本当は何を聴きたいのだろう?

快適な社会生活を営むためには、話し合いは不可欠だと思います。その話し合いが上手く機能しないことから、不快になったり、対立や争いなど様々な問題を引き起こすことに繋がっていきます。
その話し合いの一番の要になるのが、「聴く」という要素です。そして、単に言葉や表面的な気持ちや考えを聞くのではなく、その人そのものを理解する、つまり「人を聴く」ことで、心から通じ合える、人を尊重し合う豊かな話し合いが実現されていくのです。
3月「人を聴くためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。
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自分の身に迫るテーマが次々と出される感じだった。
言葉を聞き、そう思うからそう言っているとなっている僕がいました。
聴いたらやるのが良い一辺倒の僕がみえてきました。
聴くは相手の心でした。
言葉の前のその人の心。
ああ、本当に「聴くとは何か」を知らない僕だなあと思いました。
(60代男性)

「人を聴く」って何も「しよう」としなくてもいいんだ!
「人の話を聞く」っていったら結構エネルギー使ってるからなー
「人を聴く」はエネルギー使わないでいいのかぁ…
「人の話を聞きなさい。」と言われると「やる」とか「返事する」がくっついている…
子供の頃は聴くが元々で「やる」、「返事をする」があまりくっついていないかな…
ずっと、言葉を理解すれば相手のことを理解できる幅が増えると思っていた。言葉と相手が結びついていて、さらにその結びついたものを自分の頭のミキサーにどんっと入れてグイーンとやって、最終、相手のことを理解するまでに至ると思っていた。
言葉というものが、同じことを言っている、との実感はなんだろうなぁ…?
言葉が出るまでの背景や心があるって知らない状態だったなぁ…。
発せらる言葉=相手の思っていること=相手。
本来の「聴く」が実現されることによって、愛(心を受ける)を向けると、人間果てしないほどのエネルギーがあって自発的に何かをやりたくなる。
やらせようとしないと、動かない。動けないようにしている現状の社会はどうなんだろう?
「聴く」と「やる」を結びつけて、言葉とその人を結び付けて、言葉でコントロールできるように調教されている家畜扱い、人間ではなく。
自分自身に重い枷を取り付けさせる作業を小さいころからやるって、面白い。しかも社会全体で。
「人を聴く」は、自分の認識だとはっきり知っている状態じゃないと、なかなかかな。
その反面、関心があればいいだけというものもあるかな。
なにも「しよう」としなくてもいい。
人本来の繋がりたいという本心ってやつに身を任せるのみ。
「人を聴く」の意識はいらない。もともとあるし。
日常の中で自分がどのように聴いて・聞いているか観察が楽しみ。
色んな観点もらったから。。。(20代男性)
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今を、自分を、生きているだろうか?

結果に一喜一憂する、周囲の評価を気にする、他の人の言動が気にさわる、等々は自分の生き方をしていないからではないでしょうか?
趣味・興味・関心・得手不得手・感情・欲求・願望・知識・経験・発想・思考、等々、自分のものだと思っていても、自分の生き方をしていない自分から出ているものかもしれません。
人の一生を観察し、人生とは何か、人生の目的や生きがいを知るための機会を持ってみませんか?
2月人生を知るためのコースに参加した人の感想を紹介します。
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「なんで生きているのかわかんない、生きる意味は?」って考えていた。
考えていたというよりは、思っていただけで、なんのために生きているのか全然わかんなくて苦しかった。
でも、もう、そんな風に辛くなることはないだろうなと思う。
何をしたいかが見えてきた気がする。
問題や苦しみが起こる根本的な原因は、目的を知らなかったからなんだろうな。
行為や感情や欲求や気持ちは、全て手段であり目的ではないんだ。
食べることも、仕事をすることも、勉強することも、目的を達成するための手段なのだから、やってもやらなくてもいいんだ。
常に、手段と目的を取り違えないように、自分の本心は何か、目的は何か、見失わないようにしたい。
もしも、人の本心が一つなら…
他人が幸せで、私が幸せじゃない、なんてことがありえるのだろうか。
私が幸せで、他人が不幸せな状態ってあり得るのだろうか、、、いや、そんなことは、無い気がする。
自分と、他人の関係を断ち切ることは、どうしたってできない。
出来たとしたら、幸せな感じがしない。
自分の考えの中にも、いろんな人たちの考えが混ざり合っていて、自分と他人で別々なんかじゃない、つながっている。
意識だって目に見えないけれど、一つと捉えることができるんだから。そもそも、生命は一つだと捉えられるのだから。
人の行為や言動ではなく、その人の実際はどうなんだろう、を見たい。
ひとかけらの遠慮もなく、もう親しすぎて親しすぎてこれ以上親しくなれないよ〜、みたいな関係を築きたい。(というか「築く」みたいなレベルじゃなくて、全世界のすべての人に、そんな親しみを感じられるような自分でいたい。)
そんな親しい関係だと、あなたの幸せが私の幸せであり、私の幸せがあなたの幸せになる。そうやってどんどんどんどん周りを巻き込んでいきたい。
こんな人たちがいっぱいになれば、幸せな社会は実現していけると思う。
「したい」「してあげたい」欲求から、世界がどんどん発展していけると思う。(20代女性)

現われた世界をすべてだと思っていた。
自分が捉えていたものを、実際だ、としている自分がいる。
人の言動や、肩書とかで、人を捉えている自分がいる。
その人の内面に関心が行かない。
そういうものだと思っているから。
実際の自分は多分何もなくて受けたものしかなくて、物質的にも精神的にもそれらがある事に気付く・知るだけで心の状態は変化するのかなと思う。
むしろそれだけで幸せか…
満たされるには「知る」って要素が大きいなー
「知る」ってどんなだろう、知ったらどんな世界だろう。
ただ率直に素直に考えを自分の考えとして知るのがもっとも大きなカギとなるのかな…
(20代男性)

「人っていうのは何なのか」について、しらべて見て、とても興味深いものだった。
普段自分の側から見ると、自分と環境があって、という感じがするが、「自分がどうやって生きているか」を観れば、自分の体のすべては周りから来ているし、内面のものも外からの影響で形成されていってる。
生きるにあたっての身の回りの物も、人の手や自然の産物で、飲み物ひとつとっても、それが作り出されるには、作る工場も、その工場を作るための多くの物があってそれらで工場を作った人があって、その工場でその飲み物を作った人があって、届ける人とその手段があって、なんせすごい人の連携の中で自分がコーヒーを飲んでいる。
自分が何かを受けていて、それが当たり前のことになって特に受けていないとなっているが、そこにあるということは、背景は、実際はどうなっているか?(50代男性)

健康に生きようとするエネルギー、方向性。
そういう方向性は、どのような時も変わらずあるようだ。
「死にたい」と言う人にも、生きようとするエネルギーは、死ぬまではあるだろう。
心底は?
幸せに生きたい、みんなと幸せに生きたい。
一人では生きられない。
人として生まれたときから備わっている本心。
うちにあるもので、のびのびと、人間らしく、知性も心も成長していく。
そういう人生をみんなと送りたい。(70代女性)
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自分について、どれくらい知っているだろうか?

「自分って、どんな人だろう?」と、自分の行動や思考、感情など、自己観察し、科学的に調べてみませんか?
誰かと比べたり、周りの人から言われて、自分って、こういう性格だとか、〜が苦手だとか、得意だとか、いろいろ自分について、思うことはあると思いますが、そもそも、「自分ってなに?」、「もともとの自分って、どんな人だろう?、なにを望んでいるのだろう?」と、「自分」に「人」に関心が湧いてくるようです。
1月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。
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「何に関心があるか。」 すべて自分の願望が出てきて驚いた。
この中には、人からどう見られているかに関心があるということもあった。
だけど、全て自分の感覚であるという自覚できた時、他人の目をそんなに気にしなくなった。今まで生きてきて、他人の目に捕らわれるような感覚をずっと持って苦しんでいたが、これは本当に嬉しいなと思う。
自分に一番関心がある。 そのままでいいんだなー。
今までは、エゴイストとか、他人を思いやれない人間?とか、、まるで悪いことかのように捉えていた。
だけど、自分は自分のままでいてもいいんだなと、感じてとても楽になった。
嬉しいな。
「頭の中の近況、何に関心があるか?」が大分変った気がする。
今までは、自分の軸を持ちたいとか、認められたいとかが大きく占めていた。
でも、自分の軸なんて持たない方がいいな。
人から認められる必要なんてなかったんだなと思い、今はとにかく自分のことが知りたい、楽しく生きたいという思いが大きい。
自分を好きになりたいとか思ってたけど、なんかもう好きだよなーと思った。
今まで自分に対して愚痴を言ってきて、嫌だなと感じていた人、その人のことをふと考えると、何故かすごく愛おしいなぁ!という思いが出てきて、びっくり! 仲良くなりたいな。 気をつかわない関係になれたらな。 
私が一番大切にしたいのものは自分。 今、そう思っている。 自分をもっと大切にしてあげたい。
私が自分を大切に生きることで、周りも楽に生きられたらいいな。
わがままだと思われるのが嫌だと思っていた自分にとって、わがままでいいじゃーんと思えたのはとても嬉しいことだった。
自覚で見えてきたものが沢山ありすぎる。
もし何か感情が沸いてきたら、本当にじっくりと味わったり観察したりして見てみたい。
欲求とかも同じく。(20代女性)

自信を持つことがイイコトだとされる社会で生まれ育ち、「自信なしにどうやって生きていけるの?」と思ってる自分を発見した。
“できない”という自信、自信がないことに自信がある等の聞きなれない表現を耳にして目からウロコが落ちた。
自信のある・なしで一喜一憂し、踊らされていたことに初めて気づいた。
自信がなくても生きられる社会?!・・・私にとって全く新しい概念だけど、自信持つことに力入れて緊張と競争に満ちた社会より、ずっと肩の力抜いて生きられそうだし、そこには安心がありそう。(50代女性)

「自信のある考え方と自信のない考え方」というテーマがあった。
「自信のある」ということは何なのかと調べていくと、実際でないものを大事に、それがなくなれば自分も無くなるような感覚を伴うもので、意識してそれを離すことが出来ないとなっているもので何故そうなるかは種々の原因がありそうで、複雑怪奇にも見え、それを維持するのに相当なエネルギーを要するもので、、、、と。そしてそれが及ぼすものは自分に強いるもので、それだけに止まらず人にそうさせようとする。
「自信のない」というのはシンプルで簡単で無駄なエネルギーを要しない。
人にたいしては親しさや愛情のみが溢れる。
自信のない考え方、実際に即した考え方。
「何時に行きます」「了解」その時間が過ぎた。どうしたのかな?30分過ぎて来た。「よう来たね」とそのつどそのつどその人を思う。(60代男性)

私は、自分と異なる感覚のことを言われると、特に家族に対して、「おいおい大丈夫か?」と自分が正常であるかのように思ったし、それを相手に堂々と表現していた。
ひどいことをしていたのだ。
感覚と考えと思い込みが全部一緒になって錯覚している自分。
だから人とのズレに対して感情的なっていたのだな。
「約束」はどこにある。
人と待ち合わせを約束した瞬間に、約束がかなっているイメージが浮かび、人と待ち合わせして来なかった時に、自分のイメージを事実化して、それを基に感情が生じる。
この感覚には、本当に驚いた。
事実を捉えていない日常、自分の中に生じていることにだけ反応している日常だったのだ。
今まで生じていた、人との関係の中での感情は、事実とは無関係だったのだ。
愕然とした。
「事実化のメカニズム」を知るかどうかは、人が生きる上で大きなカギになると思う。
探究したことで自分のことを耕した感覚があり、いつしか日常の中で無意識の内に、作用していくものと思っている。
探究の最後に「自分を知るためには」という問いがあったが、この問いに対する自分の
考えを、暮らしの中で検証したい気持ちが高まっている。(40代女性)
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自分を知るための内観コース

自分の人生に向き合う。
幼少時から現在に至るまでの自分とじっくり向き合ってみませんか?
その中で自分を客観的に観察する力も養われていきます。
客観的に自分を観る能力が出来てこそ、本当の自分を知ることも出来るようになっていくでしょう。
昨年12月の内観コースに参加した人の感想を紹介します。

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内観コースを終えて、今思うのは、自分の身の周りにある、豊かさに気づくことが、幸せにつながるように感じたことです。
内観では、自分の中の記憶をたどりながら、その時あったことをみつめるのですが、記憶を星で例えたら、私の場合大きくよく光る星ばかりで、それらはたいてい被害者としての自分の記憶で、「もっとこうして欲しかった」「もっとこうしたかった」という、子供の頃の私の声が聞こえてきました。
もう少し目をこらし、ようやく見えてくるのは、小さな星の集まりで、この中にようやく「してもらったこと」を見ることができました。その数は、実は大きな星よりも圧倒的に多く、すき間もないほどにあることにも気づきました。
人は満たされなかった欲求には、関心がいかなくなり、いつしか忘れてしまう。
けれども、満たされなかった欲求は、いつまでも手放すことなくその欲求もさらに大きくなり、記憶に残り続けるのかもしれません。
母からは、母を反面教師として「女性は自立すべきだ」という考えを。
決して私をほめることがない厳しかった父からは「自分は無価値な人間である」という考えを。
これらはいずれも私がこのように捉えたのですが、大きな力をもち、人生の中で何かを決断する時、選択する時、行動する時、人と接する時、すべてに影響を与え、私を苦しめてきました。
でも、人生とは不思議なもので、この影響を与えた本人である母の病気、父の病気を通じてと、わたし自身が会社という肩書きを捨てて、なんでもないひとりの人間になって、人生の底辺にいたということも重なり、家族と時にはケンカしたり、話し合い、助け合いとしている中で、その考えが全く私の勘違いだと気づかされるに至りました。
この経験は私には本当に意味が深く、この内観で振り返りながら、複雑にからまった糸が、きれいにまた一本の糸にもどったような、スッキリとした気分と透明な気持ちがしています。(これも家族の力により、解くことができました)(40代女性)

お母さんがいるから私がいるんだな。
お父さんがいるから私がいるんだな。
おばあさんがいて、私がいるんだな。
彼らがいるから、今の私がいるんだな。
お母さんに、父に、おばあさんに、彼らに
受けてきたすべてのことが今の私にある事なんだ。
私が持った考えも、
私が自分だとしてきたことが全部では分からないが、受けてきた考えだね。
実際に繋がっている存在。(30代女性)
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心のスタート 人生を豊かに生きるために

<自分>・<人生>・<社会>についての、様々な問いに対して、自分の頭を使って、じっくり、探ってみる時間をもってみませんか?
アズワンセミナーは、日常から離れた合宿生活の中で、日頃、自分を窮屈にしたり、自分らしさの発揮を阻んでいる観方などに気づき、人生をよりよく生きるための根本的な問題について深めていくセミナーです。
11月アズワンセミナーに参加した人の感想を紹介します。

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社会について、このようにあらためて考えることが少なかったので刺激になった。
自分と社会の関係についてや、社会をどのように見ているのか、その中に「人」との関係も見えてきたように思う。
争い・対立のない幸せな世界について思いを巡らせると、参加者それぞれの言葉や表現は違っていても、本質的には同じような事を大切にしているんだということがわかり、人間は一つなんだなということを再認識した。
その世界を実現するために私個人に何ができるのか考える良いきっかけとなった。
全体を通して独特の「間」があり、その感覚について違和感を持ったこともあるが、それは今まで答えのあること、早く答えを得ることに慣れていたことからくる、自分の反発だったのかもしれない。
でも、今まで得ていた「答え」も本当の意味で、どこまでゼロから探究しようとしていたか顧みる良い機会になった。(40代男性)

身近な実例を上げて探究していく中で、最初は相手に原因があると思っていたものが、最後はそうだと言い切れなくなってしまいました。
勝手に自分が相手の言動に意味づけをしていて、自分の感情が実際の中に紛れ込んでいたことに気付いた時は衝撃的でした。
今までは、怒りが湧いてくることがあってもそこに目を向けることをしてこなかったし、相手に対してなんでそんな行動したのか考えることはあったけど、なぜ自分が怒ったのかは考えることがありませんでした。
自分自身を探究していくことは自分自身を観察していくことであって、全てを受け入れることでもあるなと思いました。
そして何気ない会話の中で、「実際はどうだろう?」と問うことで、普段自分の中で思い込みやキメツケをしていることに気付くことが出来ました。
初めて参加者同士顔を合わせたときも、自分の中で、この人はきっとこういう人だと決めつけていた自分がいました。
また、「実際の自分とは?」ということを探究するとき、「実際の自分」は、「自分と思っている姿」とは全く同じとは言い切れず、体がここにあるのに私とはこれだと断言することが出来なくなりました。
自分らしく生きるということは、自分だと思っている虚像、もしくは、なりたいと思う姿をまねて生きているのか、自分らしく生きることと自分であることは少し違うなと今でも探究が止まりません。(20代男性)
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