心通う話し合いのできる人に 「人を聴くためのコース」

「話し合い」になっていく上で、一番の要になるのが、「聴く」という要素です。
単に言葉や、表面的な気持ち、考えを聞くのではなく、その人そのものを理解する、つまり「人を聴く」ことで、心から通じ合える、人を尊重し合う豊かな話し合いができるのではないでしょうか。
10月「人を聴くためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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相手の情報を集めてそれを分類していけばこの人はこういう人だと分かると思っていた。
だから身近な人は多くの情報があってよく知っているという感じがする。が、
どうやっても、完全に知ることができない相手の世界がある。 
それをはっきり知ることで、相手の世界に向かっていく働きが生まれていくんだろうなと感じた。
相手の世界を表現しようとした言葉や表情、雰囲気をこちらは感覚で受けて自分の世界で意味付けして理解しようとする。
自分の世界と相手の世界は全然別のもので、それでも何とか探って知ろうとしていく。
相手の世界が自分の世界に入ってくるのか、それぞれの世界が溶けて混ざっていくのか、何となくそれを続けていったら、世界が一つになっていくのではないかという発想が出てきた。
それぞれの世界が、心がつながっていき、一つになって調和していく。
そうしたら現れも自然と調和していくのでは。
それぞれの世界に上下も優劣もなくそれぞれがそれぞれとしてそこにあるだけ。
色々な世界と混ざり合い自分の世界がより豊かになっていく。(30代男性)


自分の中で「聞く」と「やる」がくっついてる。これはなかなか根深いなと思った。小さい時から相当訓練してきたのか、普段あれっ?と後でそういう状態に自分がなってたのかなと思うことはあっても、聞く瞬間は「やる」で聞いてるから、それを「やるか、やらないか」の選択で頭が忙しい。やらなくても「やる」で聞いている。
最初は相手は何が言いたいんだろう?と相手のほうに向いていても、言葉を聞いてから自分の頭の中で言葉の意味を探したり、相手が話してる内容を自分がちゃんと理解できてるかとか、言葉の意味があやふやだと「あーかな?」「こーかな?」と自分の頭の中で浮かんできたことをぐるぐるとやりだす。そうなると途中から相手の話にも集中してないし、その話が出てきた相手の本体には関心が向いていかない。(50代女性)


そもそも人が話し合おうとするのは、聴いて欲しい(知って 欲しい)と、知りたいという欲求があってのように思う。満たされることの無い単独の欲求なんて無いように思う。特に子供のうちは知って欲しいというのが強くあると思うが、大人にもそれはあると思う。
一人の時に話す人はあまり居ないと思うが、誰か人が居て話したくなる。人ってどういう生き物なんだろうと改めて思った。何もなくて言葉が出てきているのではなく、その人の中で何か心が動いて、それを人に見て欲しい、知って欲しいという現れの1つで言葉というのが出てきているのかなと思った。
人を聴くことで聴く人にある影響として、聴く相手の存在が自分の中で厚みを増していくということなのかなと思った。自分の中でその人の厚みが増していくことは、自分の豊かさが厚みを増すことでもあるのかなと思った。ここはもうちょっと調べたい感じがする。
(20代男性)
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素直に見て、聴ける、知的な人へ〜自分を見るためのコース

自分自身に対してや、日常の物事の観方や捉え方は、それぞれの価値観・人間観・社会観などを物差しして判断しているのだと思います。
その物差し自体は、自分に身に着いてしまって、日常では自覚することもなく、当然のようになっていることが多いと思います。
その物差し自体を観察して、客観的に調べられるようになることで、キメつけや頑固さから開放され、素直に自分自身や物事を見ることが出来るようになるでしょう。
10月「自分を見るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。

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普段の暮らしから離れて、自分の中に目を向け、つぶさに観察する日々を送った。
「見る」とは、どんなことをやっているのか、どう捉えているのかを「知る」機会になったと思う。
常に自分にベクトルを向けていると、ゆっくりコマ送りに観察する「眼」が養われて行ったように思う。
目はどんなふうに対象を捉えているのかを、図で表されたのを見ている時点では、頭での理解。
いろいろなエクササイズの中で、壁掛け時計を検討会室に持ってきて、逆さまに置かれたのを見たとき、自分の中で、「時計」にする瞬間があるなと気がついた。
それは、とてつもなく瞬時に起こるので、捉えるという実感はなかなか掴めない感じだけど、自分が「それ」を「時計」に「した」から、「あ、逆さまだ」とか「止まっている」とかの反応が出てくる。そのものは、「時計」でも何でもなく、クオーツとかプラスティックとか呼んでる物質が組み合わさってなんらかの動きをしている。
それを、「見て」→「時計にして」→「逆さまだ」という順序に自分の中で起こっている。
自分の例で、面白かったのは、夜中に目が覚めて考え事をしていた時、ぼやーっと部屋の中のものが黒く見えている。暗闇に目が慣れてくると、昨日までの記憶から「これはタオルかけ」だとか「これは電気」だとかに「する」瞬間があり、そのように見ている。
お風呂に入るときに、脱衣かごに布がかかっているのを見て、「足ふきマット」とする瞬間があり、「昨日敷いてあった場所に敷こう」と動いている。
「見る」の中には、○○に「する」瞬間が組み込まれている。
自分の中の知識や経験や記憶のデータからそれは一瞬にして起こっている。
○○にしているのは自分だから、当然そのものではないわけで、自分で○○にしたものを見ている状態。
この一枚が加わり、その瞬間を実感すると「自分が捉えているんだ」と強く思い込まなくても、自然にスーッといく感じ。
コースが終わり、久しぶりに見る街並みには、目を刺激するようなものがたくさんある。
今までの習慣ですぐに反応のほうに引っ張られる感じだけど、「○○にする」瞬間を実感するには、常に自分の中を見ている「眼」を鍛えていく必要があるのかな。(60代女性)

ボードの文字を見てそれがボードに書いてある、意味がボード側にあるなとなっているのか、それとも見て像を捉え認識した、が自分側にあるとなっているのか。
自分がそう見た、読んだ、読み解いたとなっているのか。
意識と行動の関係は、自分がそうしようと思って行動していたりするが、その行動自体だけを見るとそうしようと思ったことと別のように感じた。
料理しようと思って料理した。とか、自分が料理していると思いがちだが、実際には手足を動かしているだけ。それしか出来ないとも言えるだろう。
あの人が面白いことを言って笑ったのではなく、自分が聞いて、面白いと感じて、自分の中で笑いが起きている。
五感で捉えるもの全てがそうなのだなと思った。
○○さんに言われたとなっているのは相手の事がわかっている感じがする。
「思われる」とか「言われる」とか「○○された」とか果たしてそんな事が出来るのだろうか?
自分が主体となっているとそういう表現すら出てこない感じがある。

ナニカを見て、聞いて自分の中にあるものとそのものの要素が組み合わさって、自分で認識しているのだろうか・認識?自分が判断しているのだなと思う。
捉える→推測ではなく、よくよく見ていき、「なぜそうしたのか」と問えば自分の中で何が起きていたのか一つ一つある気がする。
そこが大事なポイントのようにも今の自分は思う。
なるようになっている世界では自然とそのものや本質的なものに関心がいく感じがする。この「自分を見る」のベースがハッキリとしていると自然とそうなるのではないかな。
意識しなくても、そうなっている状態。
コースに通ったら出来るわけでも知識を詰め込んだから出来るわけでもなんでもない気がする。
言うてみればただ人間の元々もっている仕組み通りに生きていくだけなんじゃないか?と思うと、今は複雑に絡み合いすぎてよくわからんちん状態となっている。
その元々の状態に気づいていく、知っていく。それに尽きるのではないかな。
なにかを得たい、分かりたい、知りたいとなるのは人間の本性な気もする。
それは自分の中に新しい知識を入れるのではなく、自分の中にある元々の状態に気づいていくのが自分を知るや自分を見るということなのだろうか?(30代女性)
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もっと、自分らしく〜自分を知るためのコース

自分らしく生きたい、でも、自分らしさって何だろう?
「自分らしさ」「自分らしく」を捜し求めたり、自分ひとりで考えてみても、わかるようなものではないでしょう。みんなの中、人のなかで、自然に現われてくるものなのかもしれません。また、気づかない縛りや決めつけから自由になることで、もっと自分らしく、もっと軽やかに生きられるようになるでしょう。
9月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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自分の回路の根底に「善し悪し」の概念が相当の強さで存在しているだろう、ということに気づきました。
目の前の現象や、行為をとらえる際のベースになっているとさえいえるような「善し悪し」。
しかも、それはふと立ち上がる“思い”さえも支配していました。
そんなことを思ってはいけない・・・・。子どもを亡くした時に、自分で気づいてしまったある思い。
母親だったら、絶対にそんなことは思ってはいけない・・・。わたしは、それを30年以上も忘れることなく、心の中にしまい込み、自分を責めてきました。
あまりにも自分を知らない、という実態。 というのか、自分の知り方を知らなかったということなのかもしれません。(50代女性)

自分の中で起きるすべてが、どこまでも、自分の感覚、自分の考えという自覚があるか、からが始まりだなという気がした。
「自分の考え」というのが鮮明になれば、鮮明になるほど、実際の自分に、実際の世界に対して、関心が進むことになるのではないかな。
「自分の考え」という自覚が消えるとき、断定することになったり、自分の考えに自信を持つようになったり、自分が思ったのが変えられないことになるかなと思った。
一つ一つのテーマで、探究してみて、「自分の考え・感覚」という自覚が、なぜ消えるのだろうか考えるほど不思議だった。
「 自分の考え」は、考えだということがもっとも易くて,簡単な感じだが、あえて事実化して、事実化からもともとの状態に戻るのがどうして難しくなってしまったのだろう。
「知った」「断定」「事実化」「善悪」「当然」などが、考えの中でいくらあると考えても、追求しても、実際の世界は、考えの世界とは別だろう。
実際の世界にない幻想を見ながら暮らしているんだと思う。
実際の世界が見えないほどの人間の考えで。。。 (30代女性)

そうなってしまってきているのは、自分を含め、そもそも人は人間はどういうものか、どうなっているのかというのを”知らない” ”知っているつもり”というのもあるのだなと感じる。
そのあたりがハッキリしてきたらずいぶんと楽に生きられるような気もするし実はとてもシンプルに感じる。
そこで「知っている状態」になるとまた同じ回路の考え方で、固まってしまってその先がなくなる。
どこまで行っても「知っていく」ことでやわらかく生かしていけるのかな。
“決めつける”というのと“決めつけない”というのは同じ回路な気がする。
決めつけていた自分を否定して、蓋をし、そうなってしまっていることを否定する感じ。
思ってしまった自分が悪い。
それは2重のレッテルを貼っているようなもので決めつけよりも複雑化させてしまっているような感じだ。 とても無理がある。
そもそも“決めつけること”自体が可笑しく思えてきた。
出来ない気がするのだ。
自分がどのように捉えているのか順を追ってみていくと…”自分”ってなにをさしているのか見ていくと…そもそも決めつけることなんて出来るのだろうか?
“決めつけないようにしよう”ってとても無理があるように感じる。
決めつけること自体がなくなってくると独自の回路も徐々に書き換えされていくように思う。(30代女性)

人間が持っている考え、認識、言葉、記憶、心、知性など個人の中にありながらも世代、地域、社会の中で影響し合っていると思った。
一度その集団の考え方、価値観などをインプットすると無意識にいつでもそれを踏襲する。
そうなると、自分にとってそれがどういうモノか?
そのことで何がどうなっているか?
見直すことが難しくなるように思う。
「私はこう感じるけど、本当はどうだろう?」とならないのは、単にそれを知らないからだと思う。
それは人の中で自分がセットしたように、人の中で気づき調べていくことのように思う。
自分の存在を知っていき、考え、記憶、言葉などの性質を知っていき、自分の現状を知っていくことが人らしく生きていく上で欠かせないと思う。
良し悪しの評価ではなく、只々自分がどうなっているのか?
その中に何があるのか?
子どもを見守る親のように自分を知っていきたいと思う。
今までに何回か自分を知るためのコースに参加したが、今回は、自分でもたくさんの人の中にいて安心している自分が浮き彫りになってきた。
日常の私を取り巻くすべてのモノの中から現れてきた。
それは私一人では現れようのない自分だと思う。
こんな風に人の中でどこまでも知っていける。(40代女性)
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楽しく、深く、「ほんとうは、どうだろう?」 

身近な問い、例えば、「見るとは?」「聞くとは?」「自分とは?」「幸せについて」「社会について」など、自分たちで話し合いながら、楽しく、深く、探ってみませんか?
「問い」「テーマ」を発するスタッフはいますが、誰かに教えてもらったり、何かを学習するのではなく、自分の頭を使って、自分たちで、じっくりと探究してみましょう。
新しい知性の使い方、心とつながる学びを「体験」「体感」できる機会です。
9月アスワンセミナー、参加者の感想の一部を紹介します。

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みんなの経験・考えを出して、一つのテーマを見ていくと、今までに自分にはなかった考え・見方に共感し合ったり、提案し合えたりして、その場の雰囲気がとても心地よく感じている自分に気づいた。
探究が楽しく、日常ではあまり使っていない頭を使っているせいか、テーマ「怒り」では違う疲れがあった。
人との関係性、社会との関係性、自分とは、幸せとは、考えとは、経験とは、キメつけとは、テーマを一つ一つ見て、考えてきたのだけれど、どのテーマも、生きて生活していく中では、どれ一つとして、一つでは存在していなくて、影響し合っているのではないかと感じた。(30代男性)

人や物とあらゆるものとの関わり影響し合いながら存在しているというのが見えた時、とても身軽になった感覚がした。自分ひとりでなんとかしようとか、そういうのから解放されていく感じ。
不安や警戒もこういうところから来るのではないだろうかと思う。
本来の幸せな状態は親しいと感じる人が幸せであってほしいと願う気持ちから探っていくと、その人がその人らしく安心した心の状態であって生きれること。
自分も大切な人たちもそんな社会で生きていけるといいなと思う。
そんな社会で育っていく子ども達は身につけていくものが違うだろう。
人は人の中で生きていく。
そものもがそのものらしく幸せに生きられる社会を創る一人となりたい。
小さなところから…。(30代女性)

沈黙の時間が心地良かった。
(私自身は)他の人の発言を聞いていたのか、いなかったのか、分からないけれども、聞いたこと(聞こえたこと)から、引き出される、自分の内側の言葉をおもしろいという風にとらえたのかも知れない。
テーマに添って話すわけですが、始めから何を話しても良いような雰囲気があり、緊張しながらも居ごこちが良いと思いました。
「親しい間柄」を普段の生活の中では、続けることは大変かもしれないけれども、「親しい間柄」について話し合える場があると分かった事は、とても心強いです。(50代女性)

幸せはお互いの事。
本当に何を願っているか見えづらくなる。
関係、関連の中で生きている。どこから自分といえるか、どこから自分の力といえるか。
赤ちゃん、生きているだけで影響している。
対立、対抗心、優劣感、劣等感は一時的なもの。
安心状態とは?
本当はどうありたいか。本当は・・・。発見の連続(探究)
人の中でこそ人として生きていける。
知識、経験、キメツケ、前提にならなくても残るものあるのか。
培われるという感じもする。
現状においてお金に囲いがないかというのはみえやすいバロメーターではないかと思う。
それが出来ているか出来ていないかという事よりその人の内面の状態。
調和を実現するには、・・・
そのものらしく生きられる社会、実現したい。知りたい。(20代男性)
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人生・生き方の探究

「自分らしく生きたい」とか、「幸せに生きるために…」などと、よく耳にしますが、そもそも、人が生きるとは、どういうことでしょうか?
人の一生を観察して、人生の目的や生きがい、本来の人の一生を探ってみましょう。
9月「人生を知るためのコース」の感想レポートの一部を紹介します。

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人がどういう生き物かというと肉体面ではなく精神面という要素が大きいように思う。
行為という現われのそのものは心から湧いてくるものに影響されているだろう。
心が満たされている状態で現れてくる現象は自然と明るい、優しい、元気なものが多いように思う。
今の社会だと、行為の方を明るく、優しく、元気にしなさいと考えでやらせようとするが、心にとっては逆効果になることが多いだろう。
心が満たされるというのは、何で満たされるのだろうか。
モノが欲しいという欲求が叶うことから満たされるのもあるように思うが、人から満たされる部分が大きいように思う。
人がいれば満たされるかというとそうでもないが、人の心から湧いてる部分を受けて満たされるように思う。
欲求とは別に人に対しての要求という観点も面白いなと思った。
本心というのは、願いのようなものかもしれない。
なっていこうとするベクトルなようなものかな。
自分が満たされたいし相手も満たしたい、別の表現だと成長していきたい、豊かになっていきたい、活かしたい。
自分だけでなく、相手も、人間だけでなく、他の生命も、生命だけでなく、世界中のモノをそのもらしく豊かな方に向かっていきたい。
そのようなベクトルが働く生き物なのかもしれない。
人の社会が人の豊かさを重視してないって改めて見ると不思議だなと思った。
人が豊かな社会。
そんな社会に向かっていきたいなぁ。(20代男性)


人と人との間で本来の心が育ちあっていけたら、人は人らしく、幸せになろうとする働きが、自然に出てくるものなんだろうな。
そしたら、ただ“今ここ”に存在しているだけで、人は満たされる気がする。
外に何かを求めたり、何かをすることで満たされる喜びもあるけど、もっと心の底から“ただ、命としてある”ことを喜べること。
私の本心、心からの願い、〜そんなものを、もっと観ていきたいな。(50代女性)


実際に人が生きているとはどういうことなのか。
人の命は一人で成立しているわけではない。
身体中の水分は常に世界を循環しており、呼吸している空気も一定の構成要素を保ちながら入れ替わっている。
自分の一部だったものが、ある時は海にあり、山にあり、他の生物の血肉であったりする。
体内では無数の細胞や器官が複雑に関わり合い、一つの命の流れを作り出している。人が生きるということは適当なものではなく、方向性を持っており、何かを実現させようとしている。
人が人らしく生きる、その中身には心と知性の働きが必要不可欠に思える。
心や知性があるからこそ、人が人として生きるということが成立するのではないか。
人は心によって世界と触れ、豊かさを感受し、膨らませていく。
また、心の好奇心によって知性で知ろうとする働きも生まれる。
知ろうという働きによって心は様々なものを受け取り、豊かになっていく。
こうして、心が満たされ続けていく。
人は心や知性によって、自らが進む方向を知り、選ぶことが出来る。
人は自分や人の本心や実際へ目を向けることが出来る。
人が成長するとは単独でなされることではなく、他の存在との触れ合いの中で、共に成長していく。
成長を分かち合えば分かち合うほど、人は豊かになっていく。
そして、実際を知って、成長し、周囲と豊かになり合い、世界全体で幸せへと進んでいく。(20代男性)
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