探究の始まりは・・・

猛暑の中、8月11日~16日マイライフセミナーが開催されました。

日が経過するに従い、お互いに、各自の内面をありのままに受けとめていけるようになり、何を言っても楽しく、嬉しく、時には涙するようなこともありました。

サイエンズを理解する入り口のセミナーですが、一人ひとりに安心があってこそ、探究が始まるのだろうなと実感しました。


参加者の感想をいくつか紹介します。

「マイライフセミナーを受けて」
6日間の長いようで、あっという間の時間が過ぎた。
ひとつの課題にじっくりゆっくり向き合う・・・・。
こんなにひとつのことに時間をかけたことのない私の心の中は、“まだ次にいかないのかなあ~”という日頃の時間枠でした。
でも、いろんな人のいろんな話しを聞くうちに、このゆっくりとした時間がとても大切だと思い、心地良い安心感にかわっていきました。
  (略)
じっくり「自分に聴く、調べる」をやっていくと、なんとたくさんの“キメつけ”を私はもっているのだろう・・・。キメつけばかりだなあ・・・。
そして、そのキメつけのほとんど(全部)が、ゼロから考えると、とてもおかしく変なもので、笑っちゃうくらい。
こんな、実際はどうかわかりもしない“キメつけ”で自分を縛って苦しんでいるなんて・・・。

いつも私の中では、結論づけないと気がすまない、結論づけなければいけない、前へ進めない、納得できない・・・という考えがあるみたいで、結論づけない、決めないで前へ(次へ)進むっていうことが、こんなに安心して心の中の気持ちを出しあえる場になるなんて思ってもみなかった。
“何でも出しあえる場って、こういう雰囲気なんだな”と、深いところで感じるものがありました。
(30代女性)


「マイライフセミナーに参加して」 
    (略)
「腹が立つとは」、「人生とは」、「社会とは」、そう改めて聞かれると、自分の中で色々「そういうものだ」、とか「こうに違いない」と決めつけていたことがいっぱいあったなあ。
「あの人があれをしたからだ、許せない」の裏には、自分の中の大事な気持ちを大事にしたいことや寂しい気持ちがあることに気づいたり、「大人としてはこうしなければ」の裏には、勝手な「大人像」を作り上げていたりしてたな。
一枚一枚、薄皮をはいでいくように、知らないうちについてる心の癖に気づいたり、はずしていく作業なのかなーって思いました。
「社会の目」が、「こうしたら怒られるかも」という責められるような目じゃなくって、やさしく見守ってくれる目だったら、そんな優しいまなざしだったら、自分の中に持ちたいな。
そこで、でてくる気持ちや考え方は素直な自分の気持ちという感じがするもの。
安心できる場所にいたら、自然と素直な気持ちや、やりたいことが出てくるんだろうな。
(30代女性)

「マイライフセミナー感想」
長いような短いような6日でしたが、振り返るといろんなことが心の表面と奥底で、同時に、でも別々に(ところどころ)起こっていたような気がします。
  (略)
最初は心や身体の無意識のつかれをいやすというのは、こういうことかなあと思いながら、でも、自分でも自分がこの先どうなるかわからず、最低限のことだけ、やりたいと思えることだけやっていた感じでした。
それが、4日目になってから、日中はほぼ眠らなくなって、自分の中から自然にことばや笑いや人と目を合わそうという気持ちが出てきて、自分のことながら、人間てすごいなあ、実はとってもシンプルなんだなあ、と感じていました。

周りも私の回復に対してとても自然で、たいへんそうだったら見守りつつ放っておいてくれ、元気になってきたら何を引きずるわけでもなくふつうに交流が起こるだけで、そのことを経験できたこともすごく印象的でした。
(30代女性)

「感想」
何でも話し合える関係とは、“人を聴く”ということが、大事なように思える。今年の4月に初めて鈴鹿に来たときに、この“人を聴く”という言葉に何かを感じて、その言葉を持ち帰り、人に話しをするときには相手の心(気持ち)を聴くことによって、話し合えると思っていたが、その前に“自分自身を聴く”こと、自分はどんな人間か“自分を知る”ということが大事であると感じ、今回のセミナーに参加したいと思った。

今までこんなに時間を取って自分を見つめることはなく、今回のセミナーで一番学んだことは、SCIENZの“Z”ゼロに戻って“実際はどうだろう”と考えたとき、自分が今までいかに経験や知識で物事を判断していたことに衝撃を受けた。

今まで“自分は変えない”“自分は変わらない”で生きてきたが、心をニュートラルにし、“実際はどうだろう”と考えたとき新しい発見ができ、また新鮮な気持ちになった。

人は誰でも、親しい間柄でいたいと心から願っていると思う。わたしの永遠のテーマは“幸”である。今までわたしは目の前の人を一番に幸せにすることを“頭”で考え過ごしてきた。しかし、まず“自分自身が幸せに成らずして人を幸せに出来るのか”と思い、“心“の中で、自分が感じたとことを実践してみようと思っている。そういった人たちが増えていって、みんなが心で感じことを実践していけば、”やさしい社会”の実現も遠くないと確信している。
(40代男性)
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私の社会観をはずしてみて見ると・・・

7月後半、「社会を知るためのコース」を開催しました。
「社会」という言葉を聞くと、自分の外にある、よそよそしいものというイメージが出てくる人が多いのではないでしょうか。
本来の人間はどんなものか、人間性に適した社会はどんなものかと一つひとつ検討していくと、かつてなかった社会が現状の中に現れてくる・・・

「社会を知るためのコース」に参加して
このコースで、人間を知ろうとすることを通して、人間らしく生きること、人間らしく生きられる社会が見えてきたことがうれしい。
自分と社会が直結したように感じました。
 (略)
自分としては、あまり権利・義務意識で日常を暮らしているとは思っていなかったが、日常の何気なくやっている行為行動は、このような人間観・社会観でやっていることが、テーマで具体的に検べてみと、はっきり見えました。

コミュニティハウスをやっていて、家の中の掃除をやりたくてやっていると思っているが、来訪者があると、その時までに掃除をしなければならないと思っていたわけでもないが、結果的にはそれを自分に課していたこと、私たちが留守の時に、家を使ってもらうときに、こうして欲しいと伝えるが、その中には、その人がせねばならないように強いる気持ちがあったこと。
家の家具や食器などを、別の所で使うために貸し出したときも、いつまでに必ず戻してといいながら、その人に強いる気持ちがあったこと。
言ったとおりにしないと、次は貸さないと責める気持ちがでてきたこと。
責めるということでは、自分の孫が災害で亡くなったということであれば、やむをえないとなるが、理不尽な死に方をすると、自分の中に許せない気持ちが出てくるのか、死ということには変わりはないが、自分の中はどうなのかを見ておきたい。
ビジターズハウスの洗濯物を、持ってきたからやる、それをやるのも一役やることになるからとか、自分の中のものでなく、外のものでやっていたなと思う。

そうなっているからやる。
きまり、ルールだから、約束だからと意識もしないであたりまえのようにやっているが、これは現行社会の観念で、外のものでやっていることであって、ということは、やっていることが、他をやらせたりやめさせたり、強いることにもつながり、自分の意にそわないことがあれば責めたりするのも当然のようにしていることにつながると見えて来きました。
社会に対しても、それをするのが仕事だから、それをしないのはおかしい、やってもらえないのは困る、など、強く出たりする場合は、その自由を認めようとしないことで、やることを強制しているようなものです。
相手の意志に働きかけて、自分の思うようにやってもらうことも、外のものをもってきて、強いているようなものです。
規則やルール、約束を守らない人を責めるのは、相手の内面を無視して、その人より自分が上で、それで当然だというところでやっていることです。
ものの貸し借りや、頼み事の中にも、その結果如何で責める気持ちが出てくるのも、いまの社会観から生じていると思いました。
社会の中での行動・活動が、権利・義務の関係で行われている場合が多く、一方が他方を強制したり、束縛することを当然とし、それから逃れるために、脱法行為をしたり、嘘、偽り、瞞着が増し、争い事が絶えることがなく、そのための法律や規則が増え、ますます心の面の解決が遠ざかっていくと思っていました。

そうなっているからやる、こうすべきだ、こうやらなければならない、というのは現行の社会の中の観念から出ており、私の中からのものではない、外のもので、元々は私の中になかったということは、しなければならないものは何もない、自分も、社会も何もしなくてよい、と見えてきました。
何もしなくてよいというところから、自分も人も社会もスッキリ見えてきました。
自分の中にこうして欲しいというもの、こうあったらいいなというものがある時は(出てきた時は)、それをそのまま出せばよいでしょう。
権利・義務、こうするもの、こうあるべきもの、こうしなければならないもの、してはいけないものが、自分の中からなくなると、強制や束縛がなく無理なところがなく、すべてが自由で、そういう社会はだれもが自由に生きられ、幸せになれると見えてきました。
自分の中から出てくる、こうして欲しい、こうなったらいいなという欲求は、社会にそのまま(外のものがまじると、強いるものになりやすい)、出したらよいだけ。
何もしてもしなくてもよい自由な社会は、出された要求を受けとめ、実現できるかどうかはわからないが、その実現にむけて応援し、一緒に考えても行ける。
強制や反発も生じようがなく、要求が満たされ、心が満たされる。
ひとりひとりの要求が社会で満たされ、そうなると要求が次々と出され、人も社会も活性化して行くでしょう。
要求が満たされるから不平不満もなく、人と人の心が通い合い、他を思いやる気風が醸成され、親愛の情に満ちる人情社会となっていく。
だれもがしたいことができ、やれることが増え、活気に溢れ、遠慮、気がね、強制、束縛がなく、自由でそのままの自分を思う存分発揮し、自分らしく、幸せに生きられる社会が見えてきました。

現状そのままで、幸福社会への「知的革命」です。
これからも、外のものでなく、中のものだけでやっていきたい。
観方や考え方にとらわれずに、実際はどうかとなと検べながら。
共に生きる人たちとその人の表われたものの背景、その内面を大事にして、やっていきます。
(70代 男性)
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モトのこころ 心底は・・・

7月「人生を知るためのコース」

「人生って何?」とか問われたら、一瞬戸惑ってしまう人が多いのではないでしょうか?
「あなたのこれまでの人生の歩みを聞かせて」と言われたら、とつとつと、まとまらなくても、何とか表現できるかもしれませんね。
「人生とはどういうものでしょう?」と問われたら、どうでしょうか?
自分の人生を題材にして、人生そのものを掘り下げていく探究が始まります。


7月参加者の感想文の抜粋です。
ーー略
今回、その時々の事柄に対して、自分が捉えたものだという自覚が起こると、その捉えたものが、自分のものの観方に影響を受けており、メガネをかけている自覚がさらに芽生え、ようやくそれについての問いが立ち、考えられる
ようになるということを経験した。
そうすると、本来は・・・と注意が向いてくる。

まだ、十分に観察し、調べていないけど、さまざまな「観」は、わたしが、わたしに対してメガネをかけている「自分観」が元になって派生しているようにも思われ、これについては、大事なテーマでもあるので、よくよく観てみたいと思っている。

「○△観」は、自分の内面の現象、言動、行為にも大きく影響しているようだけど、それが、「=自分」ではないという感覚も面白いなと思う。
では、「自分」はどこにいるのか? 
さらに、モトの、というか、本体、というか、自分と言っている実在するものについて、意識を向けていった。

モトのこころ「本心 心底」について注意を向け、感受していくのは、自分のイノチは何を願い、自分のこころは何を求めているのかを知ろうとしていくことでもあるように思えた。
雲の中を歩くようではっきりとしたことがなかなか観えてこないのだが、そこへ向かおうとしていること自体がとても有意義で豊かな時間だった。
日々、日常的なイトナミにおいても、自分の関心が、そのイノチの願いやこころの求めからなのか、アタマの、意識の、満足のためなのかを見極めていきたいと思う。

アタマの中で、意識で(というのか)、事実だ、真実だ、として思い込むという「脳の落とし穴」に気づいていくことが、脳の本来のハタラキについて納得し、使い方を知っていくことに繋がっていくのではないかと思う。

それにしても、このような社会を動かしている観念とか通念をつくり出しているものが、自分たちの脳であることに深い関心を抱く人が増えたらどうなるだろう?
人間の「脳」というものの機能について、きっといろいろと研究されていると思うけど、なぜこんなことになってしまうのかに疑問を持ち、真相を知りたいと思う人が増えていったら・・・。
自分の「脳」は、本来、どんなハタラキをするものなのかを知りたいという人は、たくさん出てくるように思う。
案外、早々に、あちらこちらで、実験的実践が可能になり、試みが立ち上がり始めるのではないかと思えるのだった。

モトのこころ「本心 心底」は、現象でとらえられないのだけど、安心とか充足の感じを受ける。
こころは、それを具体的に現実化しようとして、何かを求めていくように思う。
そして、わたしの内にうごめく向上したい気持ちは、方向性を得て、そこへ向かっていきたいのだ。終わりなく。

人が、本来の姿で、モトのこころが開いてアタマ(脳)のハタラキを活用していくための条件についても考えた。
そのための物理的な環境と人的な環境、構造的な環境があるのだと思う。
このことについては、また考える機会も、考察したことをまとめる機会もあるだろうと
思うので、そのときに取り組みたいと思っている。
ーー略

(40代)
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