私は、「自分」について、知ろうとしているだろうか?

日ごろ、人や物事について、「もう知っている、もう分かった」としていることが、ずいぶんあるように思います。
情報や、自分の体験から、「こういう物」「こういう出来事」「こういう人」など、「知った」つもりになることがあるでしょう。
もしも、「そのことについては、もう分かった」としてしまったら、それ以上は、進まない、理解し合えないのではないでしょうか?
6月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想レポートを紹介します。


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自分がいかに「自分」というものを決めつけているか、そして自分から見ている世界をも決めつけているか、そのことがコースを終えて一晩明けてひしひしと感じられるようになってきた。
自分自身で作り上げた舞台の上で、自分で作った台本を読んで、自分は劇を演じていることを忘れて、自作の舞台を世界そのものと勘違いしていなかったか。
今回は、自分を知ることをいかに自分が疎かにしているか、に気付くようなコースだった。
自分のやっていたことにただボウゼンとしているが、今の地点から世界を見つめ直したら自分は何を見ることが出来るだろうか楽しみに思う自分もいる。
今回のコースは自分を知る「ための」コースであり、ここを出発点として、これからどう再出発できるか自分なりに試行錯誤していきたい。(20代男性)

これまで感覚ということを、五感で感じたり、身体感覚で感じたりするものとしていました。そういえば、あの人の生活感覚はどうなっているのだろうとか、あの人はセンスが良い悪いなど、ものの形状だけでなく、人の行動の様子まで、良い悪いと判断をしていたことを、自分の感覚でやっていることだと、はっきりと自覚していませんでした。
その人はその人の感覚でやっていることであり、それを見たり聞いたりして、私は自分の感覚で捉えたことを元にして判断していることを、他人事にしていたようなものです。(70代男性)

別に自分を知らなくても、知らなければならないこともない。
ただ、思ったことは、でも、まだ僕は、そんな自分とこれからもずーと一緒で、この人生を生きていくということだ。そして、もっとも、自分に近い一番身近な存在でもある。
その自分を通して、実際の自分を知りたいし、そしてその自分を通して、この世界や人を見ているし、その実際を知りたいと思っている。
そう思うと、本当にそんな自分を「大事にしてあげたい」と思った。
「自分を大事にしたい」、初めて思ったかもしれない。
もちろん、なんやかんや、自分のやりたいことをして自分優先して生きてきた自分だが、はたして、自分自身を、じっくり、ゆっくりとみつめて大事にしてきたか、どうか、というと、ずいぶん、乱暴にし、ムチを打って、強いて、責めて、苦しめて、無理くりに生きさせてきたような気がする。乱雑だったな。
たぶん、人に対して、同じようにしてきたんだろうな。
その自分の実際にふーっと目をやると、両親の愛情を受け、世話になり、また多くの人たちに世話になり、一人ひとりの大切なものを注がれて生きてきたことに目が向いた。
ほんとうに自分の存在って、大事なんだ、かけがえのないものなんだなー(50代男性)
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「社会」、何のためにあるのだろう?

そもそも「社会」とは、なんでしょう?
「社会」は何のために作るのでしょう?
「社会」は、人にとって重要、大事だとは思っていても、「社会」とは?と問われると、あまりにも知らないということに気づきます。まずは、自分の社会観を調べてみませんか?
そして、ほんとうに願っている「社会」は、どんな社会でしょうか?
5月「社会を知るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。

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「するべきこと」「してはいけないこと」というのは本来あるのだろうか?
実際は何もないよなあ。
責任、権利、義務というものも本来は無いよなあ。権利を主張し、権利を持てば自由が増すかのように感じるが、権利と義務はコインの両面のようにぴったりとくっついているようだ。権利が増えればその分、私やあるいは他人がしなければならない義務が増えるんだなということを調べながら、権利を主張する活動等が、実際は互いに不自由な方向に行ってるんだな、ということが見えてきた。
「社会は何もしなくてもよい」というポイントで、社会が新しく見え、新しい社会を作るんだと思う。
いつからか個人も社会もあるのが当然となってしまい、そんな風に世界を見ているのだなということが見えてきた。
何もしなくてもよい社会であるのに、いろんなことをしてくれている。そんな風に見るにつけ、有難いことばかりだなあと思う。してもらい、受けてばかりだ。

人の内面、心の状態に関心を持ち、その心が満たされて成長できるように支援する社会。
個人がそのようにするのではなく、社会が一人の心と一つになっていこうという社会。
それで、その人らしく発揮できる社会というのがあるんだなあ。
社会から、心が満たされて、その満たされた心で、個人が自分らしく成長、発揮され、それが再び社会に流れるような社会。(30代男性)

現状では、社会のために人は作られている。
子供のころから「こうするべき」を教え込んで、権利義務や所有観念が染み込んでいく。
そして、互いに押し付けたり、やらせたり、責めたり、縛り合う。
でも実際の世界は「なにもしなくてもよい」
権利義務、所有も責任もそこには存在していない。
これがベース。
ここから生まれてくるのは本心。
「やりたい。」「やってほしい。」人の要求。
そこから見た社会があるんだ。
社会は人をサポート、応援することだけ。 経済をサポートすることでない。 
経済の成長ではなく人の成長。 
本当に人の心が満たされる社会。 
仕組みや機関はその結果で、出来てくる。 
力が抜けた。
社会がどんどんそういうふうに人をサポートしていったら、想像つかない社会ができてしまう。
どこを、重視するかだね。 
“社会をツクル”は簡単でシンプルに見えてくる。
「何もしなくてもいい」から、心オープンで話したい、ミーティングしたいな~。(50代男性)
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人として

人が人として生まれ、人として、その人らしく生きる。
そもそも「人」とは、どういう生き物か?
「人が生きる」とは、どういうことでしょう?
5月「人生を知るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。

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人の自分の行為言動の現れの前に 意識上の自分の思いや、考え意思・感情・欲求・気持ちがある。
そこを紐解く?と本心にたどり着くらしい。
言動だけ見るとわけが分からなく、みんな違って、どうやっても争ってしまうように思う。
何を言っているのか、何をしたかったのか、内面を見ようとする。 
行為言動の良し悪しではなく、重要なのは、内面。
弟と言い争った事が印象に残る。
何を言おうとしていたのだろう。
思いに気づく、してほしい中身は、弟の人間性を表していた。
人の、自分の本来性は、満たされ、人と人との繋がり、社会の中で、豊かに、多様に、繋がって、受け継がれていく。
実際の世界、自分の成り立ち、自分が何者か、人が何から出来ているか見ていくと、そのまま、実際に近い形を好むように思う。(20代男性)

悪い事しそうな○○さん、私の見方に悪い人というレッテルを貼っている姿を思った、悪い人を事実にしている感じである、私の中にその人の距離感が発生してくる、隔てが出来ている。
その人の内面・心に、目を向けていくと、「気持ちは?」と、レッテルが剥がれだす。
何を願っての行為・行動なのか? もっと深く、その人の心底は?と、見ようとして見ていくと、広がりと深みをもって見えてくる。レッテルを貼った薄っぺらい自分の癖が遠のいていく。
人は、社会の中で生まれ、愛情を受けて満たされて育っていく。
人の中で安心を得、聴いてもらえる・受け止めてもらえる、人の心に満たされて、知る能力を育てながら、成り立ちを知り、事実・実際の豊かさを感じ満足し、自らの内に湧いてくる欲求によって動き、人によって欲求を叶えてもらえる嬉しさを知り、人の欲求に応える喜びを倍加させながら、人と人の中で人と共に、幸せに成り合っていく・・・人生。
人の心は元来優しい、奥底に愛しむ心が見えてくる、豊かな心の人生が、豊かになり合っていく、心育つ人生が・・・。(60代男性)
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