素直に見て、聴ける、知的な人へ~自分を見るためのコース

自分自身に対してや、日常の物事の観方や捉え方は、それぞれの価値観・人間観・社会観などを物差しして判断しているのだと思います。

その物差し自体は、自分に身に着いてしまって、日常では自覚することもなく、当然のようになっていることが多いと思います。

その物差し自体を観察して、客観的に調べられるようになることで、キメつけや頑固さから開放され、素直に自分自身や物事を見ることが出来るようになるでしょう。

10月「自分を見るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。



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普段の暮らしから離れて、自分の中に目を向け、つぶさに観察する日々を送った。

「見る」とは、どんなことをやっているのか、どう捉えているのかを「知る」機会になったと思う。

常に自分にベクトルを向けていると、ゆっくりコマ送りに観察する「眼」が養われて行ったように思う。

目はどんなふうに対象を捉えているのかを、図で表されたのを見ている時点では、頭での理解。

いろいろなエクササイズの中で、壁掛け時計を検討会室に持ってきて、逆さまに置かれたのを見たとき、自分の中で、「時計」にする瞬間があるなと気がついた。

それは、とてつもなく瞬時に起こるので、捉えるという実感はなかなか掴めない感じだけど、自分が「それ」を「時計」に「した」から、「あ、逆さまだ」とか「止まっている」とかの反応が出てくる。そのものは、「時計」でも何でもなく、クオーツとかプラスティックとか呼んでる物質が組み合わさってなんらかの動きをしている。

それを、「見て」→「時計にして」→「逆さまだ」という順序に自分の中で起こっている。

自分の例で、面白かったのは、夜中に目が覚めて考え事をしていた時、ぼやーっと部屋の中のものが黒く見えている。暗闇に目が慣れてくると、昨日までの記憶から「これはタオルかけ」だとか「これは電気」だとかに「する」瞬間があり、そのように見ている。

お風呂に入るときに、脱衣かごに布がかかっているのを見て、「足ふきマット」とする瞬間があり、「昨日敷いてあった場所に敷こう」と動いている。

「見る」の中には、○○に「する」瞬間が組み込まれている。

自分の中の知識や経験や記憶のデータからそれは一瞬にして起こっている。

○○にしているのは自分だから、当然そのものではないわけで、自分で○○にしたものを見ている状態。

この一枚が加わり、その瞬間を実感すると「自分が捉えているんだ」と強く思い込まなくても、自然にスーッといく感じ。

コースが終わり、久しぶりに見る街並みには、目を刺激するようなものがたくさんある。

今までの習慣ですぐに反応のほうに引っ張られる感じだけど、「○○にする」瞬間を実感するには、常に自分の中を見ている「眼」を鍛えていく必要があるのかな。(60代女性)



ボードの文字を見てそれがボードに書いてある、意味がボード側にあるなとなっているのか、それとも見て像を捉え認識した、が自分側にあるとなっているのか。

自分がそう見た、読んだ、読み解いたとなっているのか。

意識と行動の関係は、自分がそうしようと思って行動していたりするが、その行動自体だけを見るとそうしようと思ったことと別のように感じた。

料理しようと思って料理した。とか、自分が料理していると思いがちだが、実際には手足を動かしているだけ。それしか出来ないとも言えるだろう。

あの人が面白いことを言って笑ったのではなく、自分が聞いて、面白いと感じて、自分の中で笑いが起きている。

五感で捉えるもの全てがそうなのだなと思った。

○○さんに言われたとなっているのは相手の事がわかっている感じがする。

「思われる」とか「言われる」とか「○○された」とか果たしてそんな事が出来るのだろうか?

自分が主体となっているとそういう表現すら出てこない感じがある。



ナニカを見て、聞いて自分の中にあるものとそのものの要素が組み合わさって、自分で認識しているのだろうか・認識?自分が判断しているのだなと思う。

捉える→推測ではなく、よくよく見ていき、「なぜそうしたのか」と問えば自分の中で何が起きていたのか一つ一つある気がする。

そこが大事なポイントのようにも今の自分は思う。

なるようになっている世界では自然とそのものや本質的なものに関心がいく感じがする。この「自分を見る」のベースがハッキリとしていると自然とそうなるのではないかな。

意識しなくても、そうなっている状態。

コースに通ったら出来るわけでも知識を詰め込んだから出来るわけでもなんでもない気がする。

言うてみればただ人間の元々もっている仕組み通りに生きていくだけなんじゃないか?と思うと、今は複雑に絡み合いすぎてよくわからんちん状態となっている。

その元々の状態に気づいていく、知っていく。それに尽きるのではないかな。

なにかを得たい、分かりたい、知りたいとなるのは人間の本性な気もする。

それは自分の中に新しい知識を入れるのではなく、自分の中にある元々の状態に気づいていくのが自分を知るや自分を見るということなのだろうか?(30代女性)
自分を見るためのコース | - |

もっと、自分らしく~自分を知るためのコース

自分らしく生きたい、でも、自分らしさって何だろう?

「自分らしさ」「自分らしく」を捜し求めたり、自分ひとりで考えてみても、わかるようなものではないでしょう。みんなの中、人のなかで、自然に現われてくるものなのかもしれません。また、気づかない縛りや決めつけから自由になることで、もっと自分らしく、もっと軽やかに生きられるようになるでしょう。

9月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



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自分の回路の根底に「善し悪し」の概念が相当の強さで存在しているだろう、ということに気づきました。

目の前の現象や、行為をとらえる際のベースになっているとさえいえるような「善し悪し」。

しかも、それはふと立ち上がる“思い”さえも支配していました。

そんなことを思ってはいけない・・・・。子どもを亡くした時に、自分で気づいてしまったある思い。

母親だったら、絶対にそんなことは思ってはいけない・・・。わたしは、それを30年以上も忘れることなく、心の中にしまい込み、自分を責めてきました。

あまりにも自分を知らない、という実態。 というのか、自分の知り方を知らなかったということなのかもしれません。(50代女性)



自分の中で起きるすべてが、どこまでも、自分の感覚、自分の考えという自覚があるか、からが始まりだなという気がした。

「自分の考え」というのが鮮明になれば、鮮明になるほど、実際の自分に、実際の世界に対して、関心が進むことになるのではないかな。

「自分の考え」という自覚が消えるとき、断定することになったり、自分の考えに自信を持つようになったり、自分が思ったのが変えられないことになるかなと思った。

一つ一つのテーマで、探究してみて、「自分の考え・感覚」という自覚が、なぜ消えるのだろうか考えるほど不思議だった。

「 自分の考え」は、考えだということがもっとも易くて,簡単な感じだが、あえて事実化して、事実化からもともとの状態に戻るのがどうして難しくなってしまったのだろう。

「知った」「断定」「事実化」「善悪」「当然」などが、考えの中でいくらあると考えても、追求しても、実際の世界は、考えの世界とは別だろう。

実際の世界にない幻想を見ながら暮らしているんだと思う。

実際の世界が見えないほどの人間の考えで。。。 (30代女性)



そうなってしまってきているのは、自分を含め、そもそも人は人間はどういうものか、どうなっているのかというのを”知らない” ”知っているつもり”というのもあるのだなと感じる。

そのあたりがハッキリしてきたらずいぶんと楽に生きられるような気もするし実はとてもシンプルに感じる。

そこで「知っている状態」になるとまた同じ回路の考え方で、固まってしまってその先がなくなる。

どこまで行っても「知っていく」ことでやわらかく生かしていけるのかな。

“決めつける”というのと“決めつけない”というのは同じ回路な気がする。

決めつけていた自分を否定して、蓋をし、そうなってしまっていることを否定する感じ。

思ってしまった自分が悪い。

それは2重のレッテルを貼っているようなもので決めつけよりも複雑化させてしまっているような感じだ。 とても無理がある。

そもそも“決めつけること”自体が可笑しく思えてきた。

出来ない気がするのだ。

自分がどのように捉えているのか順を追ってみていくと…”自分”ってなにをさしているのか見ていくと…そもそも決めつけることなんて出来るのだろうか?

“決めつけないようにしよう”ってとても無理があるように感じる。

決めつけること自体がなくなってくると独自の回路も徐々に書き換えされていくように思う。(30代女性)



人間が持っている考え、認識、言葉、記憶、心、知性など個人の中にありながらも世代、地域、社会の中で影響し合っていると思った。

一度その集団の考え方、価値観などをインプットすると無意識にいつでもそれを踏襲する。

そうなると、自分にとってそれがどういうモノか?

そのことで何がどうなっているか?

見直すことが難しくなるように思う。

「私はこう感じるけど、本当はどうだろう?」とならないのは、単にそれを知らないからだと思う。

それは人の中で自分がセットしたように、人の中で気づき調べていくことのように思う。

自分の存在を知っていき、考え、記憶、言葉などの性質を知っていき、自分の現状を知っていくことが人らしく生きていく上で欠かせないと思う。

良し悪しの評価ではなく、只々自分がどうなっているのか?

その中に何があるのか?

子どもを見守る親のように自分を知っていきたいと思う。

今までに何回か自分を知るためのコースに参加したが、今回は、自分でもたくさんの人の中にいて安心している自分が浮き彫りになってきた。

日常の私を取り巻くすべてのモノの中から現れてきた。

それは私一人では現れようのない自分だと思う。

こんな風に人の中でどこまでも知っていける。(40代女性)
自分を知るためのコース | - |

楽しく、深く、「ほんとうは、どうだろう?」 

身近な問い、例えば、「見るとは?」「聞くとは?」「自分とは?」「幸せについて」「社会について」など、自分たちで話し合いながら、楽しく、深く、探ってみませんか?

「問い」「テーマ」を発するスタッフはいますが、誰かに教えてもらったり、何かを学習するのではなく、自分の頭を使って、自分たちで、じっくりと探究してみましょう。

新しい知性の使い方、心とつながる学びを「体験」「体感」できる機会です。

9月アズワンセミナー、参加者の感想の一部を紹介します。



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みんなの経験・考えを出して、一つのテーマを見ていくと、今までに自分にはなかった考え・見方に共感し合ったり、提案し合えたりして、その場の雰囲気がとても心地よく感じている自分に気づいた。

探究が楽しく、日常ではあまり使っていない頭を使っているせいか、テーマ「怒り」では違う疲れがあった。

人との関係性、社会との関係性、自分とは、幸せとは、考えとは、経験とは、キメつけとは、テーマを一つ一つ見て、考えてきたのだけれど、どのテーマも、生きて生活していく中では、どれ一つとして、一つでは存在していなくて、影響し合っているのではないかと感じた。(30代男性)



人や物とあらゆるものとの関わり影響し合いながら存在しているというのが見えた時、とても身軽になった感覚がした。自分ひとりでなんとかしようとか、そういうのから解放されていく感じ。

不安や警戒もこういうところから来るのではないだろうかと思う。

本来の幸せな状態は親しいと感じる人が幸せであってほしいと願う気持ちから探っていくと、その人がその人らしく安心した心の状態であって生きれること。

自分も大切な人たちもそんな社会で生きていけるといいなと思う。

そんな社会で育っていく子ども達は身につけていくものが違うだろう。

人は人の中で生きていく。

そものもがそのものらしく幸せに生きられる社会を創る一人となりたい。

小さなところから…。(30代女性)



沈黙の時間が心地良かった。

(私自身は)他の人の発言を聞いていたのか、いなかったのか、分からないけれども、聞いたこと(聞こえたこと)から、引き出される、自分の内側の言葉をおもしろいという風にとらえたのかも知れない。

テーマに添って話すわけですが、始めから何を話しても良いような雰囲気があり、緊張しながらも居ごこちが良いと思いました。

「親しい間柄」を普段の生活の中では、続けることは大変かもしれないけれども、「親しい間柄」について話し合える場があると分かった事は、とても心強いです。(50代女性)



幸せはお互いの事。

本当に何を願っているか見えづらくなる。

関係、関連の中で生きている。どこから自分といえるか、どこから自分の力といえるか。

赤ちゃん、生きているだけで影響している。

対立、対抗心、優劣感、劣等感は一時的なもの。

安心状態とは?

本当はどうありたいか。本当は・・・。発見の連続(探究)

人の中でこそ人として生きていける。

知識、経験、キメツケ、前提にならなくても残るものあるのか。

培われるという感じもする。

現状においてお金に囲いがないかというのはみえやすいバロメーターではないかと思う。

それが出来ているか出来ていないかという事よりその人の内面の状態。

調和を実現するには、・・・

そのものらしく生きられる社会、実現したい。知りたい。(20代男性)
アズワンセミナー | - |

人生・生き方の探究

「自分らしく生きたい」とか、「幸せに生きるために…」などと、よく耳にしますが、そもそも、人が生きるとは、どういうことでしょうか?

人の一生を観察して、人生の目的や生きがい、本来の人の一生を探ってみましょう。

9月「人生を知るためのコース」の感想レポートの一部を紹介します。



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人がどういう生き物かというと肉体面ではなく精神面という要素が大きいように思う。

行為という現われのそのものは心から湧いてくるものに影響されているだろう。

心が満たされている状態で現れてくる現象は自然と明るい、優しい、元気なものが多いように思う。

今の社会だと、行為の方を明るく、優しく、元気にしなさいと考えでやらせようとするが、心にとっては逆効果になることが多いだろう。

心が満たされるというのは、何で満たされるのだろうか。

モノが欲しいという欲求が叶うことから満たされるのもあるように思うが、人から満たされる部分が大きいように思う。

人がいれば満たされるかというとそうでもないが、人の心から湧いてる部分を受けて満たされるように思う。

欲求とは別に人に対しての要求という観点も面白いなと思った。

本心というのは、願いのようなものかもしれない。

なっていこうとするベクトルなようなものかな。

自分が満たされたいし相手も満たしたい、別の表現だと成長していきたい、豊かになっていきたい、活かしたい。

自分だけでなく、相手も、人間だけでなく、他の生命も、生命だけでなく、世界中のモノをそのもらしく豊かな方に向かっていきたい。

そのようなベクトルが働く生き物なのかもしれない。

人の社会が人の豊かさを重視してないって改めて見ると不思議だなと思った。

人が豊かな社会。

そんな社会に向かっていきたいなぁ。(20代男性)





人と人との間で本来の心が育ちあっていけたら、人は人らしく、幸せになろうとする働きが、自然に出てくるものなんだろうな。

そしたら、ただ“今ここ”に存在しているだけで、人は満たされる気がする。

外に何かを求めたり、何かをすることで満たされる喜びもあるけど、もっと心の底から“ただ、命としてある”ことを喜べること。

私の本心、心からの願い、~そんなものを、もっと観ていきたいな。(50代女性)





実際に人が生きているとはどういうことなのか。

人の命は一人で成立しているわけではない。

身体中の水分は常に世界を循環しており、呼吸している空気も一定の構成要素を保ちながら入れ替わっている。

自分の一部だったものが、ある時は海にあり、山にあり、他の生物の血肉であったりする。

体内では無数の細胞や器官が複雑に関わり合い、一つの命の流れを作り出している。人が生きるということは適当なものではなく、方向性を持っており、何かを実現させようとしている。

人が人らしく生きる、その中身には心と知性の働きが必要不可欠に思える。

心や知性があるからこそ、人が人として生きるということが成立するのではないか。

人は心によって世界と触れ、豊かさを感受し、膨らませていく。

また、心の好奇心によって知性で知ろうとする働きも生まれる。

知ろうという働きによって心は様々なものを受け取り、豊かになっていく。

こうして、心が満たされ続けていく。

人は心や知性によって、自らが進む方向を知り、選ぶことが出来る。

人は自分や人の本心や実際へ目を向けることが出来る。

人が成長するとは単独でなされることではなく、他の存在との触れ合いの中で、共に成長していく。

成長を分かち合えば分かち合うほど、人は豊かになっていく。

そして、実際を知って、成長し、周囲と豊かになり合い、世界全体で幸せへと進んでいく。(20代男性)
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人としての成長・・・成長とはどういうことだろう? 

人は本来、知的な欲求を持ち、自分自身のこと、自分を取り巻く世界を「知る」ことで、人として成長していくのではないでしょうか?

自分を知り、自分を支えている人や物や社会を知り、本当の願いや自分の生きる目的を知ることで、より良い日常生活、ひいてはより良い人生を送ることができるようになります。

自分を見つめ、本当はどうなんだろうと調べる知性が育つことで、人間関係や周囲の環境に振り回されずに、自分の生き方で、周囲の人と共に歩んでいけるようになると考えています。

8月「自分を知るためのコース」に参加した方の感想の一部を紹介します。



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いろいろな視点で検討していくなかで、両者はまったく別物であるが、人間(自分)は、自分の感覚、思い・考えを事実としてしまうことが多々あり、そのことでいろいろな問題が発生するのが見えてきた。

自分の考え思いが「そうだ」「わかった」「知っている」など固定化した時点で事実としたのではないか。

「できない」「やめられない」など未来を予想して断定した時点で、事実としたのではないかということが、検討する中で見えてきたと思う。

「自分を知るためのコース」の自分を知るとは?

まず自分を観察して、その時の自分の考え思いが、固定したり、事実となったりしているのか、それとも決めつけずに「実際はどうだろう」と探究しているのか、どちらなのか知ることが自分を知る事のスタートではないかと思う。

サイエンズを知り「実際はどうだろう」という知性を知った自分。

人として知性と心の成長を考えるようになった。

そのためには日常のなかで「自分の実際はどうだろう」と探究していくことがその第一歩だと思う。

何才になっても人として成長していける可能性があると思うと、これからの人生が楽しみになってきた。(50代男性)



「私はものごとをどう捉えるのだろうか」とニュートラルな状態が、決め付けのない自分を知る状態なのではないかと思った。

“知る”とは、いつまでも「知っている」状態にならず、答えを決めつけずに常にゼロから観察すること。かな。(40代女性)





決めつけようがない。唯々限りなく知っていくだけの、また別の次元の「知る」の世界。その「知る」が始まるところから、人間を含んだあらゆる物事の実際に向き合い、知れば知るほど、そのものを大切にし愛する心が育ち、その心から自ずと現れる行為で成り立ち、営まれる暮らし・人間社会が実現する。どこまでも果てなく豊かになり、成長していく人生。

「人間を知り、人間らしく生きる」の意味が自分の中でもうちょっと繋がったように思った。(30代女性)
自分を知るためのコース | - |

素直な自分に出会う~内観コース

静かな場所で、誕生から現在までの自分の歴史を振り返り、自己を発見する機会です。過去を振り返ることで、今まで思っていた過去の見え方が変わり、現在の自分の捉え方も変わります。

素直で正直な自分の心に出会うことでしょう。

8月内観コースに参加した人の感想の一部を紹介します。





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幼い時、お腹が痛い時にお母さんが手で撫でてくれるのが好きだった。でもある日叔母が、この子は構って欲しくてお腹が痛いと言ってるみたいとお母さんが言ってた、というのを聞いて、そうしてはいけないんだと思うようになったことが浮上してきた。

関心を受けたいということは甘えであって、そういうのは良くないという風に考えてしまったんだなあ。

お母さんに本当に愛されたかったけどそれを表現すれば、より愛されることが難しくなるようになってしまっていたようだ。

そんな風に話すと良くないと考えて、嘘をつくようになる瞬間等が見えた。

その時その時気持ちを素直に見ようとしたら、気持ちに、「良い」「悪い」というのがたくさんくっついていたんだなあ、と思った。(30代女性)





調べていくと自分でも不思議な自分の行動が出て来た。

よくよく見ると自分のその時の気持ちは全く分からないまま外に自分がどうすればいいかを求めていた。

私としては外に合わせているつもりだけど、それで合っているのか分からない、不安で怖くて余計に外に注意を向けて自分がどうするかを決めようとする・・その悪循環を繰り返して余計に訳が分からなくなっていた。さらにその時の事が《怖い事・良くなかった事》として記憶に残り、ついに《もう見たくない事》になっていた。

ここでも、怖いから見ない→見ないから更に怖くなる→更に怖いから見ない・・の悪循環を作り出していた。

自分に対して本当に無関心だったな・・と思う。

これでは本心は分からないし、自分でも分からない本心は他の人にも分かりようがない。

自分に本心があることが分からないから、人の本心にも関心が向かない。

まさに話し合えない自分だったな。(40代女性)





いつもどこかで、感情的に自分を見ていたり、何か解釈をした上でそれにそった自分を見ていたように思います。

それが今回、順を追ってゆっくりと自分を見ていくことで、今まで気づかなかった自分や周りの人のことについて見えるようになりました。

両親や祖父母が自分をどう扱ってくれていたか、どれだけの思いやりがそこにあったか。友人や先生、周りの人々にどれだけ恵まれていたか。

自分が気づかなかっただけで、自分はとても多くのものを周囲の人から受けており、自分の存在そのものもとても貴重なものなのだ、と深く感じました。

中略

内観をしてみて、いかに自分が狭い視野の中で自分を見ていたのか、自分が実際はとても大切に扱われていて、かけがえのない存在なのだということを強く感じました。

そして、僕の周囲の一人一人の人もそういうかけがえのない存在なのだとも。(20代男性)
内観コース | - |

私は、どんな社会に住みたいだろう? 「社会を知るためのコース」

人が本当に幸福に生きていくことを突き詰めていくと、自分一人だけで幸福に生きることは出来ないわけで、幸福な社会が必要不可欠なものとして浮かび上がってきます。

どの人も尊重され、満たされ、その人らしく生きられる社会が実現されていくには・・・?

人とは、人生とは、社会とは、社会をつくるとは、と探り、かつてない新しい社会を創造していくためのコースです。

7月「社会を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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「社会」が自分の外に大きくあるのでなくて、

自分が社会。

人と人のつながりが社会。

人の気持ち・意志で営まれる社会。

外のもの(やらなければならない・してはいけないことがあるベース)でなく「自分も人も社会も何をしなくてもよい」がベースから、~してほしいと要求し、それが認められ、受け入れられて、心が満たされていく社会。

どこまでも「人と人の気持ち意志の社会」とシンプル!

子どもが~してほしい(気持ち)、それを自分の気持ちが、それをやりたい気持ちが湧いているのか、見ないで、「やるのが良い」でやることが、やってもらうのが当然(いばる人)をつくる・・・これもビックリ!

これは自分の中で小さい時から強く入っている。

実際は何もしなくてもいい(本当だなと思う) → やりたい気持ちが湧いているかを見る。

やりたいかやりたくないかと今まで見ていた。

「人のための社会」がより鮮明に具体的になって見える。(70代女性)



人の気持ちと気持ちが出会って社会が創られる。

人の気持ちと気持ちが出会う瞬間、お互いがお互いに、そして、その周りにも新しい社会の空気が創られてくる。

人の気持ちと気持ちが出会うということは、

「人は何で動くのか」「人は何で生きるのか」「どこを見てその人だとするのか」を知っていき、自分の中にある気持ちがそのまま現れるところからスタートなんだろう。

やることが当然となっている状態では「やりたくない気持ち」が目立って見えるし、しなくても良い状態では「やりたい気持ち」しかないんだなあ。(30代女性)



コ-スの最初の時、どの人も自由にしたらめちゃくちゃになった社会を想像する自分がいた。

一週間のコースはそこからどうしてそういう風に考える状態になっているかを調べてみる過程だった。

一週間、調べながら残ったのは、結局 人と人の心、本心から湧いて来る意志と意志が出会って、お互いに 生きていく社会へ一緒に進んでいくだけだなと思った。

実際に起きていること、実際にあることを見ながら生きることだな。

義務、責任、権利、所有などがすべてない、何もしなくてもよい原点に立つと何が残るか。

一人一人の自発的自由意志、本心からの意志。

そこから始める社会はどんな姿だろうか。

でも、とても簡単という気がした。

ひとの心から湧いてくる要求と要求の出会い。 それが現れて作られる社会。

人、一人一人はそういう状態がなくても何もしなくてよい社会の気風、その中でそういう人達の関係の中で互いに内面を重視しながら進んでいく社会。

どんどん、もっと、明らかな方向へ。

自分の中が何もしなくて良い状態になっていく方向へ。

そういうお互いになっていく 方向。

その道が全人類も、自分も幸せになる方向ではないかな。

本当の社会は、どんな姿が現れるかな。(30代女性)
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「私の人生」を生きているだろうか? 人生を知るためのコース

結果に一喜一憂する、周囲の評価を気にする、他の人の言動が気に障る等々は、自分の生き方をしていないことから来るのではないでしょうか。

趣味・興味・関心・得手不得手・感情・欲求・願望・知識・経験・発想・思考等々、自分のものだと思っていても、自分の生き方をしていない自分から出ているものかもしれない。

人生の目的を知り、本当の自分を知り、未知なる自分への好奇心に生きる、自分に最も適した他に真似のできない生き方を探究する機会です。

7月「人生を知るためのコース」に参加した人の感想の一部です。



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更に4日目に「一つの世界」「地球は一つ」というテーマで検討していくうちに、すごく、私の家は家、Aちゃんは関係ない別の人みたいに、バラバラに捉えてる自分の観え方が見えた。

バラバラ・別々関係ないものを、一生懸命受け入れようとしている自分、受け入れないのはひどい人、ダメな人としている自分、間違った捉え方から出てくる気持ちにマル、バツを自分自身でつけて、ダメだ出来ていないとして落ち込むという、とても複雑な迷路の意識に迷い込んでいたようだ。

実際の成り立ちを観てみると、水も雨になったり川になったり、海に行ったり蒸発したりして繋がっているし、自分もそれを飲んだり食べ物を食べたり、自分が生まれて今、ここにいる事だって繋がりの中で存在している、人だけ別という事はないと思う。

何か、人だけは別みたいに捉える意識があったな。

別々に観ていて、それは良くない事としていたんだな、「実際の世界」の成り立ちはどうかな、全てが一つで繋がっている、そしたら、私は「イヤなんだ。」とかいう気持ちも安心して言えるような気がする。

何だかこのからくりが観えた時、心の入り口のもつれた部分を発見したみたいで嬉しかった。(50代女性)



自分が自分の意志で生きていると思っていたけど、実際の世界を少し垣間見ると生かされているとしか言いようがない。

地球が超高速でまわりながら太陽の周りをまわっているのに私たちは何も感じないし、太陽からの距離といい、大きさといい傾きも生き物が生きれる環境が、偶然にもというか必然的にというかできてしまった。

何かの作用というかバランスというのか。

自分が生きるためにやってることもほんの少し。

ほとんどやってもらってる。

そして自分じぶんと言ってるこの自分も、生きようとするエネルギーからなにか欲求が出て来るけど、あとは受けたものでできている。

人、食べ物、自然などなど、それぞれの背景もあり、成り立ちは計り知れない。

今までは自分も人も、すべての繋がりの中で必然的に現れている現象を見てその人、そのものとしていた。

自分もその人にも心がある。確かに自分にもある。

そして人には本心がある。

私にも本心がある。

トマトみたいにどんな環境でもトマトらしく生きようとするエネルギーのような力というか欲求が人間にも元々ある。

自分の中から湧き出てくるもの。

安心したい。満たされたい。幸せになりたい。みんな幸せ。豊な人になりたい。

本心で生きる。本心が目的でそれを実現するための手段が仕事や暮らし。

いつの間にか手段が目的になってしまう。

自分ひとりで本心で生きようとしても無理がある。

みんなが本心で生きれるような社会がいいな。



本心はわからない~と自分をごまかさないで自分の内面に目を向けてみよう。

やることはそのぐらいかな。自分の中を観察・探究する。

欲求はみんな本心から出てるけど心の状態で反応が色々なのかな。

自分の要求が何かもっとハッキリしてもっとシンプルになる感じがする。

何で自分が満たされるのか?

本心から出てくる欲求や要求が満たされて、実際の世界を知れば知るほど豊になり知性や心が育ち成長していくのかな。

年をとればとるほど心が豊になっていく。そんな人生を送りたい。(40代女性)
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自分を観察してみよう。~ 自分を見るためのコース

自分自身に対してや、日常の物事の観方や捉え方は、それぞれの価値観・人間観・社会観などを物差しとして判断しているのだと思います。

その物差し自体は、自分に身に着いてしまって、日常では自覚することもなく、当然のようになっていることが多いと思います。

その物差し自体を観察して、客観的に調べられるようになることで、キメつけや頑固さから放たれ、素直に自分自身や物事を見ることが出来るようになるでしょう。

7月「自分を見るためのコース」に参加した人の感想レポートの一部を紹介します。



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「自分が何を見たのか?」  道

「そこから何を捉えたのか?」  家へ帰る道

「反応は?」  安心

普段、見たものと反応がごちゃごちゃに混ざっていたり、自分が特定の捉え方をしていることを忘れたりしている。そしてそのまま、それが事実だと思い込んだりする。それを繰り返しているとだんだん視野が狭くなっていったり、自分を追い込んでいったりするのかな。

あとは、「見る」ことを妨げる一つの要因として善悪という話もあった。

自分の捉え方や反応に良い悪いを考え始めると見えにくくなる感じがある。

こんな捉え方をするのは良くない、とか、こんな反応をしては良くない、みたいな。

捉え方や反応そのものに良いも悪いもない。

怒るのが悪いとか、そういう話ではない。

反応や捉え方はいろいろしていて、それをどうこうしようという前に、まずはそのものを見てみる。

そこから始めることで、自分の捉え方の癖を自覚できたりするんじゃないかな。(20代男性)



○○さんを見て、イラッとする反応が出た。

その時点では、○○さんの言動に反応したようだった。

けれども、自分の中で起きたことを見てみると、自分の捉え方があるのが見えてきた。

自分が、○○さんをどう捉えているのか、ひいては、人というものをどう捉えているか、にも通じると思った。

「こうしよう」となったら、相手はそうするものとか、そうして当然とする捉え方。

逆に言えば、自分はそうしなくてはならない、そうしないのはよくないとする捉え方。

まずは、こういう捉え方をしている自分だということ、このことをじっくり見ることができた。

こういう自分の捉え方という自覚があるということ、ここから始まると思う。

これから、自分に起きてくる反応を見てみるのが楽しみだ。(60代男性)



赤信号は止まるもの、交通ルールだから、しかし、やはり、自分の中では、赤信号は止まらなければならない。

と思っている自分がいる。

だから、赤信号を見ると、ちょっと、不愉快な気持ちになる。

そう反応している自分に対しても、何か認めたくない自分がいる。

事実を受け止めるんだとか、ささいなことに動揺しないとか、そういう考え方が自分の素直な反応を見ないように、制御している自分がいる感じもある(分析だから、そうとらえるのも自分の考えの方)。

この微かな動揺は、人に対して起こっている。

人の行為を分析してみたくなるのは、自分の反応の仕方を納得・理解したいからか・・納めたいと思うからか。

みんなが自由奔放にしていたら、何か自分の気持ちが収まらない感じがある。

「ただ、見る。」

「ありのままを見る。」

「どう反応しているか見る。」

「どのように捉えているか、見る。」

まずは、素直に自分の中に起こっていることを見てみたいなーという感じ。(50代男性)
自分を見るためのコース | - |

自分の成り立ちを知ろう 自分を知るためのコース

「自分を知るためのコース」は、自分の行動や思考・感情などを、自己観察し、科学的に分析するコースです。

自分の存在、成り立ちや背景、あらゆるものとの関連を知ることで、心豊かな自分になっていきます。思い込みや決め付けから解放され、人間らしさを発揮し、知的に幸福を探究していくための基礎コースです。6泊7日で毎月開催しています。

7月(7/23~29)の「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



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私はどうして今の私になったのだろう。

いくつもの???が膨らんだ7日間だった。

自分を知るということは、自分という個から抜け出し、無限に広がる世界に踏み込む一歩なのかもと思った。(40代女性)



やれているか?

間違ってないか?

おかしい事言ってないか?

いいか悪いか、正しいか等で、考えに行くと

不安や焦燥感、(劣等感・上下感・優越感)

何かに反応してイライラする感じ。

やれているか?からでなく

とりあえず、観てみよう

やってみようっていう方に行くと

不思議とストレスが和らいでいった気がする。(20代女性)



記憶や経験で作り上げた根拠もまた、自分の感覚であり、事実ではない。

他の人と、共通のものとして通用しそうな、一般概念、色、ものごとの形容なども自分が捉えた感覚であるが、それを自分の外にあるもの、自分の感覚外のものとすることでその考えに自信をもち、自分が正しいとしてしまう。

自分の捉えた世界があれば、他人が捉えた世界もある。

捉えたものが自分独自のものだと自覚し、他の人に通用するものではないと気づくことで、決め付けや思い込みが減っていき、よりよい関係を続けていけると思っている。(40代男性)



「知った。」「わかった。」という固定的な考えが生じるメカニズムが以前より明らかになった感じがする。

隔てというのもあるだろうが、基は固定の考えから来ているように思う。

このコースで触れてる部分は人間問題の根本の部分だなという感じがした。

人間の頭の中のどの部分で、固定が生じてるかを改めて調べていくと、「人間の考え」の部分のように思う。

もっと言うと、「固定的な考え」が生じてるのは「固定する考え方」からだろう。

「わかった。」ということがどういうことかと言うと、「事実をわかった。」ということだろう。

言い換えると、事実を知らないという意識が無い状態だろう。

事実実際と自分の感覚の区別が無い、事実実際と自分の感覚というのをそれぞれ知らないとも言えるだろうか。

事実実際のことと、事実実際の何かを自分の感覚で見て聞いて捉えていることが関係はあるが全く別のモノということを知ることが大きいように思う。(20代男性)
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