その解明に臨む~争いのない世界へ

コースに参加すれば、必ず何か、新しい発見があるわけでもないです。
でも、こんなものと、諦めるでもなく、変わらなくてはと、頑張るわけでもなく、ただ、自分をもっと、知りたいとの、知的欲求は、いくつになってもあるのではないでしょうか?
10月の「人を聴くためのコース」の感想レポートを紹介します。

自分の聞くはどうなっているのか?
長い間、聞けない人、話し合えない人のレッテルを自分自身に貼り、疎外感の中で 生きてきた。
「どうして話合うことができないんだろう?」と、いつも奥底にあったように思う。 
今回、その解明に臨んでみる。 
話し下手で、意思をうまく伝えられないもどかしさ。人の気持ちも受け止めきれない、どうなってんだろう?

聞いて反応が起きたことを見て、自分の中を良く見てみる。 
自分が聞いたことは、相手が言ったことと、それで通り過ぎている。
その辺から、「確かに聞いたから間違いない」「いや言ってない」とすれ違っていく。 
聞いて、<言われた>と、捉える。そこから、暗くなったり明るくなったり・・。
そこが見えてきて、大分軽くなっている自分に気付く。

「意思を伝えたい」「わかってほしい」という、通じ合いたい、は誰でもの願いではないだろうか。その手段として言葉がある。 
言葉は心のあらわれ。
言葉がその人そのもののように勘違いしてるのではないだろうか。  
だって自分を良く見たら、最近は勘違いだったり、あえて反対のことを言ってみたり、いい加減もはなはだしい。
でも相手の言葉は真に受けて、「そう言ったじゃないか。 この耳で聞いたから間違いない。」としてみたり。
どうも相手そっちのけで自分のことばかり。 
その人が話してるときでも「途中からそうじゃなくって~」と言いたくなる。
まだチャンと聞いてないのに、どうして「そうじゃなくって」が出てくるか。 
不思議にも感じないまま、「えっ、 どこがおかしいの?」 
「で、その人なんて言ったの?」
「ええっ、聞いてなかった!」  
自分の言いたいことをひたすら言い合う世界からは、不愉快になったり、<言われた>とガーンと暗くなる。
その人と自分が分かれていない。 
言ったのは→その人。
聞いたのは→自分。
ここがはっきりすると、その人はその人の言いたいことを言っただけ。
勝手にいろいろくっつけて、「言われた~」と、なるのは自分の「あ~た~ま」の中のこと。
これじゃあ 聞くが実現しないわけだ~
「あの人、あんなこと言ってたけど、何を言いたかったのかな~」
自分と違うその人が見えてくる。
その人にはその人の世界がある。 
その世界は自分にはない世界、その人の人生そのもの。
でも聞きあえたら解けてくるものがある。暖かい気風がみなぎってきそう。
その人の世界は、わからなくても 理解しあえるかな。

争いや対立をどうやったら なくせるだろうと心砕くより、お互いの心を聴きあうことで自然に溶け合っていくのかな。 
”人を聴く”なんて、タダだし、お金もかからないし、争う必要ないし・・・
(60代男性)
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見過ごしていた大切なもの

内観コースでは、静かに、自分で、「母に対する自分」「父に対する自分」「誰々に対する自分」と、物心ついたときから、年代順に思い出していきます。
初めは、そんなに思い出せないものですが、内観の3つの視点(お世話になったこと・して返したこと ・迷惑をかけたこと)で、振り返ってみると、その時の場面や風景が、浮かび上がってきて、その時の自分の気持ちや、その時はわからなかった自分の心や自分の身近な人の心も見えてくるようです。
「こんな嫌なことがあった。」「こんな自分だった。」と固く持っていたものが、「あの時、自分は、嫌な気持ちだったんだなあ。ほんとうは、どうしたかったのかなあ」「相手はどうだったんだろう?」と、解けていくようです。


9月の内観コースに参加した方のレポートです。

母からはじめて、父、それから嘘とごまかし(盗)祖母 2回目の母と父、周囲の方に対する自分を年代順に調べました。同じ年代でも、対象によって全く様相、基調が異なること、そして、順番もテーマも響きあって2回目に出てくることばや感情も違うことがすごく不思議でした。こんなに豊かで、でも、感じきれていないことや置き去りにしてきたこと、忘れていることがいっぱいあるし、これからも自分の見方や経験や人から受ける影響で、どんな風にも変わりえると感じました。固定していることはないということを、自分の過去に対する思い込みについても実感したような気がしています。
私はかなり観るのがつらいことが多かったのですが、苦しさを感じた分だけ、見過ごしていた大切なものを取り戻したというか、見つけることができた気がします。
(30代 女性)

探究の旅は決して平たんではなかった。まずは母に対して年代を区切って世話になったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを思い出す。最初は「特にないなぁ…」と思っていたものの、何度も何度もその時代に足を運んでみると、ゆっくりとよみがえる過去の記憶。朝、スズメのさえずりと共に母の「おはよーおはよー」という調子はずれの歌が聞こえる。食卓に行くと並んでいる朝ごはん。髪の毛を整えてもらって「行ってきます」「行ってらっしゃい」。高校のころになると家を出るのはまだ薄暗い時間なのにお弁当はちゃんと出来上がってた。
当たり前と思っていたその光景。好きなことをやりたいもん。とわがままばかり言っていた私。「こういう娘になってほしい。幸せになってほしい」と母の強い願いの意味を深く考えず、疑問に思うことを質問したり納得するまで議論することもせず、ましてや自分の意見を伝えることもなく、その場をしのぐために形だけ「はい」と言ってやったりやらなかったり。
(略)
このような私を懸命に育ててくれた父母、いつも温かく見守ってくれている兄。共に生きようとしてくれた元夫、そして会社の上司や同僚たち、かわらず仲良くしてくれる友達。すべての人にこれまでの私とのかかわりにお詫びをし、感謝をし、今もかかわる人たちにはこれからも共にやらせてくださいと心の中でお願いをした。
内観という、これまでの自分を知る旅は、今の自分を知る旅でもあり、これからの自分の生き方を知るための旅だった。
自分の旅は今はじまったばかりだ。
(40代 女性)
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自由なお互いで、話し合えるようになるには、・・・ 

相手のことを理解しながら話し合いたいと思っていても、ままならないこともありますね。
そんな時、どこを考え、見ていけばいいのでしょうね?
「自分を知るためのコース」に参加した人のレポートが参考になるかもしれません。

自分を知るためのコース 9/5~12
初日、「自分のことを観察しよう」というのが最初に提示された大きなテーマ。
「考えないで、観察するんだよ」と言われても、考えることと観察することの区別がつかない自分がいた。
頭の中の近況は?と、問われると、「いつもいろんなことを考えているなあ。何となくせわしげだなあ。」と、自分の状態が出てくる。具体像が見えてこなかった。「何をしにここに来たのか?」と問われれば、目的や意図に意識が向いている。ただシンプルに自分の行動に意識がいかないのは、なぜだろう?と思っていた。この日出された「自分の感覚は正しい!と思っていないか」という問いにも「思っているよ!それが自分の自信につながっているから今までやってこれたし・・・」とかいう答えがすぐに頭の中に浮かんできた。

二日目は、「自分の感覚は正しいと思っていないか」について調べていった。
カップの特徴やペンの色のワークをしていく中で、知覚したものをずいぶんと自分なりのとらえ方で認識していることに気づいていった。
目の前にあるペンと私の頭の中でとらえたペンは、同じ物ではない~ということに気づいていくプロセスは、今まで体験したことのない経験だった。
時間は守るもの、お金は払うもの、と決めつけている私の感覚~実はとてもあやふやで不確かなものである、ということを自覚すること。―→ 前日に浮かんできた「私の感覚は正しい」という思いは、私の中から消えていた。

三日目は、「自分の感覚だという自覚があるのだろうか」について調べていった。
スプーンや玉葱のワークをしながら、自分の感覚イコール事実ではない、ということを自分の中におとしていく作業。
3.11の震災の例など感情と結びつくと、「事実でなく記憶」とすっと思えないのはなぜだろう?
事実は自分の中にはない ― 頭で理解しようとすると無理がある。
そのことも出し合いながら調べていくと、だんだんと事実と感覚・記憶が切りはなされてくる。
何だか今までの世界観が反転した感覚 ― この地点に立てたことは、新しいスタート地点に立ったような感じがする。

四日目、ちょっとした場面でも、自分の反応を観察している自分がいた。
言葉が通じないJさんとも、自分がどんな感覚でとらえていたかを出し合うのがとても楽しかった。
INPUT → ??? → OUTPUT
???の中にはりついている自分の観念や思いぐせ、もののとらえ方など様々なループをこれから少しずつでも調べていきたい。
知ると知っているの違い~知っている!と決めつけることで、目の前にある実際に対する見方をどれだけ狭めてきたことだろう!
皆で調べて「ああ、そうかあ!」と納得して食べてみたおかしの味は、とっても新鮮だった!忘れない!

五日目、実際はどうかに関心がいかないのは、何故だろう?私が信じていたのは、私の感覚や記憶。それを確かなもの、ゆるぎないものとするのは、実はとても不確かなこと。ここでもまた、世界観が反転する感じ。

自分の中でおこっていることを自覚していけるようになると、少し冷静になり「実際はどうなんだろう?」と対象や自分を見つめなおすことができるようになる。決めつけることがなくなる。

六日目、ブラジルの3人とも、とても親しみを感じるようになった。
感情を素直に出せるIさんやJさん、P君もとっても素敵!
事実と自分の感覚はちがう、という自覚が芽生えてくると、○○だ!と決めつけない考え方になり、なぜ私はこう思うのか?
この感情はどこからくるのか? 相手の言動をなぜこんな風にとらえるのか? など実際を調べていきたくなる。
決めつけない状態は、やさしくて、安心していて、自由な感じ。

自分を知るということは、自分の感覚でしか捉えてこなかった今までの自分を、決めつけることなく、新たに探究していくこと。囚われのない、自由な私、自由なあなたに成り合っていくこと。もっともっと本質に近づいていくプロセス。これからがとっても楽しみ。
日常にもどって、自分の中におこっていることをどれくらい観ていけるかはわからないけど、出てくる感情も含めて調べていけたらいいなと思っている。
仲間とも、もっと近くなっていきたい!
(50代女性)
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身近な人と、心通じ合っていますか?

「人を聴くためのコース」
「人の話を聴く」というのではなく、「人を聴く」とは、どういうことでしょう?
こんな会話、身に覚えありませんか?
「え~!そんなの聞いてない!」「え~!言ったよ!通じない人ね!」
<通じない>というのは、言葉が通じないという意味ではないですね。
心のうちでは、心通じ合いたいという欲求がありませんか?
ホントは、自分を理解してほしいという気持ちがありませんか?
私は、身近な人、大切な人と、通じ合ってるかなあと、あらためて思いました。

8/30~開催した「人を聴くためのコース」に参加した方の感想です。

「人を聴くためのコース」に参加して
このコース、3度目の参加ですが、前回と今回の間がかなりあいているので感覚的には、初めての参加という感じでした。

奥さんとの事や職場での事など、具体的な自分の実例も軽く出せて、自分の実態も浮き彫りになり、楽しく笑いの中で検討が出来たという感じです。

「言葉というものがどういうものなのか」
「聴くというのは何を聴こうとしているのか」
「聴くが実現しないのは何故なのか」
「聴くが実現したら、人は、社会は、どうなるのか」
一つ一つがとても濃い内容で、若い人達に刺激されながら、じっくりと究明し合っていった。

孫とのやりとりの例や、母と子の例など、子供とのやりとりの例で検らべる事が多かったのも考えやすかった。
子供が相手だと、「自分が問われている」という事が素直に思えるが、相手が大人だと、すぐに見解を言ったり、丸ごと受けないうちに返したりしている。相手が大人であろうと、子供であろうと聴くというのはどこまでいっても聴く側の問題。そこがすっと腹に落ちる。

人には、計り知れない、それぞれの世界がある。
それぞれの心の世界は軽重などなく、すべて対等。
計り知れない心の世界を否定したり、認められなかったりとか出来ようがない事。
まずは、「そうなんだ」と受けとめるだけ。
「そうかー」とただ抱きしめるだけ。
「人」というものが、とても愛おしく思える。
それが今一番の実感です。
もっともっと、いろんな事をやって、検らべて感じたりしたと思うが、言葉にするとこんなところです。
(60代男性)
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「心って何だ?」 学ぶ日々から

「マイライフセミナー」以外に、毎月「自分を知るた めのコース」「内観コース」「人生を知るためのコース」などのコースを開催し ています。
どのコースも、「自分を知り、自分らしく生きる」 ための探究であり、自分を知ることを通して「人間の本質」への探究にも繋がっ ていくことにもなります。
先に進むだけでなく、すごろくのように、以前に参加したコースに戻って、もう 一度見直してみたりできます。
サイエンズ留学というサイエンズを学ぶために、アズワンコミュニティに滞在し ながら、サイエンズスクールに参加するという学びの機会が、今年になって始ま りました。日々の暮らしをしながら、サイエンズを学び、人生や社会のあり方を 探っていく体験です。
ある留学生は、5月以来いくつかのコースに参加してきました。
彼女の8月「人生を知るためのコース」に参加した時の感想レポートを紹介します。

「人生を知るためのコース」感想

今の段階では「心って何だ?」「結局人間性って何のことを指すんだ?」などモヤモヤしているのですが、何となく見えそうで見えない、けれど何かある、という糸口的なものを見つけたような心地です。

キーワードは、「実際の自分」。
これもまだモヤモヤの中。
でも、自分の現れている部分である言動を「自分」だと思っていた。
また逆に人の言動を見て「その人」だと思っていた!!!
それ以外に「その人」がどこにいるんですか?!(怒)と言いたい位、ガッチリ「その人」になっていました。
今もそうなっている感覚がなくなった訳ではないけれど、言動はその人から出たものであって、その人自身ではないんだろうな、という気がしています。
みんなの心(?!)の奥底のようなところに、何だかぽやぽやして柔らかそうで温かな「その人のもと」があるのかな、と想像しています。
(略)
とても興味深かったのは「すべては1つ」。
ツクシみたいに、土から出てる所は別々だけど、土の下では繋がっているというイメージでしょうか。しかも「なずなの根っこは地獄まで続いている」という農家泣かせの野草です(笑)。
原子レベルまでいくと、確かに皆1つです。
川のように身体は形をとどめているけれど、常に何かが入れ替わっています。
そうやって見てみると、とても面白い。元は同じものなのに姿を変え、また存在する場所が違うと名前が変わる。しかも、それは常に動き続け入れ替わっている。これでやっぱり3日位検討してみたいです。

自分がしている日々のことに、今まで本当に無頓着だったんだなぁ、と思います。
何も考えず、言われたこと与えられたことをこなしてきました。自分の声も身体の声もろくに聞かずにきたなとしみじみ感じています。今の若者が「言われたことしかしない」と良く聞きますが、思考停止するような教育、先が見えないような状態では無理もないと思います。安心して、今までの経験を上手く使って「自分」を表現していく。そして、自分も相手も満たされる。そんな社会になったらいいな、と楽しい想像をしています。
まずは、自分を満たすことからしていきたいです。
(40代女性)
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