素直な自分に出会う~内観コース

今日から、6泊7日で、内観コース始まりました。
「内観コース」は、自分の人生にじっくり向き合い、「自分で自分を観る」機会です。
その中で自分を客観的に観察する力が養われていきます。
客観的に自分を観ることができてこそ、本当の自分を知ることも出来るようになっていくのでしょう。
3月「内観コース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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終盤になって、より具体的な場面を思い出し、その時の自分を見る。が、どうしても「あんなことしてしまった」「もう取り返せない」「悪いことをしてしまった」とドンドン反省する気持ちが出くる。面接でそのことを言ったら、「『悪いことをした』っていう気持ちをそのまま見るっていうか、認めるというか・・・」それを聞いた直後、僕の心がようやく長年の重圧というのか、突き刺さっていた棘がスッと抜けた。どういう作用か判然としないが、今まで自分の心を「悪いことをした」という思いで、固くしていた。閉ざしていた。それが一気に溶けて、開いた。
言葉にするとなんか物足りないけど、自分でもびっくりするような作用が心の中で起きた感じがする。
頭を使って唯々思い出すことだけをやってきたが、気が付くと心が穏やかになっている。
そんな一週間でした。(50代男性)

最初、内観は親などにトラウマを持っている人にとっては、いいかもしれないが、私のようにどちらかというと何不自由なく普通に暮らしてきた自分にはあまり必要ないかな、とも思っていた。
でも、内観をしてみて、「当たり前」の呪縛から外れてみえた、「何不自由なく」という言葉がまるで魔法のような、奇蹟に感じられ、どれだけ今の自分が両親や夫、友達などの多くのサポートによって、生かせれているのか、実感されて、有難く有難く、涙が溢れてくる。
母がどれだけ、自分に対してしてきてくれたことを改めて実感でき、まだ、母が生きているうちに内観が出来て本当に良かったと思う。(50代女性)

私という存在は、本当にたくさんの助けの中で育てられてきたんだなあ、と見えてきました。
子供の頃、両親と祖母の世話の中で、愛をたっぷりと受けて成長してきたんだな、と感じます。
生まれたときからおむつを何千回取り替えてくれたのか、ご飯も 数万回作って食べさせてもらい、洗濯も数千回して干し、私が着られるように準備してくれたのに、あまりにも当たり前に受け取っていたなと見えてきました。
このような部分に対しては、知っていると思っていたけどよく知らないでいたなと、知ることになりました。
母に対してを内観してみると、小学校の時で、雨が降る日の下校時、他の家の子供たちは、お母さんが傘を持って迎えに来るけど、私の母は来ないなと、雨に濡れて歩いて帰る、自分の姿を思い出しました。
その当時、母は教師の仕事をしていました。そのようなことがしばしばあり、私は、母はこのような事に関心があまり無いように思っていました。こんなに準備を色々としてくれたのに、関心の無い母親だと考えていました。
そんな、雨にちょっと濡れるくらい大きなことでもないと忘れていたようなことであったけど、今回よくよく考えてみると、私の母もこの時私を迎えに来たくなかったのか?雨が降る日、学校に居ながら、傘をさして帰っていく学生達を見ながら、自分の子供はどのように家に帰っているのだろうかと考えていなかったのか?と考えると涙が出ました。母はいつも私のことを思っていたのに、私は私のことに無関心な母だと思っていたんだな、と見えてきました。(30代男性)
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人と社会 どうなっているのだろう?

「みんなが幸せに生きられる社会。」だれでもが願っていることでしょうが、
そもそも「社会」とは、どういうものでしょうか?
3月「社会を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。

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「人と人」を「個人と個人」という観方で観るのが強かったのかも。
それで、行き詰っていたところに、今回、「社会」という視点で見てきて、目から鱗だった。
自分の中の「社会」というもののイメージが、がらりと変わった。
今までは、社会は大きく上にあり、力があり、個人は下で社会に従わねばならない。
そんな感じだったのが、社会は人人人、人がいる。
一人一人に自由意志があり、社会は、そのベースとなって、人が人らしく生きるのを支えていく。
そこから、人(誰か)の中のやりたい気持ちが寄って、社会的な仕組みや機関ができていく。
これらは人(私)の一部であるし、人(私)も社会の一部。
対になることは、ありえない。(50代女性)

社会と人は、別なものと、捉えていたが、人は、大きな社会の中に抱かれて。。。
社会と人と、別けようもなく、一つだった。
初めて自分が溶けていった、離れようのないもの、そのゼロベースで、大きな転換点だった。 社会と人 →「一つ」(70代女性)

「権利・義務、責任、所有」
- 私たちの意識を支配している今の社会の根幹について、これでもかこれでもか、と見てきた。
上下で、力で、一人一人を分断し囲おうとするこれらが、いかに私たちの内面の奥深くまで浸透しているかを実感した。
なぜ私はこう考えるんだろう?こう思うんだろう?こう感じるのだろう?と、自分の考えや思いや感じを剥いでその奥を探っていくと、その奥底、足元にある流れが見えてきた。
その目を周りに向けると、その流れは周りの人たちの足元にも流れていて、それは世界中の人とつながるひとつの流れになっている。
もともと人と人はこの流れでつながっている。(60代女性)

自分や社会を縛っているもの、人間の作り出した考え(責任、権利、義務、所有、悪平等など)とはどういうものなのかとゆっくり考えられた。
それがあると架空の世界を実際のようにし、人の姿が見えてこない。
自分はなにで動いているのだろうか? まわりの人はなにで動いているのだろうか?  なにを願っているのか、もっと知っていきたくなる。
なにか私の中で動き出している。(60代女性)

“子どもが子どもらしく”だけではなく、子どもも・大人も“人が人らしく”成長していくための社会。
権利や義務、責任、所有から開放されて、自分も、人も、社会も縛る事のない、自発的な自由意志で調和され、保ち合う社会。すでに実現していたんだなあ。 
日常から「本心はどうかな?」「どういう状態だったかな?」と観察していきたいし、そういう風に成長し合える間柄(社会)にしたいなぁ、と思う。(20代女性)
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ほんとうは、どうなんだろう?

自らの知性で、私の心を訪ねてみよう。
3/18~6日間、アズワンセミナー開催しました。
参加した人の感想の一部を紹介します。

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素朴だけど、生きていく上で向き合わざるをえないテーマのひとつひとつと、じっくり時間をかけて取り組むこと、さらには全国各地から集まった方たちの話を聞くこと。
こういう場でなければ、中々出来ない体験でした。(40代男性)

実際にセミナーの中でみんなで考察していくと、他の人の考えから違う気付きがあるし、角度を変えた問いからも新しい視点が生まれ、予想が覆されました。
新しい気付き・考え方が自分に生まれると、とてもワクワクします。その視点で次のテーマに取り組むのがまた面白く、毎日今日は何のテーマだろう?と楽しみでした。(40代女性)

これまで、仕事をしてきた中で、とても感じていた苦しさや、意味のなさ。
それは、なんなのか、ここで分かった。
それは、計画、こうすべきという枠、多くの常識の中のすり合わせに、無理して押し込めようと強いたことだった。
結果に向けた考えや行動を求めていた自分。 順序が逆だったのだ。
「ホントのホントの本心」から始まる、これらの世界。
心から楽しみである。(40代女性)

お金、戦争、エネルギー、資源の関係を突き詰めていくと,結局は心のあり方に行き着きます。
平和に生きるための理想や手法は巷に溢れていますし、個人として上手くいっている人やグループは知っていますが、世界のコミュニティで上手くいっているように、感じたことがありませんでした。
その原因は共通して人間関係だと分かりました。

やっぱりどこまでいっても、始点は自分。 終点も自分。
世界がうまくいくことを、どうしても諦められないのも私。
ゼロに立ち戻る身軽さと好奇心を意図しつつ、できない時の自分を愛しみつつ、探究を続けます。
一人じゃないって、本当に安心で嬉しいものですね。(50代女性)

いい、悪い、やる、やらない、こうすべき、こうあるべき・・・
日常はそんな私の価値観であふれています。
「目の前にあること、起きていること」と「私の中で起きていること」の区別がついていないということに気付けない。
だから相手のせいだ、いや私のせいだ、あっちだ、こっちだ、と白黒つけることが目的のようにも感じられ、気づけば自分も周りの人もいつも怒ったり、泣いたり、対立したりの繰り返しです。
本当の自分の気持ち、今ある思いや感情の背景にある何か、なんて調べる余裕がない日々でした。
コップのワークの時に感じたあの温かいつながりの感覚。
あれが私のほんとのほんとに感じたいものなんだと今は思っています。
あんな温かい感覚を誰かと分かち合いながら暮らせたら、それが私の幸せな状態なんだと思っています。
私の平和のイメージそのものなんだと思います。
それはどこか別の場所で知らない誰かと始めるものではなくて、今ある関係の中で、自分の中と外を丁寧に見つめて育んでいきたい、それが正直な思いです。
私の喜びは相手の喜びで、私とまわりの境界なんて意識がなくなって、私が心からやりたいと思ったことが誰かの幸せにつながったらいいな。
その幸せが波紋のように広がっていった先に争いや対立のない世界があるといいな。
これこそが子どもたち、先の世代への贈り物であったらいいな。(40代女性)
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私は何を望んでいるのだろう?

2月22日から一週間「人生を知るためのコース」が開催されました。
韓国からの参加もありました。
「人とはなにか?」 「人の一生とはどういうものか?」
今までの自分の人生を振り返りながら、じっくりと根本から、「人生」を問う機会です。
参加した人の感想の一部を紹介します。

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数多くの経験を通じて、私の気持ちを総合して'私はこれがしたいのか?'と見るより、「私は何を望んでいるのか?」「私が持っている心はどうなのか?」と直接見て理解すれば、現象に現れた感情はその元から現れたことなんだというのを知ることが出来そうだ。
私の本心はどうかを見つめながら、感情、気持ちの根源をたどって行くと暖かくて平穏な、ある原初的な感じがある。
何か認識や感情がねじれて苦しみが起こる。
親しく過ごしたい本心が歪曲されて人と距離を置いたり、何か不足感を感じて満たそうとしたり、本来の心に焦点を合わせないと、満されたとしても、虚しい満足感や安心感が繰り返されるのではないか? 安心する満足するためには、本質的に私は何を望んでいるか、を知っていくことだ。 (30代男性)

これまで、心を大切にするということは、良い感情を持つことだ、と理解していたため、考えで感情を良いように変えようとする努力を長くやってきた。
しかし、人間として持って生まれた安心や満足に対する本能のような欲求は考えで変えられるものではないんだ。
その声に耳を傾けて過ごしたら敢えて考えで感情を変える必要もないんだ。
心に焦点を合わせて生きていけば、人の言葉や行動や現在の気持ちの状態よりもその人の心がどうか、不安ならどうすれば安心と満足の状態に進むことができるかについて調べるようになるんだ。
私たちはみんな同じことを追求する存在なんだ。
心が何か?よく解ってないが、安心と満足を追求する深いところの私がいるということに気づくだけでも人生が転換されるような大きな変化が感じられた。(30代男性)

心が汚れているとか、暗いとかあるが、本当に心が汚れているのか?
汚れが付いているだけで、心自体は汚れたり暗くなったりするものではない。
本来の心、色々な考えで見えにくくなっているが、それはいつでも変わらなく、人なら持っているものだと思う。どんなに現れたものがひどいものでも犯罪をした人でも、本来の心の方に目を向けてくれる人と話ができたら、救われる思いがするのではないだろうか。本当の自分を見てくれると感じるのではないか。(20代男性)

今私の中で願っている「何か」を深く探ってみた。
驚いたことに、「私を見て、私とあそぼうよ。」という幼い子供のような気持ちが見えた。
一緒にいた人たちに素直に表現してみて、何か変化が感じられた。
清々しさ、軽さ、満足感。
長い間、考えで、見ないように生きてきたんだなあ。
心をさらけ出してみるとより満足できるんだなあ。
こんな風に心をありのままにさらけ出して生きていきたいものだ。
私も私の周りの人たちと心ゆくまで共に生きていきたいという気持ちが強く湧き上がってきた。(30代女性)

「成り立ちを知る。」今までも頭では、そう思っていたが、自分の育ちをふりかえったり、今ここにいる自分を見たりして、「成り立ちを知る、その育景を知る」ことが大事。
人が生きるというのは、生れて、まわり(人・社会・自然などなど)をすべて受けて、形成されてるぐらい大きいと思った。
人が、人らしく(本心で)生きられるのは、どういう社会かというのが、もっと知りたくなった。(60代女性)
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