見て聞いて、何が起きているのだろう?

日々、何かを見て、思い、何かを聞いて、思い、といろいろな気持ちや考えが浮かび、「ああしよう」、「こうしよう」と、何か判断して暮らしています。その判断のモノサシは、人それぞれだと思いますが、では、自分は、どんなモノサシを持っているのでしょう?
あれ、自分の? モノサシ? そんなの持ってる?
どうでしょう?「自分を知るためのコース」では、まず、見たり、聞いたりした、その時、その時、自分のなかに何が起きているのか、自分の内面を観察することから、始まります。
11月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想を紹介します。




その都度その都度、どのように見て、聞いて、反応しているのかを観察した時に、すべて自分の中に起きていることに驚いた。相手がそう思っている言っているとか、そうに違いないなど…自分の頭の中にある“超高速決めつけマシーン”が作動してアウトプットしている。笑えるなぁ~
普段、なかなかひとりで自分を見ることは出来ないが、今回参加した仲間の話を聞くとこによって、たくさんの気づきがあり良かった。
自分を知るためには、
・自分に向き合って見る
・いろんな事柄の紐を解いていく
簡単に行かないとは思うが、探求して見ようと思った。そしたら、自分が背負っているもの剥がれ、自分自身が自由になって行く道筋が出来、自分のやりたいことが見えていくように思える。
『実際の自分』とは何か? それは、心の奥底に秘めているように思えた。
まずは、知らない(自分自身)ことから始めよう!!
やってみよう!!(40代男性)

日常では見たこと、聞いたことなど、そのままの反応が事実・実際ときめつけている。
どれだけ、きめつけの多いことか。
いつまでたっても、事実・実際の正体がつかめないもどかしさ、
答えがすぐ欲しいと思っている自分。
答えがないと安心できない自分。
だから、そのままの反応を事実としてしまう。
そんな中で興味深かったのは、
失敗したときは、それがきめつけているからだとわかるけど、うまくいっていると、きめつけていることすら気が付かついていないという発見。
それから、普通なら人は年を重ねていくと、経験・知識が増えた分、思慮深い、寛大な人間になっていくはずなのに、なぜか頑固な年寄りになってしまうことの方が多い。
その分かれ道はどうしてなのか。
もちろん、経験や知識が増えることはとても大切なことだけど、それが「きめつけ」となっていく分だけ、人はか頑なになっていくんだなと。
自分を知るためには、インプットした<事実・実際>を自分のBB(ブラックボックス)(知識や経験などのデータベース)で変換して、アウトプットされた反応を<事実・実際>としないで、自分の認識として自覚しているのか、また、それを単に知識としてじゃなくて、ちゃんとそれを日常で使えるようになっていくのかが大切なんだと思う。
てなことを考え続けた、一週間だったなぁ~(50代 女性)
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どの人も自由にしたら社会はどうなる?

「社会」と聞いたら、どんなイメージが湧きますか?
「私と社会の関係は?」と、問うと、どうでしょう?
「社会」というと、自分の外に目が向いて、「そこはどうなっているのだろう?」と、自分とは、別の対象をイメージすることが多いかもしれませんが、先ず「自分というものをどんなふうに捉えているんだろう?」と、自分の内で起きていることを観察することから始めてみると、私の社会観が、見えてきます。そして・・・
そのプロセスから、「社会」を調べ、創造すると、今まで、知らなかった社会の姿が現れてくるかもしれません。
今回は、9/27~開催した「社会を知るためのコース」に参加した人の感想レポートを紹介します。


「どの人も自由にしたら社会はどうなるだろう?」の問いかけに、どの人も自由になったら活動的に、活き活きする、楽しそう、など、イメージが出てくる。
もしこの問いが、10年くらい前だったら、自由?それは良いけど、そんなことしたら、仕事をやりたくない人が出てきたらどうなるの?
社会は機能していかないんじゃないかという不安で、理想だけど、無理とあきらめの考えしか浮かんでこなかったと思う。
今は、メチャクチャにはならないだろうというイメージは湧いてくるけれど、本当に私の中はどうなっているのかから、コースは始まった。
具体的に一つ一つ検らべていく中で、自分の日常生活では、しっかりとしなければいけないこと、やって当然と<やることがある>となっている心の状態が見えてきた。
そこから、私が自分自身へ、他の人へ、強いている姿がいっぱい出てきた。
<責める>
責めて当然、責められる側が悪いとなっている。どうして、悪い?やることをやっていない=義務を怠っている=義務(やらねばならないこと)をしなければ責められて当然。責める権利がある。こういう論理で、当然として人を責める。
<約束等>
まわりの人を責めて、気分が良い人がいるだろうか?でも、やめられない。道徳観を持って来て、自分を諫めようとするけど、スッキリしない。
自分の中に<やること><やらなければいけないこと>がある、という観念から解放されなければ、責めることから解放されない。
<やること>は、どこにあるのか?それは頭の中で、実際ではないと口では言うけど、この<やること>がある、という頑固な観念が自他を支配している。
<権利、義務>
<やらなければならないこと>が、自分の中で、少しでもあれば、権利、義務が生じる。権利、義務が生じれば、上下、主従の関係が出てくる。
権利があるとなると、その物を自由にできる。人も自由にできる。強制することができる。自分の中で、まわりの人を所有して、強制して、力でやらせようとしている実態に全く気付いていない。権利を主張すれば、必ず義務も生まれ、自分にも役割を強いる。お互いに強いる関係でどこまでいっても自由にはなり得ない。

今回いろいろ検討してきて、自分も人も何もしなくてよい。社会も何もしなくてよい。というベースが、自分のなかにないと、何をやっても、縛り、強制し、力関係でやろうとする。いくら人の内面(心)が大切だと頭でわかっていても、重視できないのは、この辺に鍵があるのかな?会話をしていても、「~やりたい。」「~やりたくない。」と聞くと、やりたい、やりたくないことが、その人の心としている。行動=心として、心を尊重することは、行動をやってもらうことと、どこまでいっても、そこから離れない。
内面とは、その人の言葉、行動に表れる欲求が出てくる前の、内、底にあるもの。そこを尊重しているのか?聞いた内容をやったら尊重しているという錯覚から、人と会話をしていても、やるべきか、やらないのが良いかと、生身の人と接していても、自分の頭の中と会話している。やるがどこまでいっても離れないので、自分の許容範囲の中ではホッとして、それを越えたら困ったり、拒否しようとしている。
まず、その人の心に、応えていこうとする。そういう心と心のやりとりでこそ、初めて、検討できるのではないか。
自他の心を受けとめないから、外の考え、あり方などを持ってきて、自他を裁き、動かそうとしている。


今の仕事は、私の、自分の内なる欲求で動いているように思う。
それぞれの人が、自分に向き合い自分の中にあるもので、生きていってほしい。特に若い人達をみていてそう思う。
でも、いくら、私の内面から出てくる純粋な願いであったとしても、実際の運営を外のもの(権利、義務などの考え方、他)でやろうとしたら、心のない形だけの行為、不純なものになってしまう。このあたりのことを、職場で、もっと検討していきたい。

社会を知るためのコースを通して、内面を重視しようとしてもできないあたりがどの辺か、少し解明できた。
個人のテーマとして、何とかしようとしても、それだけではできない、社会のテーマでもある。
個人のテーマ=社会のテーマで、個と社会が協力し合って、人として、幸福な暮らしが営まれると思う。
コミュニティが、人が増えても、個人の小さな意見を尊重し、検討し、多いに要求し合い、心豊かな社会が造れる道筋が、まだ、私の理解では浅いと思うが、見えてきたように思う。
(50代女性)
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