自由なお互いで、話し合えるようになるには、・・・ 

相手のことを理解しながら話し合いたいと思っていても、ままならないこともありますね。
そんな時、どこを考え、見ていけばいいのでしょうね?
「自分を知るためのコース」に参加した人のレポートが参考になるかもしれません。

自分を知るためのコース 9/5~12
初日、「自分のことを観察しよう」というのが最初に提示された大きなテーマ。
「考えないで、観察するんだよ」と言われても、考えることと観察することの区別がつかない自分がいた。
頭の中の近況は?と、問われると、「いつもいろんなことを考えているなあ。何となくせわしげだなあ。」と、自分の状態が出てくる。具体像が見えてこなかった。「何をしにここに来たのか?」と問われれば、目的や意図に意識が向いている。ただシンプルに自分の行動に意識がいかないのは、なぜだろう?と思っていた。この日出された「自分の感覚は正しい!と思っていないか」という問いにも「思っているよ!それが自分の自信につながっているから今までやってこれたし・・・」とかいう答えがすぐに頭の中に浮かんできた。

二日目は、「自分の感覚は正しいと思っていないか」について調べていった。
カップの特徴やペンの色のワークをしていく中で、知覚したものをずいぶんと自分なりのとらえ方で認識していることに気づいていった。
目の前にあるペンと私の頭の中でとらえたペンは、同じ物ではない~ということに気づいていくプロセスは、今まで体験したことのない経験だった。
時間は守るもの、お金は払うもの、と決めつけている私の感覚~実はとてもあやふやで不確かなものである、ということを自覚すること。―→ 前日に浮かんできた「私の感覚は正しい」という思いは、私の中から消えていた。

三日目は、「自分の感覚だという自覚があるのだろうか」について調べていった。
スプーンや玉葱のワークをしながら、自分の感覚イコール事実ではない、ということを自分の中におとしていく作業。
3.11の震災の例など感情と結びつくと、「事実でなく記憶」とすっと思えないのはなぜだろう?
事実は自分の中にはない ― 頭で理解しようとすると無理がある。
そのことも出し合いながら調べていくと、だんだんと事実と感覚・記憶が切りはなされてくる。
何だか今までの世界観が反転した感覚 ― この地点に立てたことは、新しいスタート地点に立ったような感じがする。

四日目、ちょっとした場面でも、自分の反応を観察している自分がいた。
言葉が通じないJさんとも、自分がどんな感覚でとらえていたかを出し合うのがとても楽しかった。
INPUT → ??? → OUTPUT
???の中にはりついている自分の観念や思いぐせ、もののとらえ方など様々なループをこれから少しずつでも調べていきたい。
知ると知っているの違い~知っている!と決めつけることで、目の前にある実際に対する見方をどれだけ狭めてきたことだろう!
皆で調べて「ああ、そうかあ!」と納得して食べてみたおかしの味は、とっても新鮮だった!忘れない!

五日目、実際はどうかに関心がいかないのは、何故だろう?私が信じていたのは、私の感覚や記憶。それを確かなもの、ゆるぎないものとするのは、実はとても不確かなこと。ここでもまた、世界観が反転する感じ。

自分の中でおこっていることを自覚していけるようになると、少し冷静になり「実際はどうなんだろう?」と対象や自分を見つめなおすことができるようになる。決めつけることがなくなる。

六日目、ブラジルの3人とも、とても親しみを感じるようになった。
感情を素直に出せるIさんやJさん、P君もとっても素敵!
事実と自分の感覚はちがう、という自覚が芽生えてくると、○○だ!と決めつけない考え方になり、なぜ私はこう思うのか?
この感情はどこからくるのか? 相手の言動をなぜこんな風にとらえるのか? など実際を調べていきたくなる。
決めつけない状態は、やさしくて、安心していて、自由な感じ。

自分を知るということは、自分の感覚でしか捉えてこなかった今までの自分を、決めつけることなく、新たに探究していくこと。囚われのない、自由な私、自由なあなたに成り合っていくこと。もっともっと本質に近づいていくプロセス。これからがとっても楽しみ。
日常にもどって、自分の中におこっていることをどれくらい観ていけるかはわからないけど、出てくる感情も含めて調べていけたらいいなと思っている。
仲間とも、もっと近くなっていきたい!
(50代女性)
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身近な人と、心通じ合っていますか?

「人を聴くためのコース」
「人の話を聴く」というのではなく、「人を聴く」とは、どういうことでしょう?
こんな会話、身に覚えありませんか?
「え~!そんなの聞いてない!」「え~!言ったよ!通じない人ね!」
<通じない>というのは、言葉が通じないという意味ではないですね。
心のうちでは、心通じ合いたいという欲求がありませんか?
ホントは、自分を理解してほしいという気持ちがありませんか?
私は、身近な人、大切な人と、通じ合ってるかなあと、あらためて思いました。

8/30~開催した「人を聴くためのコース」に参加した方の感想です。

「人を聴くためのコース」に参加して
このコース、3度目の参加ですが、前回と今回の間がかなりあいているので感覚的には、初めての参加という感じでした。

奥さんとの事や職場での事など、具体的な自分の実例も軽く出せて、自分の実態も浮き彫りになり、楽しく笑いの中で検討が出来たという感じです。

「言葉というものがどういうものなのか」
「聴くというのは何を聴こうとしているのか」
「聴くが実現しないのは何故なのか」
「聴くが実現したら、人は、社会は、どうなるのか」
一つ一つがとても濃い内容で、若い人達に刺激されながら、じっくりと究明し合っていった。

孫とのやりとりの例や、母と子の例など、子供とのやりとりの例で検らべる事が多かったのも考えやすかった。
子供が相手だと、「自分が問われている」という事が素直に思えるが、相手が大人だと、すぐに見解を言ったり、丸ごと受けないうちに返したりしている。相手が大人であろうと、子供であろうと聴くというのはどこまでいっても聴く側の問題。そこがすっと腹に落ちる。

人には、計り知れない、それぞれの世界がある。
それぞれの心の世界は軽重などなく、すべて対等。
計り知れない心の世界を否定したり、認められなかったりとか出来ようがない事。
まずは、「そうなんだ」と受けとめるだけ。
「そうかー」とただ抱きしめるだけ。
「人」というものが、とても愛おしく思える。
それが今一番の実感です。
もっともっと、いろんな事をやって、検らべて感じたりしたと思うが、言葉にするとこんなところです。
(60代男性)
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「心って何だ?」 学ぶ日々から

「マイライフセミナー」以外に、毎月「自分を知るた めのコース」「内観コース」「人生を知るためのコース」などのコースを開催し ています。
どのコースも、「自分を知り、自分らしく生きる」 ための探究であり、自分を知ることを通して「人間の本質」への探究にも繋がっ ていくことにもなります。
先に進むだけでなく、すごろくのように、以前に参加したコースに戻って、もう 一度見直してみたりできます。
サイエンズ留学というサイエンズを学ぶために、アズワンコミュニティに滞在し ながら、サイエンズスクールに参加するという学びの機会が、今年になって始ま りました。日々の暮らしをしながら、サイエンズを学び、人生や社会のあり方を 探っていく体験です。
ある留学生は、5月以来いくつかのコースに参加してきました。
彼女の8月「人生を知るためのコース」に参加した時の感想レポートを紹介します。

「人生を知るためのコース」感想

今の段階では「心って何だ?」「結局人間性って何のことを指すんだ?」などモヤモヤしているのですが、何となく見えそうで見えない、けれど何かある、という糸口的なものを見つけたような心地です。

キーワードは、「実際の自分」。
これもまだモヤモヤの中。
でも、自分の現れている部分である言動を「自分」だと思っていた。
また逆に人の言動を見て「その人」だと思っていた!!!
それ以外に「その人」がどこにいるんですか?!(怒)と言いたい位、ガッチリ「その人」になっていました。
今もそうなっている感覚がなくなった訳ではないけれど、言動はその人から出たものであって、その人自身ではないんだろうな、という気がしています。
みんなの心(?!)の奥底のようなところに、何だかぽやぽやして柔らかそうで温かな「その人のもと」があるのかな、と想像しています。
(略)
とても興味深かったのは「すべては1つ」。
ツクシみたいに、土から出てる所は別々だけど、土の下では繋がっているというイメージでしょうか。しかも「なずなの根っこは地獄まで続いている」という農家泣かせの野草です(笑)。
原子レベルまでいくと、確かに皆1つです。
川のように身体は形をとどめているけれど、常に何かが入れ替わっています。
そうやって見てみると、とても面白い。元は同じものなのに姿を変え、また存在する場所が違うと名前が変わる。しかも、それは常に動き続け入れ替わっている。これでやっぱり3日位検討してみたいです。

自分がしている日々のことに、今まで本当に無頓着だったんだなぁ、と思います。
何も考えず、言われたこと与えられたことをこなしてきました。自分の声も身体の声もろくに聞かずにきたなとしみじみ感じています。今の若者が「言われたことしかしない」と良く聞きますが、思考停止するような教育、先が見えないような状態では無理もないと思います。安心して、今までの経験を上手く使って「自分」を表現していく。そして、自分も相手も満たされる。そんな社会になったらいいな、と楽しい想像をしています。
まずは、自分を満たすことからしていきたいです。
(40代女性)
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そのものに、初めて出会えた。

8月「自分を知るためのコース」が開催されました。
「自分を知るコース」ではなく、「自分を知るためのコース」です。
<知るため>には、何か準備しておくことがありそうです。
そもそも、<知る>とはどういうことでしょうか?

例えば「自分のことは自分が一番よく知っている」と思っていることがあります。
さて、本当にそうでしょうか?
知っているといっているのは、何を言っているのでしょう?
立ち止まって、自分の内面を観察してみると、新たな発見がありそうです。


自分を知るためのコース 6日間を振り返って
(30代女性)
この6日間の最後に「私の取り残したキュウリ」を題材に見てみました。
キュウリを見た時の記憶をたどると、収穫をしている私の頭の中には、「見本のキュウリ」の大きさがあって、見本のキュウリと比較しながらそこにあるキュウリを捉えている状態で、大きいキュウリだ、これは1日でここまで大きくはならない、調度良い大きさから2,3日はすぎてる、2,3日は見のがしてる、見のがしちゃいけないのに、この大きさは出荷できない、おいしくない、迷惑かけちゃいけない、私の仕事なのに。
これを一つ一つ見ていくと、私の頭の中にあるものだと気づけていく。そして、頭の中にあるものは、外の世界にはないとなっていきました。
でも、どうしても、これは頭の中にあると思っても、そっちに気をとられて事実・実際に向かえない感じで、どうしたらいいのかが分かりませんでした。
これは一人では難しいと思い、Aさんに話してみました。
Aさんは、「頭の中にあるよね、それはそのままあるけど、意識をキュウリに向けてそこにあるキュウリを見てみて」「そしたら、何が見えてくる?」と私と一緒に見てくれて、そうすると段々、キュウリだということじゃなく、そこにただただ存在するものが見えてきました。初めてそのものに出会えた感覚、やっと出会えた感覚でした。
私の頭の中のものを、そのものとしていた時、それはとても価値のないものになっていました。そして、事実・実際に向き合おうと一人でしている時、私の中の知識や経験の記憶を無くそうとしている思考になってたことに気づきました。スタッフのOさんが何度も「頭の中にあるよね、無くならないよね」と言われているのを聞いていたのに、いつのまにか無くさないといけないと思ってそれをやっていました。
私が頭の中でしていることを自覚していくと、それをしつづけたいか、やめたいか、選択ができるようになる。私はそのものに向かいたいと意志がはたらく。やっとそのものに向かっていくことができる。
誰かと話をしていても、私は頭の中のことで忙しくて、その人に気持ちが向かない。それを私はしつづけたくないし、その人に出会いたい。そして、私自身にも出会いたい、今そう感じています。
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