いつも愛情の中にいた

毎月一回「内観コース」を開催しています。
自分のことは自分で知っているとしていることが多いでしょう。
しかし、静かに調べてみると、自分が思っている「自分」が、実際の「自分」とはずいぶん異っていることが見えてきたりします。

内観コースは、「自分を知るため」の一つ方法として、続けられてきています。
7月の参加者の感想、抜粋して紹介します。

初めての内観。
どんなことが出てくるかな。
じっくりみてみたい気持ちと、振り返ると苦しい気持ちになることも多いんじゃないかという思いがあった。
1週間の間に父、母、ともに2回ずつ、母については3回目の途中(中学3年)までを観てみることができた。
1回目はやっぱり思い出そうとすると苦しくなる場面や時期があったけど、だんだん、してもらったこと、心配や迷惑かけたことばかりが出てきて、自分が苦しかったような気持ちに焦点があたらなくなっていくようだった。

★母に対する自分。
私は小さい頃からすごく甘えん坊で母にべったりだったから、少し振り返れば、母には甘えていたなぁとも思うけど、私のイメージでは、小さい頃から母はいつも忙しい。姉が病気をしてからはお姉ちゃんのことばっかり。
父とよく喧嘩をしていつもかわいそうな目にあっていた。
私はいつも寂しくで悲しかった。
ざっくりとこんな感じになっていたと思う。
内観を進めていくと、寂しく感じている自分、悲しくなっている自分の場面もあるにはあるけれど、母が側にいて甘えさせてくれていた場面、あたたかい感覚をたくさんたくさん思い出した。
もう忘れてしまっていたこと、やってもらって当然になっていたこと。
私になにかあったときも何でもない日常の中でも、私はいつもいつも愛情の中にいた。
そんな感覚になっていった。
私は保育園、幼稚園、小学校、、とあまり学校になじまないタイプだった。
中学生になると本格的に行かなくなり、それから10代の間はだいぶ苦しい時期だった。
カウンセリングに行ったり、家から全く出られなくなったり。
その間もいつも母が側にいてくれた。
私が動き出そうとする時はそれに付き合ってくれて、じっとしているときは、見守ってくれていた。
あのとき母は一体どんな気持ちだったのだろう?
そんな場面がいっぱい思い出された。
(略)
★父に対する自分。
父についてを思い出すのには抵抗感があった。
怖かった父のイメージが強くあったし、今も父とはなるべくなら会いたくないなぁという自分がいるので、してもらったことや愛情をもらっていたことを思い出してしまうと、今の自分の感情にとって都合が悪いような感覚があった。
内観を進めていくと、父にも甘やかされ過ぎるくらい甘やかされていたこと、父は父の愛情表現で、いつも愛情をかけてくれていたことが感じられた。
父については、父はひどいことをしたひと。というのが強くなっているから、してもらっていることが全く見えなくなっていて、なかったことになっている
記憶がたくさん出てきた。
父に怒られている時の記憶も、そのときの自分のショックや嫌な気持ちはあるけど、その前後の記憶が無い。
あのとき父はどんな状況でどんな思いだったのかな。
そんな気持ちにもなった。

私が、あのときはこうされてこんな気持ちだった。
こうしてくれなくてこんな気持ちだった。、と強くしてきた記憶がある。
でもそれ以外のことがたくさんたくさんあった。
私が「そうだった」と大事に持ち続けていたものも、その時の私の見え方、感じ方、その後に変化させたストーリーもあるかもしれない。
父に対しても母に対しても家族の記憶も世界が広がったかんじがする。
私が生きてきた時間、家族やそれ以外のいろんな人の中で生きてきた時間は、どこか一部の印象を切り取ってこれはこうだったなんて言えないことだった。

いつもいつも私は愛情の中にいたという感覚。
これはわたしにとってすごく大きなことだった。
思い出していく中で、家族やこれまで関わってくれたたくさんの人がでてきた。
私はいつもその愛情の中にいて、そうでない時はなかったんだ。
(略)
内観終わって数日。じわじわと内観よかったなぁという感じになっています。
(20代)
- | - | trackbacks (0)

安心を求めながら・・・

「人生を知るためのコース」が6月21日~27日でありました。

自分のこれまでの人生を自分はどう捉えているかな?
そもそも 人が生きるとはどういうことだろう?
人は、なにを糧に生きるのだろう?
自分を材料に、研究の対象にしながら、
現状の、今自分が見ているものに、とらわれず、
本来の目的、生き方を 究明したい。

参加者の方の感想の一部です。

 最近の自分は人を疑い不安になるという事が多かったと思います。
自分が不安を抱いていたことに関することが,ほぼ人を疑うという終着駅に着地していました。
その現状を掴めた時に何かすっとどうなんだろう?と切り替わる意識があるような気がして、何か面白く感じました。

安心と"自分が""自分が""自分が"と色々な事をやり、人との区切りを意識の中で作って安心するという事をしていたと思います。
自分が安心して暮らしていける場所が欲しいと思って、外の事で何とかなると思っていましたが、やっていた行動はなにかが攻めてきたら(盗られたら、脅されたら)どうしようという不安を生む結果に繋がっていたと思います。
安心の中でのびのびとやりたいのだけれど、外の物で安心しようとしているので、外の物を取られる不安という矛盾。
何か考えていて知識とかやれる事というのは、自分の中に閉じ込めておけるので、囲っておける外の物のなかで一番盗られづらい物とみる事も出来るような気がします。
なんか書いてみるとおかしな話です。

人の安心状態、やはり母親と子供みたいな人と人の関係が大きいように思います。
つらつらと、やれどもやれども豊かになっていかないというのか、心が悲鳴をあげている状態というのがあったような気がします。
願っている方向はあれどその実を探究していかないとやるという事だけでは成り立っていかないように思いました。
やればやるほど不安が増えて不安を消すためにお金が必要になって、お金が・・・というループだったり。
人と人との間でもやればやるほど楽しくなくなり仲も悪くなっていくような。
何か縛りあって律してお互いに幸せになっていくみたいな感じでしょうか。
向かってる気持ちはあるから、やり方が間違っていてもオッケーといったような感じでは終わらせたくないなにかがあるような気がします。
生きているからには本物、人としての本当を目指したい。
人が人らしく生きていく、人を探究していく。(つづく)
サイエンズ | - | trackbacks (0)

心に風を入れる~内観コース

「内観コース」を、毎月開催している。
内観法により、自分の人生にじっくり向き合い、自分自身を調べ、自分を知るための機会。

3月の参加者から、内観の感想を聞くことができました。
「今、50年閉ざしてきた固まった心に、ようやく風を入れて、あげたような感じがしています。」と・・
そして「今回、内観という”心の掃除のすべ”を知ることができたことは、心の安心と安定をまた一つ手に入れた思いです。」と・・

心が開かれ、柔らかにほぐれて、明るくなった。
今自分の心が、自分にもすっきりと見える。
そこには安心がある。
そして、周囲の人と世界も明るく見える。
オープンな心の状態とはこんな感じだろうか・・
内観(心の掃除)は、人にオープンな心の状態を齎すもの・・

<内観コース感想文  抜粋>
50代  女性
マイライフセミナー、自分を知るためのコースに参加したあと、“内観”無くして自分を知ることはできないなと直感して急遽今回参加させていただきました。
“自分らしさを発見したい”と出発した私の心の探究でしたが、サイエンズのコースに導かれながら納得したことは、“安心した、安定した自分の心のなしには、自分らしさは発見できない。”ましてや、“自分らしい生き方のアクションアイテム”を決めるなんて。(中略)
内観では、母との関係を重点的にしらべました。
日常私を困らせていた記憶の中には、幼少のころの家の中が母のヒステリックなムードに包まれ、意味もわからないことでしばしが怒られたり八つ当たりされたりしたこと。
などなどが悔しさ、恨みにも似たどうしようもない感情と共にリアルによみがえってきます。
現在の母は、年をとり体も弱り生活の中でもしばしば人の介助が必要になり始めています。
これからの生活には、老人ホームに入ると決めているようですが、先が決まらないなど不安を抱えています。
そうした母を見ても、私は心から親身になれない自分に苛立ちと後ろめたい気持ちを感じながら、一方であの記憶とともに蘇る感情が交差してどう向き合ってよいか途方に暮れていました。
内観では、“あの記憶”ではなくて、私の人生を通して年齢を区切って、“母にお世話になったこと”、“して返したこと”、“迷惑をかけた事”を調べてください、といわれ実は少しがっかりしたのを覚えています。
気を取り直して“観察”してみるってことかな?とやってみると、慣れてきた2回目あたりから、若いころの母がありありと思い出され、楽しそうに、機嫌良く、服を縫ってきせてくれたり、おやつをつくってくれたりする姿や、朝5時起きで毎日つくってくれた手抜きのないお弁当を思い出したり、数えきれないほどお世話になったことがどんどん、どんどん出てきました。
思い出しながら内観中ひとりで嗚咽を堪えて涙したこともしばしばでした。
母を調べるうち、今まで意識していなかった父との関係にも向き合う必要を感じました。
父は勤め人でしたので、家に帰って寝るだけ。
初めのころは“なにも出てきませんし、会話をした記憶もなくて、忙しくて子育てには参加していなかったと思いますが、経済的にお世話になっていたことは確かで、大変感謝しています。”なんて、面接の時にも表面的に述べていました。
しかし、どうも気になって仕方がなく、後半、もう一度立ち戻って父の背景を思いながらそのころの父の実際を推察してみて、“つれない”父に少し共感するような気持ちを持った後、驚いたことに、ずるずると父との記憶がでてくるようになりました。
こんなことも、あんなこともあった。こんなこともしてくれた。不器用だけどちゃんと私と妹二人を可愛がって愛してくれていたことを実感して
涙があふれました。
何時間もじーっと座って考えても出てこなかった記憶が、何かをきっかけに鮮明によみがえってくる不思議も合わせて体験しました。

内観を終えて、母とのあの記憶と共に止めようもなかった、悔しさや恨みの感情、家の中の重苦しく息苦しい感覚が、不思議ですが、今は感じられません。
幼い自分をかわいそうに思う気持ちは今も変わらず涙が出てきます。
でも、母に対しては少し客観的に見られるようになったようです。
母の心の状態やそのころ何かあったのだろうか?とむしろそちらが気になります。
父や母にも人生があって、楽しいことも、嬉しいことも、不愉快なことも、我慢してきた辛いことも、不安だったことも、たくさんたくさんあったと
思います。
私の知る限りの両親の背景を思ってみても、私と妹を、だれの助けも借りずに、何不自由なく育ててくれたことそれだけで、感謝する気持ちでいっぱいです。

内観では、50年私とともに生きてきた“私の心の歴史”に向き合って、観察することで、今まで思ってもみなかった発見、気づきを得ました。
終わった今、50年閉ざしてきた固まった心に、ようやく風を入れてあげたような感じがしています。
掃除はまだしきれていないと思います。
ですから、これからも期間をはさみながら続けていきたいと思っています。
今回、内観という”心の掃除のすべ”を知ることができたことは、
心の安心と安定をまた一つ手に入れた思いです。


40代 女性
<私の中の青い鳥に気づくこと>
1。記憶をたどる。
 強固に「こんなこと!」と剥製にしておいた「観念」 をほじくり返して、実際にそれに何があったのかをじっくり調べてみる。
この作業のためにまず必要だった鍵は、私が「もう知っている」と考えていたことが「事実•実際」ではないということを明確に知ることだった。(中略)私は本当に何も知らなかった。
いや、何も知らないということさえ気づいてなかった。

2。内観を通して記憶が始まる地点から現在まで、出来事は再構成された。
長い間埋もれていて探してもみなかった宝物が、ほこりを払ったらそこに煌めいていた。
一方の角度でのみ見てきて平面にしか見えなかったものが、照明を照らしたら立体の側面を表わした。
その間、外に現れないように、ぐっと抑えていた、それで余計に、膨らんでいた感情が、締め付けていた観念の結び目が解いたらおとなしく本来の姿を現わした。
しかし、再構成された内容も実際そのものではない。
ただそれだけ覚えていれば、これか​​らは私がどういう風に反応して暮らしているかを、逃さずじっくり観ながらやって行けるだろう。

3。軽く生きたいと、ずっと思ってきた。
羽のようにふわりと、飛んでいきたいと思っていた。
でも、何をしても、どこにいても、すぐ重たくなってしまう自分だからこそ、それでそんなにも軽くなりたかったんだ、と観えてくる。
しかし、重いのか軽いのかは私がそのように感じているだけで、世界はすでに 重かろうが軽かろうがもなく、ただ「実際」のことで動いているんだなあ。

4。おそらく七歳前後の記憶。
私はお母さんのことが大好きだった。
そして、幼い自分の目にお母さんは本当にかわいそうな人だった。
今の私より若かっただろうママの前に置かれた生は、無愛想な夫と三人の子供、そして父の工場で働いてた独身おじさんたちが出す、毎日の山のような洗濯物、ちょうどそれくらいのことであったのではないだろうか。
洗濯機もない家で、お母さんは毎日、冷たい水で手洗いをした。
キッチンであり、玄関であり、倉庫であり、練炭かまどであり、洗濯スペースであったところのセメントの床にしゃがんで座って、洗濯物を揉む動作に合わせて踊っているように動いていた母親の背中を、私はじっと見つめていた。
私は自分にできることなら何でも助けてあげたかった。
お母さんを笑顔にしたい、悲しませたくないと思った。
それで汁の味付けがうすいので「だしの素持ってこい」ということをママが聞いてないと食卓をひっくり返す父が憎かったし、それで「私の娘は大きくなったら裁判官になれ」と言ったママの優しい言葉に、裁判官が何かも知らないのにも「うん」とサッと答えたし、それでお母さんが学校の休みの時毎回一か月間お寺に行って家にいない時でも、会いたい気持ちをぐっと抑えて我慢していた。
お母さんを喜ばせたいと思った。
お母さんを喜ばせる良い子になりたかった。

5。自分の中で実際にずっとあったのに、一回も見てくれなかった、その心。ママのための心。ママからもらった心。多くの人々から受けた心。
そして、あなたへの心。遠いどこかにあるんじゃない。
ただ観てくれさえすればいい。
これにより、今までとは全く異なる可能性の日々がきっと開かれるだろう。
事務局 にて | - | trackbacks (0)

探究の旅の始まり

2月の<自分を知るためのコース>から・・・

ひとりひとり、自分の人生、自分の暮らしがあるなかで、
先ず、その自分が、どんな自分か、自分の内面で何が起きているか、そこに関心を寄せてみると・・・
そのプロセスを、参加者の感想を通して紹介します。

○女性 50歳代
今回初めて自分を知るためのコースへ参加するにあたり、課題を持っていました。
これらの課題は、ここ数年来の私の関心事であり、書物を読んだり、自分の頭であれこれ考えたりして答えが見いだせないままに、次に何をやるかを決めることに焦りを感じていました。このまま行くと“えいやぁ”で次の進路を決めそうな感じもありました。
(中略)

コースで先ず学んだのは、人間は自分の感覚を通してしか物を認識できない。
自分の見えている・感じている世界すべては、事実・実際そのものではない。
そして事実・実際をそのまま正確に見るということは不可能である。
また、人間の感覚は相当不正確・不完全・曖昧であったということです。
今まで、“見ている世界が事実であることは当然であり、私にはそう見えるからそうなんだ。”との思い込みが一期に覆ってしまいました。
外の景色、部屋の景色、目の前のカップ、眺めるものすべてが何か違って見え、変な気分(感覚?)を覚えました。

物を見て認識するまでの頭の中の動きについても、感覚として捉えた情報は、既に学習している知識、概念の記憶と瞬時に照合され、そのもの自体の用途や名前を認識してしまう無意識に行っている脳の働きの凄さを実感しました。
また、学習済みの知識や映像があると、既に“知っている”と思い込んで“今目の前の実際”をなかなか見なくなってしまうといった傾向も分かり
ました。

事実・実際は、常に変化しているので、それを認識しようとするのであれば、そこにある今の事実・実際をその時々に新しく感覚で捉えることができるし、より実際に近づこうと観察できます。
一方で、過去の事実・実際を、記憶にとどめておいた情報を、それと決めつけて、それを頼りに認識してしまうと、今の実際との乖離が起きてしまいます。
この乖離が起きるということが、実際、人間のものの認識やそれを元におきる言動にさまざまな不都合を起こすのだろうと思います。

○○だから△△だ。○○はできない。△△はやめられない。
「知る」と「知っている」、信じるは 「King of 知っている」等の課題からは、自分の心の反応の癖、決めつけ、縛りの発見と、実際はどうか、どうしてそう思っているかと、調べていく過程を学ぶことが出来ました。
自分が窮屈に思ったり、生きづらさを感じたりしている事象に照らしながら、一つ一つ調べていくことで、さらに心の縛りや決めつけから開放され、どんどん心が軽くなっていくと同時に、駄目だと思っていた決めつけから開放されることで“できる”可能性が随分広がるなぁとうきうきしてきます。
そして、よちよちゆっくりですが、自分自身で“アハ”体験できることに非常に喜びを感じます

私にとって自分を知るコースで得られたことは、人生をガラッと変えるといって過言ではありません。
自分の心のからくりと、それをもとに、縛りや決めつけから自由になることで、もっと自由で平和でやさしい人生を送れるそのきっかけを得られたと思っています。
これからの新しい生き方、母との関係の見直し、より安心のある人間関係といった課題についても、確実に改善のカギを手に入れた気分です。
縛りや先入観をはずして、どうなんだろう、どうだったんだろうと冷静に問い、考えることができる。
そしてきっと答えが見つかっていくだろうという強い可能性を感じています。
「知識や実績、信念などにすがってきた人生から、その時その時の事実・実際と照らしながら縛りの無い素直な心に忠実な歩みに変わることができる。」そんな期待を抱いています。
まだまだ入門。これから途切れなく少しずつでもサイエンズに基づいた探求を続けていきたいと思います。

○女性   40歳代

(略)
私が見ているこの世界、そして私が知っている自分と彼らの話のすべてが、実は私の感覚に過ぎないということ – つまり私が組み立てた認識の領域であることを明確に知ること。
ここから新しい世界に入る旅が始まる。
そこは今までとは全く別の話が開かれる世界だ。
上下や約束や当為や責任や不安などの、すべての自分自身を縛る観念から脱した世界だ。
過ぎてしまった過去の記憶や来ていない将来の妄想に束縛されず、「実際の今」を存分に生きる世界だ。
不可能だと、今までいつもそうだったと、そんなはずはないと事前に諦めてしまう多くのことが、実際に起こることができることであれば起こる、
すべての可能性が開かれている世界だ。
自分が思ったり信じたりすると実際がそうなる風な、でたらめな話ではなく、誰でも納得できる、やさしくて科学的な、理にかなった世界だ。

その間、自分で理解できなかったいろんな場面が少しずつ整理されていく感じがする。
例えば、どんな要因のためにお金の話を聞いたら冷たいと反応するかはまた調べることだと思うが、少なくともその反応の元がどちらにあるのか、あと聞いたことと冷たいという感覚と目の前の対象の間で起こる頭の中のメカニズムはどういう風になっているかは、少しはより鮮明になった感じというか。
そしてそれによって、「知っている」の世界であった以前とは全く違う種類の新しい経験にも出会えるのではないかと、楽しみにしている。
今回の旅行では「嫌な奴」に会わないだろうか?
今までできなかったことがこれからはどれだけできるようになるだろうか?
私は、またあの人は、実際はどんな人だろうか?
人間は、そしてこの世界はどのように形成されて、また変化していくのだろうか?
観たい、知りたい、会いたい。
事務局 にて | - | trackbacks (0)

「社会を知るための~」

昨年12月6日から12日「社会を知るためのコース」開催。
テレビや新聞などメデイアの世界では、恐怖や憎悪の連鎖による
現われの情報が飛び交っています。
「ああ、そういうことがあるんだあ」と受け取っていると、
そういう社会のイメージが自分の中に滲み込んでいきます。
「そういうこと」と受け取っている自分の中で、何が起きているか、
そういう自分と社会のかかわりは、どうなっているのでしょう?
「争いのない、幸せな世界」を希求しながら
それを阻むような自分になっていないか、そういう阻むような流れを助長していないか、                                 知的に情的に、社会というものの検討・究明が自分のなかに始まりました。

今回参加者の感想から抜粋して、これからの研究資料になればと思います。


<社会を知るためのコース 2014/12/6~12/12  抜粋>

50代 女性

誰もが本来の自分(ありのまま)でいられる
自由自在な世界、人と地球と調和した暮らしを
願ってくるなかで、最近、段々人との関わりが
重くなっていって、自分が本当に何をしたいのか、
自分の本心を見ていこうとすればするほど見え
なくなっているジレンマが何故起こっているか、
コースで紐解けていくことで心が軽くなって
いったように思う。

自分の内面を見ていこうとしても、どこまでも
「~ねばならない、~すべき」という社会でつくられた
強制通念によって、自分で自分を縛っていることに
気がつかないまま・自覚できないまま自分の本心を
見ようとしていて、見ようとすればするほど本心から
遠ざかって窮屈・不自由になっていることを理解する
ことができたのが、自分にとっては大きな気づきだった。

比較、判断、裁くなど社会通念の中で、「~ねばならない」
の強制は、最も強固な最上位の通念となっていて、
それによって、知らず知らずのうちに社会から見えない
縛りや抑圧を受けている環境の中では、自分の枠(世界)
だけで自分の内面を見て本心を知ろうとして解決して
いこうとすることに限界があることを痛感した。

対立のない、平和のために、意思を尊重して・・・など、
いくら社会をより良くしていきたい、という思いがあっても
「~ねばならない」の強制になると、より悪くしてしまう全く
逆のことをしている構造になっていることが理解でき、
人類の始まりから発生する不安⇒人に対する不信⇒
強制⇒縛ることで、人と人、人と社会が分離していく構造、
人が観念によって奴隷化していく構造が見えてきた。

優劣・善悪もなく、強制(責任、義務や役割)もなく、
自分や人がどのような状態であれ、内面に目を向けて、
自分や人の全てをありのままに見ていくことで、
絶対安心の空気感が生まれ、本心(思い)のままで
いられる自由自在な世界になっていくことが理解でき、
本心のままでいられる世界は、何も無駄のない簡単で
シンプルな世界で、それが実現すると、きっと喜びに
溢れた世界になっていくのでは、とも思う。

本心のままで生きている人同士によってつくりだされる
空気感・気風によって、心が開放されて本心のままで
いられる社会環境ができてきて、人も社会も自由で
開放された安心な社会が育まれていくことを理解して
知って、日常生活の中で実践していくことが、思いの
まま・ありのままの自由自在な世界を実現していく
ための一歩につながると思った。
マイライフセミナーから各コース、このコースに参加して、
自分、社会を通して自分を知っていくことで、自分(内側)と
人・社会(外側)の両方があるがままの自由な姿、
自分・人と社会がつながって一体となった、
本来の人と社会の姿が見えてきたとともに、
自分の人間観、社会観が閉じた観方から開放された
(無限の可能性がある)観方に変わってきたように思う。

日常人と関わるから、自分が縛られているものを
一つひとつ開放しながら、思い(本心)のまま・ありのままで
生きていくことを実践していきたいし、社会がそうなっていく
のにできることをしていきたいと思った。

本来の人と社会によって、人は成長(成熟)していくことで、
もっと知的に知性が発揮されて、より創造的で豊かな世界
になっていくのではないか。
社会は何のためにあるのか?
人はなぜ生きていくのか?
人になぜ不安が発生するのか?
についても探求してみたいと思った。


50代 男性
(略)
自由な社会を考えるとき、だれもが自由に生きられる社会を思う。
とすると、自由な社会を望んでいることはどの人も自分の意志で動ける、すなわち、やってもやらなくてもいいもの、しなければいけないが、ない社会。
病院も、他も。自分の内面を見て、動ける。
まわりもその人の内面を重点における。
規範のほうが上にあるものでない社会。
自分の中にないものを上におけば、たとえ平和運動でも環境活動でも、常にそれに合わせながら、やっていればよし、しないひとはだめ、の分断や強いてやる(やらないことを認めない)の状態で人に接するので、互いにいやになったり、けんかになったりするのではないか。


これまで、いろんな場で、掲げたものがいいかどうかと見てきたが、「掲げたものをみて生きる」ことが、自分の不自由と人との争いの種を延々とまいてきたのではないか。
一生けんめい「平和でなければならない」を見て、この社会の争いのひとつを自分が構成してきた。 
内面よりも、そとに置いたものを見ながら暮らして、苦しみや、責めのもとになる、自分と敵という分断をいたるところでやってきたのでないか。

内面に重点をおく社会。自分の中のものでやる社会。
まわりもそれをスイっとできる社会。
自由な社会。まずは自由な空間。
やらなくてもよい空間。
やりたいが内面にあって動く空間。
小さな場で少人数でもそういう空間。
小さな寄り合い。小さな活動。小さな作業、会社。
寄り集まって小さな街。
飛び地でもそう願い、検討しあえる人々。
そのなかの自分の状態。
それはこうしないとだめ、という自分流世界基準をいつも見つめなおせる状態へ。
ベースにいつも人間の本来を見つめると人たちにかこまれて、
社会に愛される暮らし。たのしみだなあ。
さっそく、このバカあたまで、自分をしらべながら、本心でつながれるか、
本心を見ながら本心に出会いにいく旅に出発だなあ。
寝ながらいけるようにそのまま。


60代 女性
(略)
ネバならない構造の展開と展望
どんなに心惹かれたお互いでも、やりたいなあと心から思ったことでも、無意識のうちに、~するべきだとか
~した方がよいなど外部規範に向けて、その規範に合うか合わないか、出来ているか出来ていないか、やっている人いない人、いい人、悪い人と分断して責め合う考え方の枠組みであり、その構造で作られた社会に私たちは生きて、誉められたら嬉しくて、その社会の謂となってほかの人たちを責めたり、あしざまにして平気。
成績や評価が上がると、学級委員や職場の管理者となって、基準よりドジなその人が悪い、責められて当然だろうと攻め立てます。

また逆に、出来ないといっていじけたり、恥じたり、人目を気にして小さくなって生きる。
見返したくて、必要以上にがんばったり、強がったり、見栄を張って生きるなど、「本心おさらば状態」で次の世代を熱心に同じ方向に育てています。
(略)
しかし、その人が一人でそうなっているわけではない。
たとえ戦争になったときでも、健康に育っている人の場合は、人を平気では殺せないために、そのための特別の訓練が必要と聞いています。
それぐらい追い詰めないと人は人を殺せない。
戦争でもない社会で、一人その人が突然人を殺したくなるんではない。
ちょうど津波の波が、突然立ち上がって襲ってくることがないように。

しかし私たちは、実に簡単に、人が独りでよいことをしていたり、悪いことをしたりすると信じてしまう。
そうした人や社会の観方も、するべきだとする考え方の枠組みで、人を比較して優劣をつけ、良ければ褒賞し、ダメとなったら徹底的に裁きながら、普通の暮らしの中でも徹底的に良い悪いと互いを分断し、ばらばらにしていく観方が育つ中で、同時に身についていることがうかびあがってきました。
(略)
みんなから出る具体的な事例や、家庭でのやり取り、企画を進めていくときのことなど、みんなの中で一緒に検討できたことは嬉しかった。
最近、夫と喧嘩も少なくなってきたと、喜んでいましたが、むしろ社会としては悪くなっていた。
お互いの本心を見ないまま、バランスを表面的にとって、衝突を避けていることが検討で気づけました。
若い人たちとの企画では、やってくれると評価し、その評価でその人を見て、外側でその人と付き合う質を生み出しそうになっていました。

本心で生きること、内面に重点を置く社会
何が自分の中から、お互いの中から出てくるのか。
爆発していくようなエネルギーを感じます。
まっすぐに生きることが出来そう。
アズワンで昨年から心センターや内観、スクール、オフィスのプチミーティングと、十分な愛情を受けて、自分のことが自分のことだけでなくなり、社会のこととして大事にされていく実感、稀有な体験をしていると改めて思いました。
見返りを求めない一方的な愛情を身をもって学べていること。
そこで、ありのままで受け止められている中で、自分の中で、上位に位置づけて自分の本心を裁いてきた「ネバならない○×」
規範が自然に力を失って、ありのままの気持ちをまっすぐに感じ取れる、シンプルな状態になってきていることに気づきました。
内面に重点を置く社会では、強固に見えた「ネバならない外部規範」が、私や人や社会の中で、そこを問題視して取り去ろうと力を入れないでも、むしろ自然に力を失っていくのではないかーーーそんな予想をしています。

今の時点では、たえず本心かな、と聴いていく、それぐらいで私はゆっくり生きていこう。
何もしなくてもよい自分と人、社会である、その位置から、静かに湧き上がるのを待つ。
柔軟に臨んでも微塵もゆれない
体制は、一人では出来ません。本当に手を組んでいきたいと思う人と一緒に、具体的にそんな社会にしていける実力も培って生きたいと思います。
サイエンズ | - | trackbacks (0)