自分をそのまま見ることで、思い込みから解放される

自分自身を観察し、そのまま見ることで、自分の中の思い込みや決めつけに気づきます。 気づくことで思い込みや決めつけは自然に外れていくようです。

思い込みや決めつけから解放されることで、「実際はどうか?」と知性も正常に働き始め、物事を素直に見たり聞いたりできるようになります。
物事に対する自分の見方・聞き方を正常なものにしていく探究・集中の四日間です。

11月13日~の「自分を見るためのコース」に参加した人の感想を一部ですが紹介します。
IMG_20211123_103319.jpgいくらでも聞ける、もっと知りたくなる
自分に目を向けて 具体的に細かく 分けて分けて 一つずつ見ていく
状況 反応 動作 言葉 そこだけをピックアップして ただ見てみる

どこから調べても辿り着く先に、浮かび上がるのは自分が捉えたこと 
ここからは出られない 

私が見た 聞いた 感じた そこから 全部 自分の中で起きている
自分が捉えたことに反応してる
自分が捉えている その一点 

頭からふわふわと吹き出しが出てるよう、相手の世界 私の世界
いくらでも聴ける もっと知りたくなる
ただ知るだけで世界は一変する(女性・30代)
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一喜一憂は、自分の捉えたものへの反応
〜と思って〜した 意識と実際の行動
今までは、相手や状況、外のものと自分の中のものが、反応していると思っていたかな
見たり、聞いたりして
自分の捉えたものと、自分の中にあるものが反応して、行動として現れている

何に反応しているのかと見ていくと 自分の捉えたことに反応して 一喜一憂している、そんな自分の姿が可笑しかった
人は、その人なりの捉え方で、その人なりに反応している
一人一人違う 知りたくなる
だからこそ面白いのかな(女性40代)
img4425_DSCF8095.jpg主体性の自覚は、自由の自覚
最後の3日目の夜、また眠れなくなって、目を閉じたまま頭の中でぐるぐるパターンが始まった。
「見て、聞いて、捉えて、〜反応する」ということを思い出した。
何を見て、反応しているのか。 目を瞑っていて何も見てない。 
いやいや頭の中の状態を見ている。

そっか、自分はいつも頭の状態の中をずっと見ていて、いつも「悟り状態」という記憶と比較している。
それが反応だ。
そして、比較するという反応の次に、いまの頭の中の状態を「問題視」するという反応が起きている。
それから頭の中のなんとかしようとする反応が起きる。
これがいつもの慢性反応パターンだとふと気づいた。

問題視している。 問題と捉えている。 それを解決しなければ、だめだと捉えている。
だめだと捉えていたことがはっきり、くっきりと見えて来た。
自分の状態をだめだ、と捉えた瞬間、そこで決めつけ、自分の状態を見なくなっている。
その状態を見ることから離れて、頭の中で、考えで、この状態を変えたいと、なんやかんやともがいて、自分で苦しんでる。
この自分の心の状態をだめだとする捉え方を無自覚に延々とやってきて、ずっと気づかずにいた。

自分が捉えて、自分で反応しているという自覚は、主体性の自覚であり、主体性の自覚は自由の自覚につながる。
このことを自覚すればするほど、捉え方も、反応も、理に適ったものになっていく感じがする。
その自覚が深まるほどに、見て、聞いている自分も理にかなった自分になっていく感じがする。(男性60代)
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自分がそう見て、そう思って、〜をした・・・主体的な生き方へ
自分がそう見ている、そう聞いている そこがどこまで身になっていけるか
言い聞かせるのではなく、その都度その都度

状況などの外のものとしている、しているものに、動かされるような状態と 
自分がそう見て、そう思って、〜をした と動くのとの違い。
主体的なようにも思えた。(男性30代)
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観察力を培い知性を働かせて知的に生きる

自分を観察し、思い込みや決めつけから開放され、素直に見て聞ける、知的な人へ。
物事を科学的に調べていくための観察力が養われる探究会です。
自分の物の見方・捉え方を客観的に見れるようになることで、素直に物事を見れるようになり、実際はどうかと知性が働き始めていきます。

8月21日~の自分を見るためのコースに参加した人の感想を一部ですが紹介します。
箕田公園.jpg誰もがのびのび暮らせる世の中への第一歩、観察力をつける

意識に登ったのは全て、自分が思ったこと……
意識に登らないことも、覚えていないだけで、常に何か思っているかな。
思うしか出来ないとも言えるのか

みて、きいて、それに反応しているような感覚
出してみると、離れていく、自分の中に反応の元があるのがハッキリする。
何となくクセやパターンがあるのがみえてくるけど、したくないのにそうなっちゃう。
何がそうなのか、とても気になる、何からそう現れるのか、調べたくなる。
もっと集中してグッと見ていきたい。

現状を知る。
見るためのコース、は観察会?
そんな風に聞いたけど、ひたすら? 観察の練習をした。 引き続き観察の練習
ここハッキリしないと、何も始まらない気がした。
でもここから始まるとも言える?
誰もが安心してのびのび暮らせる世の中。 
そこに繋がる観察力?(女性50代)
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見て・聞いて、そのまま素直に・・・面白くなってきたぞ!

その都度聞いたと認識したそれを、紙にエンピツで書いた。
段々に複雑に聞こえるそれは、もうどう表現したら良いのか解らない。
5回以上は繰り返したかな? 私の頭の中で起きている事が見えた気がして、…笑えた。

私独自の回路に反応する何か。
「私を見る」=観察するのであって、考えたりあれこれ思いめぐらせるのではない。
見て聞いてどう反応したか、そのまま素直に捉えて出してみる。 
表してみる。

見て聞いて 「〜」と反応した。
「〜」の辺りを観察してみたら。 って。
パソコンに向かって思い出して、書く作業をしている。 
なんか知らないけれど面白くなってきたぞ。
私の頭、どうなってる。??(女性70代)img4036_DSCN9962.jpg
怒りの感情の正体、その理解の進みが、反応を落ちつかせる

自分のうちにあるもの。 自然に湧いてくるもの。
一つは感情。 感情に理屈は通用しない。
いくら「反応は自分の捉え方の結果だ」と言い聞かせたところで、反応は出る。
ごまかせない。

怒りや悲しみといった、マイナスイメージのある言動は、出すのはよくないことだという観念からか、現れを抑えがち。
正しく“見る”ことができない。
飲み込むことに慣れすぎて、自分の欲求どころか感情さえわからない。
そのまま出す以前の問題。

人の言動、自身の反応に対して、強い感情が出ることがある。
「おかしい」「悪い」 そう言える根拠としているものがあるから。
その人自身の捉え方によって認識し、その人自身の中にあるものによって反応が生じ、その人自身が傷ついている。
その人自身の内部プログラムのエラー。

反応したのは「アイツのせいだ」「自分のせいだ」と感情的に決めつけ、言動を改めさせようとする。
目の前の事象を否定し、自身の認識・反応を肯定している。
根底にある根強い観念、価値観。
いつの間にか出来上がってしまった、自分理論。
それに基づいて半ば無意識に自分を律し、自他を裁く。

何に反応した?
どう捉えた?どう受け取った?
どこが気に食わない?

正体が分かり、理解が進むと、だんだんと反応が落ち着いていくような気がする。
疑問が生じる。 不思議だと思う。 関心はそこから湧いてくる。
「不仲が当然だ」としていると、疑う余地がない。
「分かっている」となっていると、「実際は?」の問いは生まれない。(男性30代)img4038_DSCN9971.jpg
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人の中で、自分の中をそのまま、丁寧に、見てみる!

普段感情に流されたり、不快な思いをしたりすることはありませんか?
みんなの中でそのままを出しながら、楽しく、調べていきます。
反応や感情を観察しながら、客観的に観る力を培います。
2月27日~自分を見るためのコースに参加した人の感想を一部紹介します。
20180313_105046しだれ梅300.jpg自分自身の日常を、客観的に見ることが出来る自分へ
今回のコースでは、「自分を見る」ための練習の仕方を実践も含めて体験したと思う。
スタッフがていねいに方向を示してくれた。
自分の事例を出しつつ、〇〇さん、△△ちゃん、☆☆ちゃんと一緒に楽しく探究できたのが何よりうれしかった。
後は日々の実践のみだなあ!(男性60代)
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反応の中身、元を探る面白さ!
反応に反応を重ねて生きている自分に気づく
見るコースから今までの自分を振り返ると、反応しかしていない、
それに基づいた考えや思いから行動をしているように見えた。
今まで本当に生きていたのか?
何をしていたのか?
不思議だなぁ

人の考えは全く外側から見えない。
全く見当もつかなくてだからアズワンミーティングが面白い。
「えー!そんなこと考えてたのー!!」ってなった時の感動というか面白さが結構好きだわ(女性30代)
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反応の元を探り、捉え方が見えてくると、本心も見えてくる
自分を見るとはどういうことかから始まって、自分の中に起きている反応をみる、何に反応したのか、何を見ているのか、見たものをどう捉えたのかとひとつづつ丁寧に時間を掛けて検べていった。
3日間、ひたすら何に反応したのか、見たもの聞いたものに反応したのか?、自分の中で捉えたものに反応したのか?といろんな例で見てみた。
日常ではあまりにも当たり前に相手がそうしたから、そう言ったからと自分の外のものに反応していると思っている。
そこを繰り返し繰り返し自分を見てみる。

一人では見えにくいけどみんなの話を聞きながら、笑いながら見えてくる、自分が捉えたその人、その事に自分なりに反応していることが。
同じ場面でこんなに違う見え方があるんだと改めて実感した。

そう捉えるのは何故かと見ていくとその奥にあるものもちらほら見えてきたり、そう言えばこんなことが過去にあって強く印象に残っているとか。
そして実際はどうなの?と。

自分に向き合って素直に自分の中に起きていることをそのまま見てみることで自分の中の本心も見えてくるように思った。
それで自分はどうしたいの、どうなりたいのと自分に問い掛けたくなる。
 
アズワンミーティングについての一文

何でも出しあい、自分を聴き、人を聴き、お互いを理解し合おうとする中に、和気あいあいとした気風が生まれるミーティングです。
 
3日間このミーティングをやってきたんだなと思った。(女性60代)
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見て聞いて、自分が思っているという自覚が、知性を働かせる!

自分をそのままを見る力を培うことによって、日常の見たり聞いたりして思っている自分を、科学的に調べていけるようになります。
そして、物事を素直に見られるようになり、実際はどうかと知性が働き始め、柔軟な思考が出来る頭に変化していきます。

12月19日からの「自分を見るためのコース」に参加した人の感想、一部ですが公開します。
img3121_file-nagano.jpg頭の中をそのままを見ることで、妄想が小さくなる
私にとって大きかったのは、事実、実際の世界と、見てから後の事は頭の中の事でその間に区切りがあるという事。
その区切りがハッキリしてさえいたら、自分の妄想は膨らまないなと思った。

自分を見るときに、その時の自分の心の状態や意思や欲求があって、それを捉えて言葉にするのだけど、その言葉になる前の自分を見ようとするのかなと思った。
そして、捉えたものに反応して、思いや考えが出てくる。
私はその思いや考えを事実化することで、悲しくなったり重くなったりするようだ。
固定化しやすい頭だね。

過去の大きな反応、悪感情が出た例も、出して客観的に見てみると、その時の自分はそう捉えたんだな、寂しかったんだな。
聞いて欲しかったんだな。と思う。
それを相手の言動のせいにしてたんだな。
言われる。 させられる。 責められる。 思われる・・・られる事なんて無い。

例え相手が押し付けてるとしても、機嫌が悪いとしても、そうなのかな? どうなのかな? ってなったら、自分が暗くなったり、重くなったりしなくてもいいなぁとおもった!(笑)
なんだか随分軽くなった感じ。(女性、50代)
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無自覚な自分を見ていくと、自分の本心が観えてくる
相手がそう言ったかもしれないと思っているけど、実は相手がそう言ったんだ。
そうした。
それが起きた。
という無自覚の自分がいるな〜

自分を見る。自分の本心を知る。 
それから相手と通じ合って、検討が出来て、やさしい社会が生まれるかな。

今回、自分を見ることと本心で生きられる社会の実現をちょっと見えてきたかな。 
自分を見るの重要性をちょっと見えてきたかな。(男性、30代)
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決めつけや頑固さからの解放が、本来の知性を働かす!


日常の物事の観方や捉え方は、それぞれの価値観を物差しにして判断していると思います。
その物差し自体は、自分に身に着いてしまって、日常では自覚することもなく、当然のようになっていることが多いと思います。
その物差し自体を観察して、客観的に調べられるようになることで、キメつけや頑固さから放たれ、素直に自分自身や物事を見ることが出来るようになります。
そこから、実際はどうか、本質はどうか・・・と、人間が本来持っている知性が働き始めていきます。

7月25日~開催された「自分を見るためのコース」に参加した人の感想文の一部を紹介します。
shutterstock_157103996-480x320ハイビスカス.jpg自分の中の反応を捉え・そのまま出し、ただ・見る、人に触れる面白さ!
短かったけど、いろいろあったな。
人がおもしろかったな。
〇〇さん 始めて出会ったけど、なんか最後らへんは何をいってもおかしかった。
またね。
△△ちゃんはこの前のコースも一緒だったけど、もっと近くその人を知れた気がした。
なんかひとりひとりがユニークでおかしかった。

見るもひとりではできないな。
反応をつかまえてミーティングにだして、よく見るだけかな。

最後にスタッフさんが悪感情をなくすことなんて、なかなかできないけど、悪感情を持たないと書いてあるねと。
アスワンミーティング 一番の近道とも誰か言ってたかな。(女性60代)
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〇〇さんを見たのか? 自分の中の〇〇さんか? 記憶のカラクリは?
〇〇を見た、〇〇に見えた
いくら自分が見たと自信があっても、見たという実感があっても、そうにしか見えなくても、実際そうだったと言えない。
その根拠が、自分が見たということしかない。
どうしたって自分の目で見るし、自分の頭で記憶する。

〇〇さんを見たって言うとき、
顔、髪型、身長、服装、雰囲気、声、他にも色々捉えながら自分の中の〇〇さんを見ている。
その人を見ているつもりでも、自分の見方でしか見れないんだな。
人それぞれに〇〇さんの見方が違うんだろうな。

自分のことも自分が見てるとこしか見えない。
そんなこと当たり前じゃんって書いてて変な感じがするけど。
つづく、、、(女性20代)
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人に見てもらい、人に委ねることで、本来の自分に
自分を見る  
どういうことだろう。 本当に知らないんだ、ということが明るみに出る。
そんなことも今までは気がつかない。 従来のやり方、頭のまま。 
自己流で委ねない自分。

自分で捉えた自分像。 そこに強い自信をもって、私は、こういう人。
そう捉えている。
私以外の人の中にある「わたし像」それには「違うよ」と言いたくなる。
自分が思っている自分がいる。 かなり自信があるな。
人に委ね切れないところは、こういうところからきているのもあるかも。
そう思えた。

自分以外の人からの、私像。 どんなかな?日々変化しているんだろうな。
人に見てもらう、委ねる。 捉え直した感じもする。(女性40代)
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自分を守ろうと固定している「自分の考え」を、見るから⇒自由な生き方へ!


自分の判断基準となる、身に着いた物差し自体を、観察して、客観的に調べられるようになることで、キメつけや頑固さから解放され、素直に自分自身や物事を見ることが出来るようになります。
「自分を見るためのコース」では、物事の見方、考え方の元を集中的に調べ直していきます。
快適な生活をするために、固定した物差しや考えを使う事の不自然に気づき、実際を見ていく方向に頭が向きます。

先月参加された方の感想文の一部を紹介します。

以下のページから「自分を見るためのコース」の案内が読めます。
http://www.scienz-school.org/hp/jibunwomiru.html
IMG_20200604_055908.jpg◆「自分が捉えている」が無いと、考えが大きくなり主体性を失っていく
反応の中身が見えない感じ。
反応の反応 反応からの考え 反応をダメとする考え 最初の反応がボヤけて見えないな。
見えないというか認めない。

認めない自分がみえてきて
ひとつ、ひとつゆっくり巻き戻しみたいにみていくと、最初の反応が見えてくる。
これを認めたくなかった。
だから反応がボヤけていったんだな。

反応が出るのは自分が捉えているから。
そこを自覚してなかったのかな。

自覚が無いから「自分の事を言っている。言われた。」と外に原因があるように捉えている。
自分が大きくなる違和感。

自分が捉えているという自覚があれば人を動かそうとしないな。

そこをもっとハッキリしていきたい。

みること、きくこと。
主体的に。
たのしく、自覚していく方向へいきたい。(女性40代)
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◆反応を捉えて見る…その時のそのままを見る、味わう
「自分を見る」とはどういうことか?
日常を離れてじっくりと探究。
自分の事例も出しながら。 
見て、聞いて、反応する。 
この繰り返しの日常。

「反応」の部分はどこをとっても自分の中にしかない。 
どうだろう?
いろんな視点から見ていく。
実際はどうだろう?
日常の何気ない動作はどのように成り立っているのだろうか?

育ちの中で反復、教えられたり、見たりまねたり、強制されたり、、、そうしていくうちに見えなくなっているもの。
そういうものの中で暮らし、ないものをまるで事実あるもの、すべきもの(こと)として、自分や人を縛っている。
そのことに気づいていない。 
自覚がないんだなぁ。。。

その時のそのままを見る。 味わう。まずは反応を見る。
反応のもとを、自分がそれをどう捉えているかを見る。

単純なようだけど、これまでずーっとそこを抑える、隠す、ごまかしながら、社会に適応してきたから、なかなかそこが捉えずらくなってるんだな。
そこがハッキリ捉えらるように、日々を意識的に、自分の認識、感覚だという自覚が身に付いてきたら、自然と実際に関心が行く感じがする。
「実際はどうかな?」と気が向く感じがする。

誰もが本心で生きられる社会の実現。
「先ずは自らの内面に目を向けるのです」という表現もあった。
今回の「自分を見る」ということだろう。

そういうことをしているお互いが、遠慮気兼ねなく、なんでも出し合い、和気あいあいの気風をつくっていく。 
実際はどうかと検討し、理想を実現していく。

自分の中で、これからやってみたいことが浮かんできている。
各地のメンバーともう少し密にミーティングの機会を持ちたいなということ。
理想はあるけど、先ずは日々の「自分を見る」をはっきりさせていくこと。(男性40代)
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自分を見るためのコース | - |

自由な人生への出発は、自分を見て、そのまま捉えるところから・・・

心の解放は、見て、気づいて、自分の実際を「知る」ことで、自然に起こります。
「こうするものです」と言われて育ち、しなければならないものが、いっぱいできた育ちをしていませんか?
「しなければならない」もので、自分を無意識に縛っていませんか?

参加者でともに探り、一人一人自分を見ることは、自由なる道を歩みだす元を「知る」機会です。

10月19日から開催された「自分を見るためのコース」参加者の、感想の一部を紹介します。
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◆自分を見る練習で、反応の元がハッキリ見えると・・・
そのまま見る。
ただそれができたらいいだけなのかも。
自分を見るというと反応や考えが自分の中であると知識的理解をしてそこから反応を見るのかとイメージがあったと思う。

え…見るというのは人間の考え・自分の考えということをはっきり知らないとできないなと思っていた。
反応に反応しているからさらにそこにアプローチするの?
難しいまるで無限ループでできないもののように感じていた。
どうせ見ようとしても自分では自分を見れないで人に出して気づきがあってやっと自分が見れるんじゃんひとりで見るの無理じゃん。
自覚ないと見れないじゃん。
そうでもなかったみたい。

ただそのまま見る。
とても簡単で人間が正常健康な方に向かう方法。
良い・悪いという考えがあっても見ることはできる。
固い人間の考えが頑固な状態にしていても見れる。

見る練習をすることによってどんどん自分の中で起きている反応だなとはっきり捉えらるようになる。(男性20代)


◆見ていくと、考えで固定し、自分を縛る反応にに気づく
「自分を見る」ことは、自分を大切にすること。
そう感じています。
10年ほど前に「私はこう思う」ということがよく分かっていなかったんだな、と気づいたことを思い出した。
世間や社会で正しいとされていることを、「私はこう思う」ということはしてきたけれど。

そこにあてはまらないもの(考えや反応)はよくないものだ、という思い込みがあったので、自分がどのように見て聞いて、反応しているかということを意識することがなく、分からずにいたのだなと感じている。

今回のコースを受け、新たな気づきを得ながら、判断せずに観察することの感覚がつかめてきたように思う。(男性40代)20181127_111415-500.jpg
自分を見るためのコース | - |

普段、自分の実態がチャンと見えているのだろうか?

身に付いた物差しで、自分が窮屈になっていませんか?
当然のこと・当たり前になっていることを、ゆっくり見てみる時間です。
見ていくと頑固さの元に、辿り着きます。
見るだけで硬い心がゆるくなる。
どんな感じかな? どうなっているのかな?・・・と、だれにでもある知性が働き始め、こころが軽くなっていきます。
12月15日から開催されたサイエンズスクールの「自分を見るためのコース」に参加した人の感想を一部紹介します。
img724_aki3.JPG◆笑われた・見下された、って? どうなっているのだろう?

コース中、気持ちが重くなったー自分の発言に、みんなに笑われたから、見下されたからーこれは私のせいじゃない、そうされた(笑われた)からだよ

自分がそういう反応になっているのすら気がつかなかったけれど、人の似たような発言を聞いて、そういえば自分もそうだということに気がついた。

 *人は他人に嫌にさせたりされたりすることができるとなってる。

 *気持ちが重くなるのは自分が好きでやっているじゃない、怒ったりへこんだりショ
  ボンになったり反応するのは、自分でやっている実感がなくても、自分でやっているんだな。

自分の意志じゃないものがあると、なっているのように捉える時すら自分の意志(中のもの)。(30代女性)
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◆自分の考えであることを認識した次に、自分の中の何が反応しているのかを見ると!

わかっていても繰り返し起こる反応とかは、自分の中の何に反応しているのか?
忘れていたと思っていた子どもの頃の経験で、意外と残っているものがあることに気づいたりした。

これまで何か感情が動いたときに、相手の言動や相手ついて思ったり考えたりはするが、自分の中は一切見ていなかった。

自分の中の悪い感情は、なるべく人に隠し、自分でも蓋をして触れないようにすることが多かった。

他人が入ってくることはできないが、自分が自分の中を見るのは自由だ。
心の反応は、自分の中を探検するチャンスかもしれない。(50代男性)
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自分を見るためのコース | - |

自分の内面・気持ちや心をみてみると? 本心は?

教え込まれ・覚えたりで、ここでは「こうしてはいけない」「こうするもの」と自分を縛り・相手を縛って、いませんか?
常識や慣習が蓋になり、気持ちや、こころが、本心が見えなくなっていませんか?
ただ見ていくと、観ることで、気づくことがある、気づきから「知る」世界へ、本心・本来を「知る」知り合うお互いへのスタート・・・見ることからの出発。
サイエンズスクールの「自分を見るためのコース」に11月23日から参加した人の感想の一部です。
紹介をします。(絵はスクール会員の船田武さんのです)

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今回のコースでは自分の内面を観察しようとした。
自分は、その時その時何が起きてるだろうと観察することで、人間として実際どのように生きているかが見えるようになって行くかなと思った。
誰かから声をかけてもらって、どんな反応しているかとか、相手が俺に何かを求めているか行動を見て、どんな反応を自分がしているかをずっと見ようとしてきた。
その時その時、自分の内面で何が起きているかをその時を見るっていう練習してた。
何かを言いたくなると思ったら、それを観察する。
何かの反応が出て来たら、それを観察する。
見て、聞いて、どんなように反応したことなのかを観察しようとする、自分を見るためのコース。(30代男性)

今回は自分の体験の実例を通して、自分の「捉えたこと」そこからくる反応について、何度も繰り返して調べることに集中した。
反応が起きたことの元に、自分の捉えたことがある。
そこを調べていくと、その時の自分の人間観・社会観・世界観がどうなってるか見えてくる。
電車のなかでの実例だったんだけど、「電車の中の人」っていうのに、警戒している自分の状態があった。
知らない間に、急に発動している。
でも、これはいろんなところで、ちょこちょこ起きてる反応だと思う。
見えてくると、やっぱそこだよなあって感じ。
でも日常は起きてる反応を、何とかしようということに、いまだに相当なエネルギーをかけてると思う。
今回のコースで、人の成長・自分の成長は、人間観・世界観を深めていくことが、絶対に欠かせないということが、自分の観察から起きてきた。(40代男性)
自分を見るためのコース | - |

素直に見て、聴ける、知的な人へ~自分を見るためのコース

自分自身に対してや、日常の物事の観方や捉え方は、それぞれの価値観・人間観・社会観などを物差しして判断しているのだと思います。

その物差し自体は、自分に身に着いてしまって、日常では自覚することもなく、当然のようになっていることが多いと思います。

その物差し自体を観察して、客観的に調べられるようになることで、キメつけや頑固さから開放され、素直に自分自身や物事を見ることが出来るようになるでしょう。

10月「自分を見るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。



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普段の暮らしから離れて、自分の中に目を向け、つぶさに観察する日々を送った。

「見る」とは、どんなことをやっているのか、どう捉えているのかを「知る」機会になったと思う。

常に自分にベクトルを向けていると、ゆっくりコマ送りに観察する「眼」が養われて行ったように思う。

目はどんなふうに対象を捉えているのかを、図で表されたのを見ている時点では、頭での理解。

いろいろなエクササイズの中で、壁掛け時計を検討会室に持ってきて、逆さまに置かれたのを見たとき、自分の中で、「時計」にする瞬間があるなと気がついた。

それは、とてつもなく瞬時に起こるので、捉えるという実感はなかなか掴めない感じだけど、自分が「それ」を「時計」に「した」から、「あ、逆さまだ」とか「止まっている」とかの反応が出てくる。そのものは、「時計」でも何でもなく、クオーツとかプラスティックとか呼んでる物質が組み合わさってなんらかの動きをしている。

それを、「見て」→「時計にして」→「逆さまだ」という順序に自分の中で起こっている。

自分の例で、面白かったのは、夜中に目が覚めて考え事をしていた時、ぼやーっと部屋の中のものが黒く見えている。暗闇に目が慣れてくると、昨日までの記憶から「これはタオルかけ」だとか「これは電気」だとかに「する」瞬間があり、そのように見ている。

お風呂に入るときに、脱衣かごに布がかかっているのを見て、「足ふきマット」とする瞬間があり、「昨日敷いてあった場所に敷こう」と動いている。

「見る」の中には、○○に「する」瞬間が組み込まれている。

自分の中の知識や経験や記憶のデータからそれは一瞬にして起こっている。

○○にしているのは自分だから、当然そのものではないわけで、自分で○○にしたものを見ている状態。

この一枚が加わり、その瞬間を実感すると「自分が捉えているんだ」と強く思い込まなくても、自然にスーッといく感じ。

コースが終わり、久しぶりに見る街並みには、目を刺激するようなものがたくさんある。

今までの習慣ですぐに反応のほうに引っ張られる感じだけど、「○○にする」瞬間を実感するには、常に自分の中を見ている「眼」を鍛えていく必要があるのかな。(60代女性)



ボードの文字を見てそれがボードに書いてある、意味がボード側にあるなとなっているのか、それとも見て像を捉え認識した、が自分側にあるとなっているのか。

自分がそう見た、読んだ、読み解いたとなっているのか。

意識と行動の関係は、自分がそうしようと思って行動していたりするが、その行動自体だけを見るとそうしようと思ったことと別のように感じた。

料理しようと思って料理した。とか、自分が料理していると思いがちだが、実際には手足を動かしているだけ。それしか出来ないとも言えるだろう。

あの人が面白いことを言って笑ったのではなく、自分が聞いて、面白いと感じて、自分の中で笑いが起きている。

五感で捉えるもの全てがそうなのだなと思った。

○○さんに言われたとなっているのは相手の事がわかっている感じがする。

「思われる」とか「言われる」とか「○○された」とか果たしてそんな事が出来るのだろうか?

自分が主体となっているとそういう表現すら出てこない感じがある。



ナニカを見て、聞いて自分の中にあるものとそのものの要素が組み合わさって、自分で認識しているのだろうか・認識?自分が判断しているのだなと思う。

捉える→推測ではなく、よくよく見ていき、「なぜそうしたのか」と問えば自分の中で何が起きていたのか一つ一つある気がする。

そこが大事なポイントのようにも今の自分は思う。

なるようになっている世界では自然とそのものや本質的なものに関心がいく感じがする。この「自分を見る」のベースがハッキリとしていると自然とそうなるのではないかな。

意識しなくても、そうなっている状態。

コースに通ったら出来るわけでも知識を詰め込んだから出来るわけでもなんでもない気がする。

言うてみればただ人間の元々もっている仕組み通りに生きていくだけなんじゃないか?と思うと、今は複雑に絡み合いすぎてよくわからんちん状態となっている。

その元々の状態に気づいていく、知っていく。それに尽きるのではないかな。

なにかを得たい、分かりたい、知りたいとなるのは人間の本性な気もする。

それは自分の中に新しい知識を入れるのではなく、自分の中にある元々の状態に気づいていくのが自分を知るや自分を見るということなのだろうか?(30代女性)
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