひとりの人間になって、人生の底辺にいたということも重なり、家族と時にはケンカしたり、話し合い、助け合いとしている中で、その考えが全く私の勘違いだと気づかされるに至りました。

この経験は私には本当に意味が深く、この内観で振り返りながら、複雑にからまった糸が、きれいにまた一本の糸にもどったような、スッキリとした気分と透明な気持ちがしています。(これも家族の力により、解くことができました)(40代女性)



お母さんがいるから私がいるんだな。

お父さんがいるから私がいるんだな。

おばあさんがいて、私がいるんだな。

彼らがいるから、今の私がいるんだな。

お母さんに、父に、おばあさんに、彼らに

受けてきたすべてのことが今の私にある事なんだ。

私が持った考えも、

私が自分だとしてきたことが全部では分からないが、受けてきた考えだね。

実際に繋がっている存在。(30代女性)
内観コース | - |

心のスタート 人生を豊かに生きるために

<自分>・<人生>・<社会>についての、様々な問いに対して、自分の頭を使って、じっくり、探ってみる時間をもってみませんか?

アズワンセミナーは、日常から離れた合宿生活の中で、日頃、自分を窮屈にしたり、自分らしさの発揮を阻んでいる観方などに気づき、人生をよりよく生きるための根本的な問題について深めていくセミナーです。

11月アズワンセミナーに参加した人の感想を紹介します。



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社会について、このようにあらためて考えることが少なかったので刺激になった。

自分と社会の関係についてや、社会をどのように見ているのか、その中に「人」との関係も見えてきたように思う。

争い・対立のない幸せな世界について思いを巡らせると、参加者それぞれの言葉や表現は違っていても、本質的には同じような事を大切にしているんだということがわかり、人間は一つなんだなということを再認識した。

その世界を実現するために私個人に何ができるのか考える良いきっかけとなった。

全体を通して独特の「間」があり、その感覚について違和感を持ったこともあるが、それは今まで答えのあること、早く答えを得ることに慣れていたことからくる、自分の反発だったのかもしれない。

でも、今まで得ていた「答え」も本当の意味で、どこまでゼロから探究しようとしていたか顧みる良い機会になった。(40代男性)



身近な実例を上げて探究していく中で、最初は相手に原因があると思っていたものが、最後はそうだと言い切れなくなってしまいました。

勝手に自分が相手の言動に意味づけをしていて、自分の感情が実際の中に紛れ込んでいたことに気付いた時は衝撃的でした。

今までは、怒りが湧いてくることがあってもそこに目を向けることをしてこなかったし、相手に対してなんでそんな行動したのか考えることはあったけど、なぜ自分が怒ったのかは考えることがありませんでした。

自分自身を探究していくことは自分自身を観察していくことであって、全てを受け入れることでもあるなと思いました。

そして何気ない会話の中で、「実際はどうだろう?」と問うことで、普段自分の中で思い込みやキメツケをしていることに気付くことが出来ました。

初めて参加者同士顔を合わせたときも、自分の中で、この人はきっとこういう人だと決めつけていた自分がいました。

また、「実際の自分とは?」ということを探究するとき、「実際の自分」は、「自分と思っている姿」とは全く同じとは言い切れず、体がここにあるのに私とはこれだと断言することが出来なくなりました。

自分らしく生きるということは、自分だと思っている虚像、もしくは、なりたいと思う姿をまねて生きているのか、自分らしく生きることと自分であることは少し違うなと今でも探究が止まりません。(20代男性)
アズワンセミナー | - |

心通う話し合いのできる人に 「人を聴くためのコース」

「話し合い」になっていく上で、一番の要になるのが、「聴く」という要素です。

単に言葉や、表面的な気持ち、考えを聞くのではなく、その人そのものを理解する、つまり「人を聴く」ことで、心から通じ合える、人を尊重し合う豊かな話し合いができるのではないでしょうか。

10月「人を聴くためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



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相手の情報を集めてそれを分類していけばこの人はこういう人だと分かると思っていた。

だから身近な人は多くの情報があってよく知っているという感じがする。が、

どうやっても、完全に知ることができない相手の世界がある。 

それをはっきり知ることで、相手の世界に向かっていく働きが生まれていくんだろうなと感じた。

相手の世界を表現しようとした言葉や表情、雰囲気をこちらは感覚で受けて自分の世界で意味付けして理解しようとする。

自分の世界と相手の世界は全然別のもので、それでも何とか探って知ろうとしていく。

相手の世界が自分の世界に入ってくるのか、それぞれの世界が溶けて混ざっていくのか、何となくそれを続けていったら、世界が一つになっていくのではないかという発想が出てきた。

それぞれの世界が、心がつながっていき、一つになって調和していく。

そうしたら現れも自然と調和していくのでは。

それぞれの世界に上下も優劣もなくそれぞれがそれぞれとしてそこにあるだけ。

色々な世界と混ざり合い自分の世界がより豊かになっていく。(30代男性)





自分の中で「聞く」と「やる」がくっついてる。これはなかなか根深いなと思った。小さい時から相当訓練してきたのか、普段あれっ?と後でそういう状態に自分がなってたのかなと思うことはあっても、聞く瞬間は「やる」で聞いてるから、それを「やるか、やらないか」の選択で頭が忙しい。やらなくても「やる」で聞いている。

最初は相手は何が言いたいんだろう?と相手のほうに向いていても、言葉を聞いてから自分の頭の中で言葉の意味を探したり、相手が話してる内容を自分がちゃんと理解できてるかとか、言葉の意味があやふやだと「あーかな?」「こーかな?」と自分の頭の中で浮かんできたことをぐるぐるとやりだす。そうなると途中から相手の話にも集中してないし、その話が出てきた相手の本体には関心が向いていかない。(50代女性)





そもそも人が話し合おうとするのは、聴いて欲しい(知って 欲しい)と、知りたいという欲求があってのように思う。満たされることの無い単独の欲求なんて無いように思う。特に子供のうちは知って欲しいというのが強くあると思うが、大人にもそれはあると思う。

一人の時に話す人はあまり居ないと思うが、誰か人が居て話したくなる。人ってどういう生き物なんだろうと改めて思った。何もなくて言葉が出てきているのではなく、その人の中で何か心が動いて、それを人に見て欲しい、知って欲しいという現れの1つで言葉というのが出てきているのかなと思った。

人を聴くことで聴く人にある影響として、聴く相手の存在が自分の中で厚みを増していくということなのかなと思った。自分の中でその人の厚みが増していくことは、自分の豊かさが厚みを増すことでもあるのかなと思った。ここはもうちょっと調べたい感じがする。

(20代男性)
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