「社会」、何のためにあるのだろう?

そもそも「社会」とは、なんでしょう?
「社会」は何のために作るのでしょう?
「社会」は、人にとって重要、大事だとは思っていても、「社会」とは?と問われると、あまりにも知らないということに気づきます。まずは、自分の社会観を調べてみませんか?
そして、ほんとうに願っている「社会」は、どんな社会でしょうか?
5月「社会を知るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。

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「するべきこと」「してはいけないこと」というのは本来あるのだろうか?
実際は何もないよなあ。
責任、権利、義務というものも本来は無いよなあ。権利を主張し、権利を持てば自由が増すかのように感じるが、権利と義務はコインの両面のようにぴったりとくっついているようだ。権利が増えればその分、私やあるいは他人がしなければならない義務が増えるんだなということを調べながら、権利を主張する活動等が、実際は互いに不自由な方向に行ってるんだな、ということが見えてきた。
「社会は何もしなくてもよい」というポイントで、社会が新しく見え、新しい社会を作るんだと思う。
いつからか個人も社会もあるのが当然となってしまい、そんな風に世界を見ているのだなということが見えてきた。
何もしなくてもよい社会であるのに、いろんなことをしてくれている。そんな風に見るにつけ、有難いことばかりだなあと思う。してもらい、受けてばかりだ。

人の内面、心の状態に関心を持ち、その心が満たされて成長できるように支援する社会。
個人がそのようにするのではなく、社会が一人の心と一つになっていこうという社会。
それで、その人らしく発揮できる社会というのがあるんだなあ。
社会から、心が満たされて、その満たされた心で、個人が自分らしく成長、発揮され、それが再び社会に流れるような社会。(30代男性)

現状では、社会のために人は作られている。
子供のころから「こうするべき」を教え込んで、権利義務や所有観念が染み込んでいく。
そして、互いに押し付けたり、やらせたり、責めたり、縛り合う。
でも実際の世界は「なにもしなくてもよい」
権利義務、所有も責任もそこには存在していない。
これがベース。
ここから生まれてくるのは本心。
「やりたい。」「やってほしい。」人の要求。
そこから見た社会があるんだ。
社会は人をサポート、応援することだけ。 経済をサポートすることでない。 
経済の成長ではなく人の成長。 
本当に人の心が満たされる社会。 
仕組みや機関はその結果で、出来てくる。 
力が抜けた。
社会がどんどんそういうふうに人をサポートしていったら、想像つかない社会ができてしまう。
どこを、重視するかだね。 
“社会をツクル”は簡単でシンプルに見えてくる。
「何もしなくてもいい」から、心オープンで話したい、ミーティングしたいな~。(50代男性)
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人として

人が人として生まれ、人として、その人らしく生きる。
そもそも「人」とは、どういう生き物か?
「人が生きる」とは、どういうことでしょう?
5月「人生を知るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。

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人の自分の行為言動の現れの前に 意識上の自分の思いや、考え意思・感情・欲求・気持ちがある。
そこを紐解く?と本心にたどり着くらしい。
言動だけ見るとわけが分からなく、みんな違って、どうやっても争ってしまうように思う。
何を言っているのか、何をしたかったのか、内面を見ようとする。 
行為言動の良し悪しではなく、重要なのは、内面。
弟と言い争った事が印象に残る。
何を言おうとしていたのだろう。
思いに気づく、してほしい中身は、弟の人間性を表していた。
人の、自分の本来性は、満たされ、人と人との繋がり、社会の中で、豊かに、多様に、繋がって、受け継がれていく。
実際の世界、自分の成り立ち、自分が何者か、人が何から出来ているか見ていくと、そのまま、実際に近い形を好むように思う。(20代男性)

悪い事しそうな○○さん、私の見方に悪い人というレッテルを貼っている姿を思った、悪い人を事実にしている感じである、私の中にその人の距離感が発生してくる、隔てが出来ている。
その人の内面・心に、目を向けていくと、「気持ちは?」と、レッテルが剥がれだす。
何を願っての行為・行動なのか? もっと深く、その人の心底は?と、見ようとして見ていくと、広がりと深みをもって見えてくる。レッテルを貼った薄っぺらい自分の癖が遠のいていく。
人は、社会の中で生まれ、愛情を受けて満たされて育っていく。
人の中で安心を得、聴いてもらえる・受け止めてもらえる、人の心に満たされて、知る能力を育てながら、成り立ちを知り、事実・実際の豊かさを感じ満足し、自らの内に湧いてくる欲求によって動き、人によって欲求を叶えてもらえる嬉しさを知り、人の欲求に応える喜びを倍加させながら、人と人の中で人と共に、幸せに成り合っていく・・・人生。
人の心は元来優しい、奥底に愛しむ心が見えてくる、豊かな心の人生が、豊かになり合っていく、心育つ人生が・・・。(60代男性)
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身近な人と心通い合っていますか?

夫婦で、親子で、会社の仲間と、心通じ合いたいと、話し始めて、
話し合えば話し合うほどに仲が悪くなった経験はありませんか?
「話し合う」、一番の要は、「聴く」ということでしょうか。
そして、聴く対象が、その話の内容もありますが、「人を聴く」に鍵がありそうです。
5月「人を聴くためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。

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相手の心を聴こうとはするけれど、なぜ、それがうまく出来ないのかを調べた。
「言葉」というものは概念だと言っているが、実際にはそのことを理解していなかったんだなということが分かってきた。
現れた表現・言葉ではなくて、その前のその人の心の状態、言葉に現れたその人の背景に関心を傾けることが、より一層明らかになってきた感じだ。私が相手の言葉をどのように捉えているか、どのように見ているかを認識することがものすごく重要なんだなということを感じた。
そこからすべてが始まると言ってもいいだろうか?

また、「聴くこと」と「やること」がぴったりとくっついていて、相手の話を聴きながら、すぐに、「私がするのか、しないのか。」「出来るのか、出来ないのか。」と考えているのだな、と見えてきた。
相手の言葉を先ず聴くことよりも、私の側からどのようにするべきかを考えていた。
だから相手の話がよく聴けないのだ。

「人を聴くことは、その人の世界に入っていくこと。」という言葉が印象的だ。
相手の話をいくら聴いたとしても、それは私の世界で、私が認識した範囲内であって、その外では認識することが出来ないこと。
それでも本当に相手の心を聴こうとしたら、本当に既存の私の世界を超えて、相手の世界に入って心を聴いていきたいものだ。
そしてそんな風に聴いていこうとする心、関心が、結局は、私の世界も、より一層広げて、豊かなものへとなっていくのだろうと思う。(30代男性)

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相手へ相手へといく「聴く」と、「やる」(自分の中のこと)
方向性違うのに「聴く」即「やる」になりようがない。
また、相手に向かうことにより、自分の考え、思いみたいなものが薄れていく様な気がする。

自分が捉えていることを言っている。そのことを言ってない。
相手もその人が捉えたことを言っている。そのことを言ってない。

この辺の所がはっきりすれば、たとえ混乱しても元に戻れると思う。
そして、自ずと、お互い、相手に気持ちが向かうと思う。(60代男性)
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自分を知り 人と社会を学ぶ アズワンセミナー

5月の連休(5/2~7)に「アズワンセミナー」開催しました。
社会の基本である”人と人の繋がり”を知る5泊6日です。
参加した人の感想の一部を紹介します。

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みんなと共に、ひたすら探究するという事を繰り返す生活に身をおくと、「こんなにも自分の中での思い込みが、当然のように自分を支配しているのか!!」と驚きの連続でした。(30代男性)

特に全過程を通して感じたことは、【言葉】はかなり不確定なものであるということ。夫婦でも言葉にまつわる喧嘩が多々ありますが、解決策は【言葉】の根本的な認識のところにあったのだと分かりました(解決しないはずですね)。
初め苦痛で仕方がなかった探究中の沈黙も、なぜ苦痛なのか?と考えると自分の癖が見えてきました。
「この時間がもったいない」という時間にせっかちであること。
「もっとこうして進行してくれたら‥」という他力本願な思考癖。
「ここに来たら何か得られる、自分は変われる」という受動的な考え方。
客観的に見たらなんて小さな人間なのだろうと思うのに、それが実際の自分なのだと思うと、自分のことは意外と知らないものだと気づきます。
(30代女性)

6日間終えてみて、じんわり何かが伝わって来て、やり方は驚きの連続でしたが、伝わってきたものは、忘れていた何か、大切な何か、自分の中にもともとある何かであると思います。
言っても言わなくても、聞いても聞かなくてもよいとか、“自分はどうしたいのか”という問いにしても、はじめは驚いたのですが、その人らしく主体的に生きることを大切にしていたら、当たり前のことであり、それを失ってしまったことに逆に驚きました。(50代女性)

参加してみて想像していたのとは全く違い、どんどんリラックスして話しやすくなっていく事に驚いた。
これまでの日常の相談、打合せでは短時間で結論を出すために、自分と異なる考えを十分に聞かなかったり、強引に話をまとめるために、ずいぶんと無理のある方法で、ストレスを感じながら行っていたように思う。
「自分について」は、きっとたくさんのきめつけがあると思う。外していくとどんな自分が出てくるのか楽しみだ。
「幸せ」とは、自分一人の幸せではなく、周囲を含めた幸せであり、つきつめていけば、世界中の人々の幸せであるということが、みんなの話し合いの中でしっくりときた。(50代男性)

周囲の人達と生きてきたこの世界は、自分がつくり出しているものであるという、感覚を持つことができて、自分の思い込みやキメツケがなんと多いことかと、愕然とする一方、新しい世界が開けたような気がしている。
これから、周囲の人に対してすごく親しみを感じられる気がしたし、実は「私」と「あなた」の境目はすごくあいまいなもので、まさに世界が一つであるかのような(As onc)、互いに家族であるかのような争いのない社会を創り出すことができる可能性を感じることができた。
自分にとっての「家族」はどんなイメージだろう。
自分にとっては温かい、利害とは無縁な関係性、そのような関りを思いだした瞬間、熱いものが込み上げてきた。
家族じゃなくても、そんな関りがある気がした。(30代男性)

私の中にはまだまだ気づいていないたくさんの囚われがあるのだと思います。でも今、このセミナーを終えたばかりの私であれば、わが子に対しても、「あなたはどうしたいの?」と、本心から尋ねることができるような気がします。
そして同じ物事に対しても、私はこう思うけれど、子どもたちはどう思うのかを知りたい。
日常に戻ったら、気づかぬうちにマイフィルターをかけて物事を見てしまうのかもしれませんが、このセミナーで学んだことを思い出して、少しずつでも自分を探究し、本心でつながる人と人との関係というものをこれからも体感していきたいなと思っています。
一人一人の主体性が尊重され、人と人とがともに助けあい安心して楽しく暮らせる世界――。
アズワンセミナーを受けてみて、漠然とこれまで私が描いてきた「平和な世界」は絵空事ではなく、実現可能だと実感できるようになりました。
わが子を含め、今を生きる世界のすべての子どもたちにそんな世界を贈りたい――。
たくさんの仲間がいたら、結構早くに実現できるかもしれませんね。
そんな世界になることを心から楽しみにしています。(40代女性)
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素直な自分に出会う~内観コース

今日から、6泊7日で、内観コース始まりました。
「内観コース」は、自分の人生にじっくり向き合い、「自分で自分を観る」機会です。
その中で自分を客観的に観察する力が養われていきます。
客観的に自分を観ることができてこそ、本当の自分を知ることも出来るようになっていくのでしょう。
3月「内観コース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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終盤になって、より具体的な場面を思い出し、その時の自分を見る。が、どうしても「あんなことしてしまった」「もう取り返せない」「悪いことをしてしまった」とドンドン反省する気持ちが出くる。面接でそのことを言ったら、「『悪いことをした』っていう気持ちをそのまま見るっていうか、認めるというか・・・」それを聞いた直後、僕の心がようやく長年の重圧というのか、突き刺さっていた棘がスッと抜けた。どういう作用か判然としないが、今まで自分の心を「悪いことをした」という思いで、固くしていた。閉ざしていた。それが一気に溶けて、開いた。
言葉にするとなんか物足りないけど、自分でもびっくりするような作用が心の中で起きた感じがする。
頭を使って唯々思い出すことだけをやってきたが、気が付くと心が穏やかになっている。
そんな一週間でした。(50代男性)

最初、内観は親などにトラウマを持っている人にとっては、いいかもしれないが、私のようにどちらかというと何不自由なく普通に暮らしてきた自分にはあまり必要ないかな、とも思っていた。
でも、内観をしてみて、「当たり前」の呪縛から外れてみえた、「何不自由なく」という言葉がまるで魔法のような、奇蹟に感じられ、どれだけ今の自分が両親や夫、友達などの多くのサポートによって、生かせれているのか、実感されて、有難く有難く、涙が溢れてくる。
母がどれだけ、自分に対してしてきてくれたことを改めて実感でき、まだ、母が生きているうちに内観が出来て本当に良かったと思う。(50代女性)

私という存在は、本当にたくさんの助けの中で育てられてきたんだなあ、と見えてきました。
子供の頃、両親と祖母の世話の中で、愛をたっぷりと受けて成長してきたんだな、と感じます。
生まれたときからおむつを何千回取り替えてくれたのか、ご飯も 数万回作って食べさせてもらい、洗濯も数千回して干し、私が着られるように準備してくれたのに、あまりにも当たり前に受け取っていたなと見えてきました。
このような部分に対しては、知っていると思っていたけどよく知らないでいたなと、知ることになりました。
母に対してを内観してみると、小学校の時で、雨が降る日の下校時、他の家の子供たちは、お母さんが傘を持って迎えに来るけど、私の母は来ないなと、雨に濡れて歩いて帰る、自分の姿を思い出しました。
その当時、母は教師の仕事をしていました。そのようなことがしばしばあり、私は、母はこのような事に関心があまり無いように思っていました。こんなに準備を色々としてくれたのに、関心の無い母親だと考えていました。
そんな、雨にちょっと濡れるくらい大きなことでもないと忘れていたようなことであったけど、今回よくよく考えてみると、私の母もこの時私を迎えに来たくなかったのか?雨が降る日、学校に居ながら、傘をさして帰っていく学生達を見ながら、自分の子供はどのように家に帰っているのだろうかと考えていなかったのか?と考えると涙が出ました。母はいつも私のことを思っていたのに、私は私のことに無関心な母だと思っていたんだな、と見えてきました。(30代男性)
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