安心・満足・分かち合う・幸せへの道を歩む

人は人と人の中に産まれ、人の中で一生を過ごす。
人の中でこそ、安心していられるのではないでしょうか?
人に見守られ、人にやってもらいながら・・・満たされ・自らの内に人に資する欲求が発露され、人と共に仲良く暮らしたい欲求が・・・?
サイエンズスクールの協賛で行われた、8月10日からのアズワンセミナー参加者の感想の一部を紹介します。
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正悪の判断無く、自分の話を聞いてもらえることで、得られる安心感を久し振りに味わわせてもらった。
また、人の話を自分も聞くことで、自分にも変化が生まれるのを実感できた。
自分を在りのまま受容したい
子どもを在りのまま受容したい
親と和解したい
妻と友人とも、これからも話し合って行きたい(40代男性)


今回私がこのセミナーに参加した動機は、夫との家庭生活を見直したいと思って参加しました。
いつも眉間にしわを寄せている私、いつも不機嫌な顔をして、良くないなと思いながら、4年ほど過ごしていました。
セミナーで感じたことは、「その場を離れることの大切さ」冷静に「 」を掘り下げて、探求するためには、一度その場から離れて。「考え、探す」ためだけの時間を設けること、帰宅してからやってみるのが楽しみです。
それから、親しい間柄になれる人の存在をありがたく感じました。
これから自分の事を伝えたり、相手のことを聴くことが出来るかと思うと、わくわくします。
目の前で起こる(私にとって!)良い事も、悪い事も、すべては、自分の手の中にあるのかもしれません。(40代女性)


まず、人の考え、自分の考えであることを自覚することから始まり、そこから、実際はどうか、ということを考えることによって実際に起こっていることは、どういうことなのか、自分を整理すること、自分を知っていくことが出来たように思います。
決めつけや思い込みとは何か、決めつけがあるとどんな状態か、決めつけがないとどうか、幸せとは何か?
自分自身を探究すると同時に、探究する人がどのように変化するのかを見たり、実践している方のお話を聞いたりすることができたのも、とてもよかったです。
普段、何かのテーマについて深く自分を見ていくという事のみ時間を使うという事は、ほとんどないので、とてもぜいたくな時間の使い方をさせていただきました。
人にとっての幸せとは、本来の自分自身でいられて、自分の力を発揮することを楽しんでいる状態なのかなと思います。(40代女性)
アズワンセミナー | - |

自分の中を、そのまま観ていくと、自分を成り立たしているものが観えてくる

自分を顧みる、ゆっくりと、落ち着いて、認識のもっと奥、自分自身を見ていくと、もともとあるものが観え始める・・・自分の成り立ちにゆっくり気づき始めていく。
サイエンズスクール、8月2日~内観コース参加の人の感想文、一部を紹介します。
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終わった今、とても貴重な時で、始まる前に感じていた長さは全く感じていず終わることが残念にさえ思っている。
こんなに丁寧に自分に関わったのは、生まれて初めてもかもしれないくらい、自分に丁寧に関われた。
座っている間に自分の身体の部位を何度も丁寧に触ったのも初めての感触な気がした。
自分と丁寧に関わる以上に大事なことがあるのか、日々一体どんな事を大切にして、大事なことをおろそかにしているのか、とても大きな気づきだった。

母親との最初の調査は、やはり“怒り”の源、母のおかげでどんな目にあったのか、それが亡くなって8年たった今もどんなに自分を縛っているのかそんな気持ちだった。
でも、思ったよりは感情的にならずに進められたことに驚きだった。
そして、自分が認知できていなかったお世話になったことが、たくさん出てきた。
私は10月生まれなので、ちょうど今のような季節を大きなお腹でそれも一人で過ごしていて、それを乗り切ってくれたおかげで私はこの世に生まれでることが出来た。
そしてお乳を飲ませ、おしめを替え、服を着させ、お風呂にいれ、泣いたらなだめてくれて寝かせてもらって、そして長女だったのでそれらを全て揃えてもらって私は育つことができた。

そして、自分の人生を「嘘とごまかし」をテーマに内観。
3日目に入ったせいか、集中力が高まっているのか次々幼稚園時代からの人を思い出す。
出来事と人が走馬灯のように浮かび上がる。
そして出るは出るは、自分をごまかしてきたこと。
言えなかったこと。 やらなかったこと。
寂しいくせに、その場に100%関わっていないと自分から距離を置いてしまい寂しく居続けてきた。
自分からは入れてと言えない、本当に困っていても困っていると言えない、いいカッコをしてしまうがその結果に喜びはなく不満を収めてしまってきた。
本当は私どうしたかったのか、その自分の選択は自分の幸せから遠のいていたのではないか、そしてそのことは今も続けているのではないか。
でもすべての時代を振り返り、おもい出せたのはとても幸せなことだった。(50代女性)

今回の内観で一番に得たものは,自分が我欲の強い人間であることをはっきりと自覚できたことである。
我欲は,自らの普段の自己中心的な言動ともつながっている。
また,虚栄心や,自己顕示欲ともつながっているように感じる。
自分のそのような立ち振る舞いは,時として周りの人々の気持ちを悪くさせたり,傷つけたりする。
場合によっては,その人との関係を決定的に悪くすることもある。
それはまた,自分の幸せ感や喜びを阻害するものでもある。
これまでも,自分は我欲が強いと自覚できるチャンスは多々あったと思うが,それを覆い隠し,自己弁護でごまかしてきた。
またこれも我欲のなせる業であるかと思う。
内観を通じて,これまでの人生は,我欲が少なく,穏やかで,自分に無償の愛を傾けてくれる人たちに囲まれてきていたということも自覚できた。
母,父,弟,祖母,親しい友人たち,いずれも,である。
今頃の気づきでは遅いのではとも思うが,これまで無自覚で過ごしてきた日々を挽回すべく,まずは身近な人々に対して,自分がいただいた愛のお返しをして,さらには,その周りにいる人々や自然環境に対しても,我欲に溺れることなく,愛が傾けられるような人になりたいと思う。(50代男性)

高校時代でしてもらったことを内観、して、高校の恩師を思い出していた。
してもらったことを思うことは、不幸を幸福に変える魔法だった! 
私は、十分に配慮された教育を受けた少女であり、国語の先生の示してくれた思いやりで、私の定時制高校の生活は、苦から愛情いっぱいの高校生活だったことを、内観で思い出した!
決して不幸な少女ではなかった! “してもらったことの回想”は生きる力でさえある!

最後に・・コミュニケーションスタイルの変化!?
今回の内観を通じて、コミュニケーションは心と心の双方向と今更ながら気付く!
この内観の当初、“言いたいことを言っていた私自身”を見て、 一方通行だ! これでは心と心が通い合わない!と気づいた。(70代女性)

今回の内観コースに参加した目的は、自分を深く観察して自分が何を考えてきて何をしたいのかを知ることでした。中でも一番知りたかったのは、父母に対して自分が本当はどう思っているのかでした。
内観を進めるうち4日目あたりに「自分に対する嘘、ごまかし」を調べている最中に、自分があまりにも多くの方々にお世話になっていることに今更ながらに気付きました。
そのあと、感謝の渦に巻かれてしまい、自分が思っていた不満や葛藤はそのお世話になったことに比べると宇宙の中の紙屑くらいに思えて気にならなくなりました。
この内観コースに参加させて頂く目的の一つに父母に対する自分の感情を観るということがありましたが、何よりもこの肉体を産んで頂いたことへの感謝、そして育てて頂いたことに比べると、色々な負の感情は考えることですら無かったことだと思いました。

最終日は、本当に安らかで穏やかな気持ちで迎えることが出来ました。
今後は自宅に戻っても時々日常内観を心掛け、今回の気づきを忘れないようにしてきたいと思います。
また今まで多くの「して返せなかった分」を今後の森づくりやコミュニティづくりに投入して、未来に役立てたいと思います。(50代男性)
内観コース | - |

現状の自分と社会、誰でもが自由に生きられる社会って?

自分の気持ちや意志を、そのまま見たり探ったり・・・・不自由な心の状態で暮らしていないだろうか?
人としての自由欲求・・・満たされる社会とは?
7月29日~の、社会を知るためのコースに参加した人の、感想の中から一部ですが、紹介します。
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法律、民主主義、合意形成など一見言葉の印象からはクリーンなイメージがあるようにも思うが、実態としてはどれも決まったことに人が従う、やらせる、やめさせるという中身のもので、それに沿わなかった時に責められたり、罰せられたりでの恐怖によって人が動くというのが今の社会のように思う。
誰もが自由や豊かさを求めてそういう方向に向かおうとする作用があるように思うが、権利を拡大すると自由になり、所有が増えると豊かになると思ってそれらを追い求めてやってるように思う。
しかし、実際は権利が増えることによって義務で従う不自由な人が増え、所有が増えることによって所有者以外の自由に使えない人が増えていって本当に求めているものと逆行してしまっているのが現状のように思う・
法治国家で先進国でクリーンなイメージがあっても、実際は不自由で人に対して野蛮な社会というのが現状のように思う。
学校なども通しながら自分の意思や気持ちとは関係なくやることがあると教えられて従って身につけて生きてきたように思う。
自分の意志や気持ちと関係なくやることに従ってやる状態を自発的服従状態のように思う。
自分も小さな頃から外のものに従って生きてきて、長い間自分がどうしたいかということに目を向けないでやってきたように思う。
おかげで気持ちがなくなった訳ではないだろうが、気持ちに目が向きにくく、意識上に昇ってきにくい体質になってるように思う。
やることがあるというのは意識上で、実際は、やりたい、やって欲しいというシンプルな人の気持ちがあるように思う。
「~やって欲しい」というのに対して「予定がある」と答えてたりすることがよくあるように思えた。
逆に相手から予定があると聞いてそうかとそれで諦めることもある。
全然気持ちや意志とは関係ないことを言ってるけどそれも自覚がなかったりする。
特に悪感情も伴ったりが無くあまり問題視されなかったりするけど、ここら辺が見直されていかないと本当に自発的服従状態から自発的自由意思には成っていかないなと思った。
気持ちと気持ちのやり取りっていうとシンプルで簡単そうだけど、長くやって身についたそうじゃないやり取りが染みついててリハビリが必要だなと思った。(20代男性)
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責任・権利・義務・やらせる・やめさせる・・・の探究している時、
事がうまく運ばなくなったり、不都合が生じた時に、そうなった原因を誰かに負わせるために、前もってその任に就かせるのが責任者というのが見えて来た。
お店とお客の関係・会社と社員の関係・親と子の関係でも、今の社会は槍(権利)と盾(義務)を各自が持ち、権利と義務の中で暮らしているように見えて来た。
やらせる・やめさせる状態も、人に心や気持ち・欲求・意志などがあることを知らず、現象面を捉えて、服従状態を強いている状態のように見えて来た。
責任・権利・義務・やらせる・やめさせる・・・で生きている人は、人(自分も人も)の心・本体を知らない野蛮人といえるのかと思った。
自分の中の自発的自由意志を知らずに、自分の中に培ってきた自他を縛る観念・・・自発的服従状態の正体を知りたいと思った。
誰でも本来の人として生まれ、野蛮人で作る社会の中で育つ過程で、少しずつ野蛮人になってきた自分の姿が少しずつ見えて来たように思った。
幼い頃からの育ちの中で、恐怖から、周りの人の顔・態度を見ながら、人間らしさを失っていったように思う。
いい子だね、いい人だねと言われる安心感を得つつ、自発的服従を加速してきたように見える。
人として生まれ、野蛮人に変身(心)していったように見える。
今まで培ってきた自発的服従の癖が、どこまで矯正できるものなのか・・・分からないけど、自分も人も何もしなくてもよい、所有・権利・義務・責任などで縛らず、本当に縛りのない世界の中で、野蛮人から人間復帰したいと思う。(70代女性)
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何もしなくてもいいのに、スーパーではたくさんの野菜が、お菓子が、日用品が並び、ジュースは冷やされて置かれている。
レジにはいつでも人が立ち、駐車場では警備員が案内してくれる。
トイレはいつもきれいに清掃され、買い物しやすいようにかごも用意してある。
それによって、僕たちはどれだけ楽に生活を送ることが出来ているだろうか。
スーパーだけでなく、身の回りのもの全てがそうだ。
洋服、歯ブラシ、ごみ袋、いす、家、食器、食事・・・
そのひとつひとつに誰かの想いが込められている。
どれだけのものを受けて生きているのか、想像もつかない。
そういう中で生きている。

やることや役割があってそれをこなしていく。
それをやってない人に責めることが出来るのは、その人を人として見ていないからだと思う。
それは自分自身すら人として見ていないということにもなる。

どんな国でも、どんな人でも自由を求めているし、平和でありたいとも願っていると思う。
でも、どんなに強く願っていても、それを所有・権利という形で人を縛る事で手に入れようとする。
だから、どんなに活動しても自由にはならないし、平和にもならない。
不安や恐怖で人を圧迫して、従わせたり強いたりしても誰が満たされるのだろうか。
自分の自由のために、相手の自由を認めない・縛る先に本当の自由があるだろうか。

人を動かせるという見方ではなく、自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか気持ちを伝えて、聞いた人もそれを聞いて自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか気持ちを伝えていく。
そういう営みの中から、したいことを実現していけるといいな。(20代男性)
社会を知るためのコース | - |

自分について、どれくらい知っているだろうか?

「自分って、どんな人だろう?」と、自分の行動や思考、感情など、自己観察し、科学的に調べてみませんか?

誰かと比べたり、周りの人から言われて、自分って、こういう性格だとか、~が苦手だとか、得意だとか、いろいろ自分について、思うことはあると思いますが、そもそも、「自分ってなに?」、「もともとの自分って、どんな人だろう?、なにを望んでいるのだろう?」と、「自分」に「人」に関心が湧いてくるようです。

1月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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「何に関心があるか。」 すべて自分の願望が出てきて驚いた。

この中には、人からどう見られているかに関心があるということもあった。

だけど、全て自分の感覚であるという自覚できた時、他人の目をそんなに気にしなくなった。今まで生きてきて、他人の目に捕らわれるような感覚をずっと持って苦しんでいたが、これは本当に嬉しいなと思う。

自分に一番関心がある。 そのままでいいんだなー。

今までは、エゴイストとか、他人を思いやれない人間?とか、、まるで悪いことかのように捉えていた。

だけど、自分は自分のままでいてもいいんだなと、感じてとても楽になった。

嬉しいな。

「頭の中の近況、何に関心があるか?」が大分変った気がする。

今までは、自分の軸を持ちたいとか、認められたいとかが大きく占めていた。

でも、自分の軸なんて持たない方がいいな。

人から認められる必要なんてなかったんだなと思い、今はとにかく自分のことが知りたい、楽しく生きたいという思いが大きい。

自分を好きになりたいとか思ってたけど、なんかもう好きだよなーと思った。

今まで自分に対して愚痴を言ってきて、嫌だなと感じていた人、その人のことをふと考えると、何故かすごく愛おしいなぁ!という思いが出てきて、びっくり! 仲良くなりたいな。 気をつかわない関係になれたらな。 

私が一番大切にしたいのものは自分。 今、そう思っている。 自分をもっと大切にしてあげたい。

私が自分を大切に生きることで、周りも楽に生きられたらいいな。

わがままだと思われるのが嫌だと思っていた自分にとって、わがままでいいじゃーんと思えたのはとても嬉しいことだった。

自覚で見えてきたものが沢山ありすぎる。

もし何か感情が沸いてきたら、本当にじっくりと味わったり観察したりして見てみたい。

欲求とかも同じく。(20代女性)



自信を持つことがイイコトだとされる社会で生まれ育ち、「自信なしにどうやって生きていけるの?」と思ってる自分を発見した。

“できない”という自信、自信がないことに自信がある等の聞きなれない表現を耳にして目からウロコが落ちた。

自信のある・なしで一喜一憂し、踊らされていたことに初めて気づいた。

自信がなくても生きられる社会?!・・・私にとって全く新しい概念だけど、自信持つことに力入れて緊張と競争に満ちた社会より、ずっと肩の力抜いて生きられそうだし、そこには安心がありそう。(50代女性)



「自信のある考え方と自信のない考え方」というテーマがあった。

「自信のある」ということは何なのかと調べていくと、実際でないものを大事に、それがなくなれば自分も無くなるような感覚を伴うもので、意識してそれを離すことが出来ないとなっているもので何故そうなるかは種々の原因がありそうで、複雑怪奇にも見え、それを維持するのに相当なエネルギーを要するもので、、、、と。そしてそれが及ぼすものは自分に強いるもので、それだけに止まらず人にそうさせようとする。

「自信のない」というのはシンプルで簡単で無駄なエネルギーを要しない。

人にたいしては親しさや愛情のみが溢れる。

自信のない考え方、実際に即した考え方。

「何時に行きます」「了解」その時間が過ぎた。どうしたのかな?30分過ぎて来た。「よう来たね」とそのつどそのつどその人を思う。(60代男性)



私は、自分と異なる感覚のことを言われると、特に家族に対して、「おいおい大丈夫か?」と自分が正常であるかのように思ったし、それを相手に堂々と表現していた。

ひどいことをしていたのだ。

感覚と考えと思い込みが全部一緒になって錯覚している自分。

だから人とのズレに対して感情的なっていたのだな。

「約束」はどこにある。

人と待ち合わせを約束した瞬間に、約束がかなっているイメージが浮かび、人と待ち合わせして来なかった時に、自分のイメージを事実化して、それを基に感情が生じる。

この感覚には、本当に驚いた。

事実を捉えていない日常、自分の中に生じていることにだけ反応している日常だったのだ。

今まで生じていた、人との関係の中での感情は、事実とは無関係だったのだ。

愕然とした。

「事実化のメカニズム」を知るかどうかは、人が生きる上で大きなカギになると思う。

探究したことで自分のことを耕した感覚があり、いつしか日常の中で無意識の内に、作用していくものと思っている。

探究の最後に「自分を知るためには」という問いがあったが、この問いに対する自分の

考えを、暮らしの中で検証したい気持ちが高まっている。(40代女性)
自分を知るためのコース | - |

自分を知るための内観コース

自分の人生に向き合う。

幼少時から現在に至るまでの自分とじっくり向き合ってみませんか?

その中で自分を客観的に観察する力も養われていきます。

客観的に自分を観る能力が出来てこそ、本当の自分を知ることも出来るようになっていくでしょう。

昨年12月の内観コースに参加した人の感想を紹介します。



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内観コースを終えて、今思うのは、自分の身の周りにある、豊かさに気づくことが、幸せにつながるように感じたことです。

内観では、自分の中の記憶をたどりながら、その時あったことをみつめるのですが、記憶を星で例えたら、私の場合大きくよく光る星ばかりで、それらはたいてい被害者としての自分の記憶で、「もっとこうして欲しかった」「もっとこうしたかった」という、子供の頃の私の声が聞こえてきました。

もう少し目をこらし、ようやく見えてくるのは、小さな星の集まりで、この中にようやく「してもらったこと」を見ることができました。その数は、実は大きな星よりも圧倒的に多く、すき間もないほどにあることにも気づきました。

人は満たされなかった欲求には、関心がいかなくなり、いつしか忘れてしまう。

けれども、満たされなかった欲求は、いつまでも手放すことなくその欲求もさらに大きくなり、記憶に残り続けるのかもしれません。

母からは、母を反面教師として「女性は自立すべきだ」という考えを。

決して私をほめることがない厳しかった父からは「自分は無価値な人間である」という考えを。

これらはいずれも私がこのように捉えたのですが、大きな力をもち、人生の中で何かを決断する時、選択する時、行動する時、人と接する時、すべてに影響を与え、私を苦しめてきました。

でも、人生とは不思議なもので、この影響を与えた本人である母の病気、父の病気を通じてと、わたし自身が会社という肩書きを捨てて、なんでもないひとりの人間になって、人生の底辺にいたということも重なり、家族と時にはケンカしたり、話し合い、助け合いとしている中で、その考えが全く私の勘違いだと気づかされるに至りました。

この経験は私には本当に意味が深く、この内観で振り返りながら、複雑にからまった糸が、きれいにまた一本の糸にもどったような、スッキリとした気分と透明な気持ちがしています。(これも家族の力により、解くことができました)(40代女性)



お母さんがいるから私がいるんだな。

お父さんがいるから私がいるんだな。

おばあさんがいて、私がいるんだな。

彼らがいるから、今の私がいるんだな。

お母さんに、父に、おばあさんに、彼らに

受けてきたすべてのことが今の私にある事なんだ。

私が持った考えも、

私が自分だとしてきたことが全部では分からないが、受けてきた考えだね。

実際に繋がっている存在。(30代女性)
内観コース | - |

心のスタート 人生を豊かに生きるために

<自分>・<人生>・<社会>についての、様々な問いに対して、自分の頭を使って、じっくり、探ってみる時間をもってみませんか?

アズワンセミナーは、日常から離れた合宿生活の中で、日頃、自分を窮屈にしたり、自分らしさの発揮を阻んでいる観方などに気づき、人生をよりよく生きるための根本的な問題について深めていくセミナーです。

11月アズワンセミナーに参加した人の感想を紹介します。



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社会について、このようにあらためて考えることが少なかったので刺激になった。

自分と社会の関係についてや、社会をどのように見ているのか、その中に「人」との関係も見えてきたように思う。

争い・対立のない幸せな世界について思いを巡らせると、参加者それぞれの言葉や表現は違っていても、本質的には同じような事を大切にしているんだということがわかり、人間は一つなんだなということを再認識した。

その世界を実現するために私個人に何ができるのか考える良いきっかけとなった。

全体を通して独特の「間」があり、その感覚について違和感を持ったこともあるが、それは今まで答えのあること、早く答えを得ることに慣れていたことからくる、自分の反発だったのかもしれない。

でも、今まで得ていた「答え」も本当の意味で、どこまでゼロから探究しようとしていたか顧みる良い機会になった。(40代男性)



身近な実例を上げて探究していく中で、最初は相手に原因があると思っていたものが、最後はそうだと言い切れなくなってしまいました。

勝手に自分が相手の言動に意味づけをしていて、自分の感情が実際の中に紛れ込んでいたことに気付いた時は衝撃的でした。

今までは、怒りが湧いてくることがあってもそこに目を向けることをしてこなかったし、相手に対してなんでそんな行動したのか考えることはあったけど、なぜ自分が怒ったのかは考えることがありませんでした。

自分自身を探究していくことは自分自身を観察していくことであって、全てを受け入れることでもあるなと思いました。

そして何気ない会話の中で、「実際はどうだろう?」と問うことで、普段自分の中で思い込みやキメツケをしていることに気付くことが出来ました。

初めて参加者同士顔を合わせたときも、自分の中で、この人はきっとこういう人だと決めつけていた自分がいました。

また、「実際の自分とは?」ということを探究するとき、「実際の自分」は、「自分と思っている姿」とは全く同じとは言い切れず、体がここにあるのに私とはこれだと断言することが出来なくなりました。

自分らしく生きるということは、自分だと思っている虚像、もしくは、なりたいと思う姿をまねて生きているのか、自分らしく生きることと自分であることは少し違うなと今でも探究が止まりません。(20代男性)
アズワンセミナー | - |

心通う話し合いのできる人に 「人を聴くためのコース」

「話し合い」になっていく上で、一番の要になるのが、「聴く」という要素です。

単に言葉や、表面的な気持ち、考えを聞くのではなく、その人そのものを理解する、つまり「人を聴く」ことで、心から通じ合える、人を尊重し合う豊かな話し合いができるのではないでしょうか。

10月「人を聴くためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



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相手の情報を集めてそれを分類していけばこの人はこういう人だと分かると思っていた。

だから身近な人は多くの情報があってよく知っているという感じがする。が、

どうやっても、完全に知ることができない相手の世界がある。 

それをはっきり知ることで、相手の世界に向かっていく働きが生まれていくんだろうなと感じた。

相手の世界を表現しようとした言葉や表情、雰囲気をこちらは感覚で受けて自分の世界で意味付けして理解しようとする。

自分の世界と相手の世界は全然別のもので、それでも何とか探って知ろうとしていく。

相手の世界が自分の世界に入ってくるのか、それぞれの世界が溶けて混ざっていくのか、何となくそれを続けていったら、世界が一つになっていくのではないかという発想が出てきた。

それぞれの世界が、心がつながっていき、一つになって調和していく。

そうしたら現れも自然と調和していくのでは。

それぞれの世界に上下も優劣もなくそれぞれがそれぞれとしてそこにあるだけ。

色々な世界と混ざり合い自分の世界がより豊かになっていく。(30代男性)





自分の中で「聞く」と「やる」がくっついてる。これはなかなか根深いなと思った。小さい時から相当訓練してきたのか、普段あれっ?と後でそういう状態に自分がなってたのかなと思うことはあっても、聞く瞬間は「やる」で聞いてるから、それを「やるか、やらないか」の選択で頭が忙しい。やらなくても「やる」で聞いている。

最初は相手は何が言いたいんだろう?と相手のほうに向いていても、言葉を聞いてから自分の頭の中で言葉の意味を探したり、相手が話してる内容を自分がちゃんと理解できてるかとか、言葉の意味があやふやだと「あーかな?」「こーかな?」と自分の頭の中で浮かんできたことをぐるぐるとやりだす。そうなると途中から相手の話にも集中してないし、その話が出てきた相手の本体には関心が向いていかない。(50代女性)





そもそも人が話し合おうとするのは、聴いて欲しい(知って 欲しい)と、知りたいという欲求があってのように思う。満たされることの無い単独の欲求なんて無いように思う。特に子供のうちは知って欲しいというのが強くあると思うが、大人にもそれはあると思う。

一人の時に話す人はあまり居ないと思うが、誰か人が居て話したくなる。人ってどういう生き物なんだろうと改めて思った。何もなくて言葉が出てきているのではなく、その人の中で何か心が動いて、それを人に見て欲しい、知って欲しいという現れの1つで言葉というのが出てきているのかなと思った。

人を聴くことで聴く人にある影響として、聴く相手の存在が自分の中で厚みを増していくということなのかなと思った。自分の中でその人の厚みが増していくことは、自分の豊かさが厚みを増すことでもあるのかなと思った。ここはもうちょっと調べたい感じがする。

(20代男性)
人を聴くためのコース | - |

素直に見て、聴ける、知的な人へ~自分を見るためのコース

自分自身に対してや、日常の物事の観方や捉え方は、それぞれの価値観・人間観・社会観などを物差しして判断しているのだと思います。

その物差し自体は、自分に身に着いてしまって、日常では自覚することもなく、当然のようになっていることが多いと思います。

その物差し自体を観察して、客観的に調べられるようになることで、キメつけや頑固さから開放され、素直に自分自身や物事を見ることが出来るようになるでしょう。

10月「自分を見るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。



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普段の暮らしから離れて、自分の中に目を向け、つぶさに観察する日々を送った。

「見る」とは、どんなことをやっているのか、どう捉えているのかを「知る」機会になったと思う。

常に自分にベクトルを向けていると、ゆっくりコマ送りに観察する「眼」が養われて行ったように思う。

目はどんなふうに対象を捉えているのかを、図で表されたのを見ている時点では、頭での理解。

いろいろなエクササイズの中で、壁掛け時計を検討会室に持ってきて、逆さまに置かれたのを見たとき、自分の中で、「時計」にする瞬間があるなと気がついた。

それは、とてつもなく瞬時に起こるので、捉えるという実感はなかなか掴めない感じだけど、自分が「それ」を「時計」に「した」から、「あ、逆さまだ」とか「止まっている」とかの反応が出てくる。そのものは、「時計」でも何でもなく、クオーツとかプラスティックとか呼んでる物質が組み合わさってなんらかの動きをしている。

それを、「見て」→「時計にして」→「逆さまだ」という順序に自分の中で起こっている。

自分の例で、面白かったのは、夜中に目が覚めて考え事をしていた時、ぼやーっと部屋の中のものが黒く見えている。暗闇に目が慣れてくると、昨日までの記憶から「これはタオルかけ」だとか「これは電気」だとかに「する」瞬間があり、そのように見ている。

お風呂に入るときに、脱衣かごに布がかかっているのを見て、「足ふきマット」とする瞬間があり、「昨日敷いてあった場所に敷こう」と動いている。

「見る」の中には、○○に「する」瞬間が組み込まれている。

自分の中の知識や経験や記憶のデータからそれは一瞬にして起こっている。

○○にしているのは自分だから、当然そのものではないわけで、自分で○○にしたものを見ている状態。

この一枚が加わり、その瞬間を実感すると「自分が捉えているんだ」と強く思い込まなくても、自然にスーッといく感じ。

コースが終わり、久しぶりに見る街並みには、目を刺激するようなものがたくさんある。

今までの習慣ですぐに反応のほうに引っ張られる感じだけど、「○○にする」瞬間を実感するには、常に自分の中を見ている「眼」を鍛えていく必要があるのかな。(60代女性)



ボードの文字を見てそれがボードに書いてある、意味がボード側にあるなとなっているのか、それとも見て像を捉え認識した、が自分側にあるとなっているのか。

自分がそう見た、読んだ、読み解いたとなっているのか。

意識と行動の関係は、自分がそうしようと思って行動していたりするが、その行動自体だけを見るとそうしようと思ったことと別のように感じた。

料理しようと思って料理した。とか、自分が料理していると思いがちだが、実際には手足を動かしているだけ。それしか出来ないとも言えるだろう。

あの人が面白いことを言って笑ったのではなく、自分が聞いて、面白いと感じて、自分の中で笑いが起きている。

五感で捉えるもの全てがそうなのだなと思った。

○○さんに言われたとなっているのは相手の事がわかっている感じがする。

「思われる」とか「言われる」とか「○○された」とか果たしてそんな事が出来るのだろうか?

自分が主体となっているとそういう表現すら出てこない感じがある。



ナニカを見て、聞いて自分の中にあるものとそのものの要素が組み合わさって、自分で認識しているのだろうか・認識?自分が判断しているのだなと思う。

捉える→推測ではなく、よくよく見ていき、「なぜそうしたのか」と問えば自分の中で何が起きていたのか一つ一つある気がする。

そこが大事なポイントのようにも今の自分は思う。

なるようになっている世界では自然とそのものや本質的なものに関心がいく感じがする。この「自分を見る」のベースがハッキリとしていると自然とそうなるのではないかな。

意識しなくても、そうなっている状態。

コースに通ったら出来るわけでも知識を詰め込んだから出来るわけでもなんでもない気がする。

言うてみればただ人間の元々もっている仕組み通りに生きていくだけなんじゃないか?と思うと、今は複雑に絡み合いすぎてよくわからんちん状態となっている。

その元々の状態に気づいていく、知っていく。それに尽きるのではないかな。

なにかを得たい、分かりたい、知りたいとなるのは人間の本性な気もする。

それは自分の中に新しい知識を入れるのではなく、自分の中にある元々の状態に気づいていくのが自分を知るや自分を見るということなのだろうか?(30代女性)
自分を見るためのコース | - |

もっと、自分らしく~自分を知るためのコース

自分らしく生きたい、でも、自分らしさって何だろう?

「自分らしさ」「自分らしく」を捜し求めたり、自分ひとりで考えてみても、わかるようなものではないでしょう。みんなの中、人のなかで、自然に現われてくるものなのかもしれません。また、気づかない縛りや決めつけから自由になることで、もっと自分らしく、もっと軽やかに生きられるようになるでしょう。

9月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



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自分の回路の根底に「善し悪し」の概念が相当の強さで存在しているだろう、ということに気づきました。

目の前の現象や、行為をとらえる際のベースになっているとさえいえるような「善し悪し」。

しかも、それはふと立ち上がる“思い”さえも支配していました。

そんなことを思ってはいけない・・・・。子どもを亡くした時に、自分で気づいてしまったある思い。

母親だったら、絶対にそんなことは思ってはいけない・・・。わたしは、それを30年以上も忘れることなく、心の中にしまい込み、自分を責めてきました。

あまりにも自分を知らない、という実態。 というのか、自分の知り方を知らなかったということなのかもしれません。(50代女性)



自分の中で起きるすべてが、どこまでも、自分の感覚、自分の考えという自覚があるか、からが始まりだなという気がした。

「自分の考え」というのが鮮明になれば、鮮明になるほど、実際の自分に、実際の世界に対して、関心が進むことになるのではないかな。

「自分の考え」という自覚が消えるとき、断定することになったり、自分の考えに自信を持つようになったり、自分が思ったのが変えられないことになるかなと思った。

一つ一つのテーマで、探究してみて、「自分の考え・感覚」という自覚が、なぜ消えるのだろうか考えるほど不思議だった。

「 自分の考え」は、考えだということがもっとも易くて,簡単な感じだが、あえて事実化して、事実化からもともとの状態に戻るのがどうして難しくなってしまったのだろう。

「知った」「断定」「事実化」「善悪」「当然」などが、考えの中でいくらあると考えても、追求しても、実際の世界は、考えの世界とは別だろう。

実際の世界にない幻想を見ながら暮らしているんだと思う。

実際の世界が見えないほどの人間の考えで。。。 (30代女性)



そうなってしまってきているのは、自分を含め、そもそも人は人間はどういうものか、どうなっているのかというのを”知らない” ”知っているつもり”というのもあるのだなと感じる。

そのあたりがハッキリしてきたらずいぶんと楽に生きられるような気もするし実はとてもシンプルに感じる。

そこで「知っている状態」になるとまた同じ回路の考え方で、固まってしまってその先がなくなる。

どこまで行っても「知っていく」ことでやわらかく生かしていけるのかな。

“決めつける”というのと“決めつけない”というのは同じ回路な気がする。

決めつけていた自分を否定して、蓋をし、そうなってしまっていることを否定する感じ。

思ってしまった自分が悪い。

それは2重のレッテルを貼っているようなもので決めつけよりも複雑化させてしまっているような感じだ。 とても無理がある。

そもそも“決めつけること”自体が可笑しく思えてきた。

出来ない気がするのだ。

自分がどのように捉えているのか順を追ってみていくと…”自分”ってなにをさしているのか見ていくと…そもそも決めつけることなんて出来るのだろうか?

“決めつけないようにしよう”ってとても無理があるように感じる。

決めつけること自体がなくなってくると独自の回路も徐々に書き換えされていくように思う。(30代女性)



人間が持っている考え、認識、言葉、記憶、心、知性など個人の中にありながらも世代、地域、社会の中で影響し合っていると思った。

一度その集団の考え方、価値観などをインプットすると無意識にいつでもそれを踏襲する。

そうなると、自分にとってそれがどういうモノか?

そのことで何がどうなっているか?

見直すことが難しくなるように思う。

「私はこう感じるけど、本当はどうだろう?」とならないのは、単にそれを知らないからだと思う。

それは人の中で自分がセットしたように、人の中で気づき調べていくことのように思う。

自分の存在を知っていき、考え、記憶、言葉などの性質を知っていき、自分の現状を知っていくことが人らしく生きていく上で欠かせないと思う。

良し悪しの評価ではなく、只々自分がどうなっているのか?

その中に何があるのか?

子どもを見守る親のように自分を知っていきたいと思う。

今までに何回か自分を知るためのコースに参加したが、今回は、自分でもたくさんの人の中にいて安心している自分が浮き彫りになってきた。

日常の私を取り巻くすべてのモノの中から現れてきた。

それは私一人では現れようのない自分だと思う。

こんな風に人の中でどこまでも知っていける。(40代女性)
自分を知るためのコース | - |

楽しく、深く、「ほんとうは、どうだろう?」 

身近な問い、例えば、「見るとは?」「聞くとは?」「自分とは?」「幸せについて」「社会について」など、自分たちで話し合いながら、楽しく、深く、探ってみませんか?

「問い」「テーマ」を発するスタッフはいますが、誰かに教えてもらったり、何かを学習するのではなく、自分の頭を使って、自分たちで、じっくりと探究してみましょう。

新しい知性の使い方、心とつながる学びを「体験」「体感」できる機会です。

9月アズワンセミナー、参加者の感想の一部を紹介します。



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みんなの経験・考えを出して、一つのテーマを見ていくと、今までに自分にはなかった考え・見方に共感し合ったり、提案し合えたりして、その場の雰囲気がとても心地よく感じている自分に気づいた。

探究が楽しく、日常ではあまり使っていない頭を使っているせいか、テーマ「怒り」では違う疲れがあった。

人との関係性、社会との関係性、自分とは、幸せとは、考えとは、経験とは、キメつけとは、テーマを一つ一つ見て、考えてきたのだけれど、どのテーマも、生きて生活していく中では、どれ一つとして、一つでは存在していなくて、影響し合っているのではないかと感じた。(30代男性)



人や物とあらゆるものとの関わり影響し合いながら存在しているというのが見えた時、とても身軽になった感覚がした。自分ひとりでなんとかしようとか、そういうのから解放されていく感じ。

不安や警戒もこういうところから来るのではないだろうかと思う。

本来の幸せな状態は親しいと感じる人が幸せであってほしいと願う気持ちから探っていくと、その人がその人らしく安心した心の状態であって生きれること。

自分も大切な人たちもそんな社会で生きていけるといいなと思う。

そんな社会で育っていく子ども達は身につけていくものが違うだろう。

人は人の中で生きていく。

そものもがそのものらしく幸せに生きられる社会を創る一人となりたい。

小さなところから…。(30代女性)



沈黙の時間が心地良かった。

(私自身は)他の人の発言を聞いていたのか、いなかったのか、分からないけれども、聞いたこと(聞こえたこと)から、引き出される、自分の内側の言葉をおもしろいという風にとらえたのかも知れない。

テーマに添って話すわけですが、始めから何を話しても良いような雰囲気があり、緊張しながらも居ごこちが良いと思いました。

「親しい間柄」を普段の生活の中では、続けることは大変かもしれないけれども、「親しい間柄」について話し合える場があると分かった事は、とても心強いです。(50代女性)



幸せはお互いの事。

本当に何を願っているか見えづらくなる。

関係、関連の中で生きている。どこから自分といえるか、どこから自分の力といえるか。

赤ちゃん、生きているだけで影響している。

対立、対抗心、優劣感、劣等感は一時的なもの。

安心状態とは?

本当はどうありたいか。本当は・・・。発見の連続(探究)

人の中でこそ人として生きていける。

知識、経験、キメツケ、前提にならなくても残るものあるのか。

培われるという感じもする。

現状においてお金に囲いがないかというのはみえやすいバロメーターではないかと思う。

それが出来ているか出来ていないかという事よりその人の内面の状態。

調和を実現するには、・・・

そのものらしく生きられる社会、実現したい。知りたい。(20代男性)
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