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地に足ついた、幸福な人生を生きているだろうか?

人は、生まれて自分の人生を生きる! 
どこからどこまでが自分と言えるものなのだろうか! 
ここからが自分・これが自分だと、厳密に区切れるところがあるのだろうか? 
つながりの中での存在、人にやってもらったり・甘えたり、ゆっくり観ていくと、人の中で安心出来る性質が観えてくる。
人は生きて、何する生き物なのか? 
8月12日~の人生を知るためのコースに参加した人の感想の一部を紹介します
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これまでも、自分が何者かを知るために色々な所へ行ったり、色々な方たちにお会いして自分なりに探究してきた。
今それを思うとあたかも自分の中で想像していた理想の図のパズルを完成させるためにそのパーツパーツをあちらこちらで拾い集めては、一喜一憂していただけの自分だったかもしれないとさえ思える。
それは決して無駄だったとは思わないが、随分と遠回りをしたものだと思う。
まずは今回のコースで、自分が何も知らないということを知ることがこのメソッドのスタート地点でもあり、ベースともなるところだと改めて思った。
次に、では実際はどうだろう?と色々と考えてみると、そこには自分の存在を成り立たせるための膨大な情報が織り込まれていることに改めて気づかされた。

そうするともっともっと自分を知りたいという意欲が湧いてきて、自分の内面に目を向けるようになってきて、同時に周りの人にも意識を向けるようになる。
自分の内面にある心を観てみると色んな心があり、場所や時間と共に移ろい変化しているように感じるが、比較的変化の少ない心もあるようで、それが本心というものかも知れないが、それさえも意識上の産物だとも思える。
ただその心というものの中にも反応や判断を超えた「何か」があると感じた。
自分なりにそれが「愛」というももの正体かも知れないと思った。
見返りのない絶対愛とでもいうか、相手に与えることを自分の喜びとして、お互いを生かし合おうとする心・・・・無償の愛。
本来私たち人間には、それが元々備わっていて大人になるにつれて外部からの影響をうけ、知らぬ間にそれを忘れていってしまっているのかも知れない。
しかしその外部の影響も意味のあることで、自分を知るためには自分以外のものを体験しなければ分からないと思えば、それさえも有難く思える。

現時点ですべてが明確なったわけではないが、一つの「道すじ」が見えてきたような気がする。本当に有難いことだと思う。(50代男性)
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夜、娘がどう過ごしているかな、私がいなくて寂しい想いをしていないかな、と不安・心配が起こった。
その日に「安心・安心感」をテーマにしたばかりだったので、早速、「私の今の不安・心配は意識上のものだな」と認識することが出来た。
もしかしたら、娘は私のことを忘れるくらい楽しく過ごしているかもしれない。
頭で不安を作り出して、それに捉われているより、コースに集中したい、と思った。
もちろん、娘が楽しく心地よく過ごしてくれることを願う気持ちは持っている。
私の本心は、それだろうか。それともまだ奥にあるのだろうか。
きっと、娘が心地よく過ごしていると、私は幸せなのだ、と思った。
その幸せを求める心が私の本心?

Aちゃんの話を聞いて、「(相手が求めているのは行為じゃないと分かっても)どうしたらいいのかなーって思う」と言ったら、「どうしたらいい?を考えるんじゃなくて、やっぱり相手を知るとか自分を知るとか、それをやっていくことかなー」と話してくれた。
その言葉が、ずどーーん、と自分に響いて、「なるほどー!!!」という感じだった。
人間は何をする生き物か?
「知る」生き物。
本心をよく知って実現に向かう。
意識上のものと実際のものの区別がちゃんとついていれば、実際に沿ったものを知るようになっていく。(40代女性)
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コースで時間を過ごすうちに、自分に根深く入り込んでいる観念が見えて来た。
「何か人に与えなければ愛情をもらうことはできない」
「仕事で成果を出したり、役に立たなければ、人から受け入れてもらうことはできない」
頭ではそんな考えを「ばからしい」と思いつつ、無意識のうちにそれを当たり前のように原則として行動していたように思う。
頭では全然別の所を目指して進んでいるつもりでも、心の奥底に染み付いている強迫観念に気付ききっていなかった。

自分で自分を満たすことはできない。
「自分で何とかしなければいけない」という発想を強く持ちすぎて、人から満たされる余地がなくなっていた。
心が満たされることで初めて人は健康に成長していく。
心の充足によって、自然と人に愛情が湧いてきた理、知性が働き始めたりする。
心が満たされるところから人の健康な成長は始まるのだと思う。
自分の場合、自分が満たされないまま、知性の成長や人を満たそうとすることを追い求めてきた気がする。
それはかなり無理のあることで、自分が疲れ果てるような状態にもなっていた。
そもそも、自分が満たされるとはどういうことか、そこから始めたい。

人に満たされるとか、「甘える」とはどういうことだろう。
現状の自分としては「甘える」ということに抵抗感を感じたりする。
「甘えてはいけない。自分で何とかしなければいけない。」という観念が強い。
それでも、きっと本当は満たされたくて、人に甘えたいのだと思う。
意識上では今まで特に苦労もなくうまいこと生きてきたつもりが、だいぶ無理をしていたのかもしれない。
本当は自分を追いつめていて、しんどかったのかもしれない。

そんな現状から少しずつ、人に素直に求めたり、甘えたりすることを始めてみたいと思う。(20代男性)
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何をどう捉えて感じたのか、それは客観的に観て実際に何をしているのか、どういう本音や反応が起こったのか、それは実際にどのような状態なのか・・・で、本心は何をしたいのだろうと徐々にじっくりゆっくり調べることが大切かなと今回思った。
そして、人と人とで探究しながら一緒に調べ合う探究会というのはそのような状態でそのようにしていくことに適っているということをとても認識した。

探究会で一緒に調べよう探ろうとすることに関心が出てくるのは人と人とのつながりの中での本来の人間の活力から生じてくるのかな。
若いころから「自分の適性を見出して自分を生かしたい」と強く願っていた。
能力や資格等身につけても結局うまくいかなかった・・・自覚のない状態で自分の考えやこだわりで自力で頑張ったからかな。

でもそういえば人間社会に対する関心や疑問は気持ちを我慢しながらも子供のころから子供なりにあったよな、そして気づかないけど心や知性を動かす源は強く動いていたんだろうな・・・
その根源からの生きる活力に気づく喜び・・・本当の人と人との間柄から、人間を知り人間らしく生きる営みから、人として生きていきたいし共に活かし合いたい・・・
そのような本心からの社会づくりをしていきたい・・・ゆっくりとじっくりと知る状態からやっていきたいと思う。
その中に本当の適性を見出して生きるというのがあるのかな。
人への感謝が大切だと人間の観念で言われてきたけど・・・人が人らしく生きるを知るという状態が本当のいままで出会ってきた方々への感謝なのかなと今は思う。(50代男性)
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