心の声を聴こう 内観コース

内観法とは、「自分を知る」ための方法として開発された自己観察法です。
昭和28年に奈良県で、内観創始者である故吉本伊信氏が内観道場を開設し、その効果の大きさから全国・世界にも拡がり、各方面でも注目されるようになって現在では、医療界・教育界、又企業の人材育成等多くの分野で利用されています。
サイエンズスクールでは、自分で自分を客観的に調べることができるようになるための有効な方法として内観法を取り入れ、「自分を知るための内観コース」として2006年から、毎月、開催しています。
この7月(7/2~8)に内観コースに参加した人の感想の一部を紹介します。
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身近な一人一人と向き合い自分の捉えた過去から実際を見る。
これを何度も何度も。丁寧に、じっくり。
丸一日をかけて時代を区切り細かくみる。
単純でシンプルなことだけどこれをくりかえすことで見えてくる実際にあったことと人。
実際のことと自分の考えや感情が混同しているということに気がついていく。
内観は過去の記憶から自分を知る作業かな。
自分てなんだろう。
実際の成り立ちを知りどんな人からどんな影響を受けてきたんだろうとみてみる。
愛情をうけて、たくさんの人に見守ってもらえたから存在することができているのだろうと思う。(30代女性)

面白かったのが、高校3年生になり、よく接する友人が変わり、その変わった友人の影響を受けてすごく自分の人間性が回復していったように思う。
その後も父も仕事が変わったと思うが、家族全体の仲が回復していったように思う。
内観中のCDの話でもあってそうだなと思ったのは、人間は環境の影響をとても受ける生き物だなというのを自分の人生を観察して感じた。
言い換えればそれ程人間にとって環境という要素が大きいと言えるのではないかと改めて思った。(20代男性)

自分を冷静に見れば見るほど、相手への愛情が湧いて出てくる。心が温かくなる。冷静な目で温かい心を回復するということ・・・おもしろいと思った。
自分は人間をどのように見ているのか。自分を見つめることで、人間観、世界観まで見えるということも。
不思議なことに、自分自身を見れば見るほど、自分と世界、自分と人間の間のつながりが見えてくる。
多くのものがありのままの姿で見えてくる。他人を見る視線で自分も見ていた。(30代女性)

思い出す印象的なシーンは、人生のうちのほんの数パーセントで、その他の膨大な時間の「いつもの」「何気ない日常風景」の中に、たくさんの人々、たくさんの思いがあるのかもしれないなあと思いました。
それは特に「受けたもの」を調べた時に思いました。
私の中にたくさんの顔が情景とともに浮かんできました。名前が出てこない人も多かったですが、こんなに多くの人が、ひっきりなしに私の人生に現れていたんだなあと感慨深かったです。
一人でやっていると思っている時でさえ、いや、そういうときこそ、たくさんの人に支えられているんだなあと思いました。(40代女性)
 
最後に嘘とごまかしというテーマで、自分をよく見た。
嘘だと思った時、人を欺いていると思ったが、実際は、私を欺きながら暮らしていたようだ。自分を見ないで、外に視線を置いて合わせようとする過程で、気がつかない嘘をつく時が多かったようだ。(良い振りをしながら、大丈夫な振りをしながら、上手くやる振りをしながら・・・など)そしてそれらがほとんど即時の反応として出たみたいだ。本当は何がしたいのか、自分にも分からないまま、何かをずっとやってきた時間が多くなかっただろうか?と、通り過ぎた時間がちょっと惜しく感じられた。(30代女性)

そう言えば、お母さん・お父さんは、私がどこで何をやっていた時でも、ずっとずっとそこにいてくれたなあ。一度もいなかったことのない、当たり前のようなこと。水のような、空気のような。それを飲んで、それを吸って、ここまで来れたことなんだなあ。
私のすべての出発点にしてベース。心強いバックグラウンド。
怪我しないように、病気にならないように、病気になったら早く治るように、よく食べてぐっすり寝てすくすく育つように、人として正しく成長するように…お母さん・お父さんは常に気をかけたり、体を動いたりしていた。
それは、あなたのことと私のこととして、区分した状態で出来ることではなかった。
お母さんの人生に、お父さんの人生の中に、いつも私のことまでが含まれていて出来ることだった。
お母さんからも、お父さんからも、「ああしろこうしろ」と言われたことがあまりないことに気が付いた。
両親はただ、毎日ご飯を作ったり、服と寝床を用意したり、住むところをちょっとずつ暮らしやすく整えてきた。
欲しいというものを買ってくれたり、お金をくれた。
私が家から遠いところに離れていった時にも、また戻ってきた時にも、二人はずっとここに居た。
一回もちゃんと意識したことはなかったけれど、その点においては本当に安心した状態で、私は思い切り離れて、好きに戻ってきて、また離れることを繰り返した。
その中で自分は、後ずさりしないで、ひたすら前に向かって進んできたような気がする。思う存分自分の人生を生きてきた。
ベースがあっての今なんだなあ。(30代女性)
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話し合えるようになるために

「幸せに暮らしていますか?」
「何を幸せと思っていますか?」
「人にとって、本当の幸せとは?」
と、「アズワンセミナー」では、身近なテーマを、参加者どうしで話し合いながら、探究していきます。そして、自分を、お互いを知り合っていく「話し合い」の体験の場でもあります。
7月「アズワンセミナー」に参加した方の感想です。

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心が満たされているような感覚は、家族ではない人たちといる時でも味わえるのかもしれないと思った。(20代女性)

学問の「哲学」では文献を調べることが中心と感じるが、ここでは「哲学する」という姿勢を感じた。(60代男性)

「感じている事」が“ある”のではない、“ある”ことを「感じている」んだ、コレはよく前者になりがち。意識したいと思った。
いつも自分の内側で何がおきるのか、自分に矢印向けて観察する、同じく相手のコトバや行動ではなく、その人の内側で何がおきているのか矢印向けてみる。
そうすると、攻撃も防御も必要なく安心して居られる気がした。
中略
「世界」と思っていたものは「私にとって見える、聞こえる、感じる世界」なんだと知った。
もうちょっと、もうちょっと自分を探究したいな、探究している時、目がさえていた。おもしろいなと感じていた。(20代女性)

会話だけでなく、日常行っている行為のほとんどすべてが、このように流れ作業で行っているのかもしれません。
このように思うことが、いいとか悪いとかのジャッジではなく、ただ素直に「あ、そうなんだな」と思えると楽だろうなと思います。
感じることをあると認識するのではなく、あるということを感じる
ただ、そこで起きていることを感じる。
それは自分にも起きているし、相手がいれば相手にも起きている。
そして、起きていることが気になることであれば、「それがなんで起きているのかというメカニズム」をフォーカスすることを繰り返し繰り返し行うことで解決するのだろうなと思う。
日常で、無理のない範囲で、探究を続けていき、本来のもっているであろう身軽な思考で気楽に生きていきたいな。(40代男性)
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「人が生きている」とは、?

「人生を知るためのコース」では、
人間とはどういうものか、
人が生きるとは、どういうことか、
一週間かけて、じっくりと探究していきます。
「その人の実際」「そのものの実際」に目を向けていくと、
どんな世界が見えてくるのでしょうか?
6月「人生を知るためのコース」参加者の感想文を紹介します。

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長い旅をしてきた。
遠い宇宙のはじまりから、色々な舟に乗りかえて。
そうして、今、オレという舟で、オレという心で旅をしている。
どこへ向かってきたのか。 どこへ向かうのか。
長い旅をしている。
一人じゃない。(20代 男性)

  * * * 

自分を見るとか、本心に焦点を当てていくということは一人でやろうとしても(今の実力では)無理だな(全く無理ではないとしても非常に近いところに限界がある)というのははっきり見えた感じがする。現状は善悪の観念が強く、自分ではそれが自分の考えだと気づいてないことも多い。また自分の考えに伴う反応、義務感・責任感・上下感・優越感・劣等感等も大きいのでそれに気をとられてしまいがちになる。少人数でも気持ちのある人で寄って、現状の問題をどうするかよりも、まず、本当はどうあってほしいのか、本心はどうなのか、に焦点を当てていきたいと思う。誰もが本心で生きられる社会の実現には、自分の本心に焦点を当てるところからかもしれないなと思う。(30代 男性)

  * * * 

この感覚、見ることを取り戻し、今後は失うことのないように、今回、再留学もしたのであるが、見失うことなく、深めていきたいと決意を改にした。
人類が、地球が、世界が、一体となって大きな意志をもって、大きく飛躍しているような動きの中で、二元的な見方も心を重視しない見方も必然であり、間違いもないものであろうが、しかしさりながら、人類が開放され、本心で生き生きと楽しく生きていける日が、一日も早く来ることを願って止まない。
その為に、自分自身も思いっきり、それに向かって生きてみたい。(50代 男性)

  * * * 

その人の実際は?という時、行為は最後の目に見えて現れてくるその人のほんの一部で、目に見えないその人の思いや考えや感情などの意識上のこともあるけれど、そのもととなるその人の内面の大きさが、ああそれがその人本体と言ってもいいくらいなんだなと思った。
内面を重視したいと思ったらそうなるんじゃなくて、内面がどれだけその人の中の占める割合が大きいかを知ったら、そっちに目が向いていくように思う。
私にとって結構大きかったのは、善悪とか良し悪しを検討していて、実際の世界に良し悪しってあるんだろうか?良し悪しってなに?と探っていくと、自分の中に良し悪しの観念が強かったのに気がついたことかな。
以前から自分でもいい悪いですぐ見えてしまうなとは思っていたけど、自分が動く時や人のこともそう見えてしまうたびに、なんでだろうなあと思っていた。
実際の世界にはないものだなあ。
いろんなテーマでみんなで検討してきたことがつながっているんだろうけど、なんだか随分楽になったな。(50代 女性)

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今は、あの人はどんな気持ちなのかな、その本心はどんな感じになっているのかなというような感覚が、好奇心と純粋な不思議感、ちょっとした愛しさのようなものが入り混じって存在しています。あたたかい感じも覚えます。

コースを通して自分の実際、成り立ちや背景への理解が深まるにつれ、人への関心や親近感、幸せを願う情のような感情が少しずつにじみ出てきている気がしています。この感覚はいったい何なのか?ちょっとした幸福感にも感じられます。何かを達成したり欲しいものが手に入ったりしたときの一時的な強く突き上げるような喜びとは異なり、弱いが優しく漂うようにそっと包み込む喜びのような感じです。
自分のたくさんのものを受け取っている実際を知っていくことで、こころが満たされた感・豊かな感覚が深まり、人へ与えたいという心の動きが生まれたのか、自分の人とひとつのものである実際を知っていくことで、人への興味や人を活かしたいともいえる心の動きが生まれたのか。もしかしたら、人間はもともとこういった心の動きは持っていて、ただ遮断されていただけなのかもしれないなと思いました。
これから日常に帰り元の生活に戻りますが、私に表出し始めた人の実際・本心を知りたい・活かしたいというエネルギーを、人とのかかわりの中でどう表現し、また育て、共有していくことになるのか、非常に楽しみな思いです。
そしてたくさんの人と人が本心を知り合い、本心で生き、豊かな人と人が満たし合い、活かし合う幸せで喜びあふれる社会が実現していく、そんな夢…いや現実を、今日は見始めました。(30代 男性)
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自分をそのまま見ると

「自分」を観察してみましょう。
私は、何を見た?そして、どう思った? 
私は、今、何を思って、なにをやろうとしている?
その都度の自分の状態(言動 感情 気持ちなど)をそのまま見てみると、自分のホントの気持ち、自分の願っていることが、見えてくるかもしれません。
6月「自分を見るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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「自分を知ること」を実現していくために「自分を見る」ということをやっていく、と聞いて、始まる前から楽しみでした。
「自分を見る」という事を一つ一つ丁寧に進めていくこのコース。
自分の考えている事がどのようなプロセスで正しい、とされていくのか?
自分が、実際にどこで引っ掛かったり、嫌な思いが湧いたのか、などがほんの少し明らかになったように感じます。
「掃除することになっている」「探究会は9時スタートと聞いている」
など、聞いたら当たり前になんの疑いもなくやっている事について、
自分の意志は?自分の気持ちはどうなっているのか。
なぜルールのように感じている事については、そのままに行動しようとするのか。
その中身はどうなっているのか。
行動する度に、自分の中を見ようとするようになってきました。
「自分は何をやっているのか?」「何をやろうとしているのか?」「実際には何をやっているのか?」
無意識にやっていることってたくさんあります。
むしろ無意識にやってることの方が多いくらい。(30代男性)

「見る」とはどういうことなのか。
過去や現在の自分の中で起きていることに意識を当てる。
何かを見て、聞いて、自分なりに捉えて、反応が出る。
反応が現象として現れ、意識で感じることができる。
その反応を手掛かりに自分がどのように捉えているか、何を見て、聞いているのかを探っていく。
言い聞かせようとしたり、考えを展開しようとするのではなく、今の自分の中に起きていることを見ていく。今のところはどうすればそれができるかがわからない。
そこに今興味が湧いている。(30代男性)
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私は、「自分」について、知ろうとしているだろうか?

日ごろ、人や物事について、「もう知っている、もう分かった」としていることが、ずいぶんあるように思います。
情報や、自分の体験から、「こういう物」「こういう出来事」「こういう人」など、「知った」つもりになることがあるでしょう。
もしも、「そのことについては、もう分かった」としてしまったら、それ以上は、進まない、理解し合えないのではないでしょうか?
6月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想レポートを紹介します。


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自分がいかに「自分」というものを決めつけているか、そして自分から見ている世界をも決めつけているか、そのことがコースを終えて一晩明けてひしひしと感じられるようになってきた。
自分自身で作り上げた舞台の上で、自分で作った台本を読んで、自分は劇を演じていることを忘れて、自作の舞台を世界そのものと勘違いしていなかったか。
今回は、自分を知ることをいかに自分が疎かにしているか、に気付くようなコースだった。
自分のやっていたことにただボウゼンとしているが、今の地点から世界を見つめ直したら自分は何を見ることが出来るだろうか楽しみに思う自分もいる。
今回のコースは自分を知る「ための」コースであり、ここを出発点として、これからどう再出発できるか自分なりに試行錯誤していきたい。(20代男性)

これまで感覚ということを、五感で感じたり、身体感覚で感じたりするものとしていました。そういえば、あの人の生活感覚はどうなっているのだろうとか、あの人はセンスが良い悪いなど、ものの形状だけでなく、人の行動の様子まで、良い悪いと判断をしていたことを、自分の感覚でやっていることだと、はっきりと自覚していませんでした。
その人はその人の感覚でやっていることであり、それを見たり聞いたりして、私は自分の感覚で捉えたことを元にして判断していることを、他人事にしていたようなものです。(70代男性)

別に自分を知らなくても、知らなければならないこともない。
ただ、思ったことは、でも、まだ僕は、そんな自分とこれからもずーと一緒で、この人生を生きていくということだ。そして、もっとも、自分に近い一番身近な存在でもある。
その自分を通して、実際の自分を知りたいし、そしてその自分を通して、この世界や人を見ているし、その実際を知りたいと思っている。
そう思うと、本当にそんな自分を「大事にしてあげたい」と思った。
「自分を大事にしたい」、初めて思ったかもしれない。
もちろん、なんやかんや、自分のやりたいことをして自分優先して生きてきた自分だが、はたして、自分自身を、じっくり、ゆっくりとみつめて大事にしてきたか、どうか、というと、ずいぶん、乱暴にし、ムチを打って、強いて、責めて、苦しめて、無理くりに生きさせてきたような気がする。乱雑だったな。
たぶん、人に対して、同じようにしてきたんだろうな。
その自分の実際にふーっと目をやると、両親の愛情を受け、世話になり、また多くの人たちに世話になり、一人ひとりの大切なものを注がれて生きてきたことに目が向いた。
ほんとうに自分の存在って、大事なんだ、かけがえのないものなんだなー(50代男性)
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