雑感 スタッフのつぶやき 10/1

マイライフセミナーは、初めて出会った人同士が5泊6日、
一緒に暮らしながら、いろいろなテーマで話し合う。
ご飯やお風呂が用意されている。
仕事や家事から離れて、お金や携帯を持たなくてもよい。
生身の、ただの人になって、みんなのなかで、それぞれが自分と
向き合う。
ふだんの暮らしの中では、こういう環境はなかなかつくりにくい。
日々の暮らしでは、親と子 夫と妻、会社では上司と部下、先輩後輩など、
立場や付き合いなどの関係面を気にしながら暮らしている。
セミナーでは、いつのまにか、気の置けない、何でも話せるお互いになっている。
年齢の違い、環境の違い、人生経験の違いが際立ってくる。
新しい<人>と<人>の間柄を体験しているように見えた。
どんな風にしてそんな空気になっていったのだろう。
自分と向き合うのは、自分なんだけど、人と話し合いながら、人に対する自分の姿、しらないうちに身についた自分の人間観が見えてくる。
そして、人と人との間が円滑になってくる。
人のなかで、人って変わっていくんじゃないかなあ。
だから、どんな人のなかに居るか大事だと思う。
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雑感 スタッフのつぶやき  8/21 

<分かっているようで・・・>

「人の話を聞くとき、自分なりに理解して聞いている。」
「どういうこと?」

「自分なりに聞くこと自体、自分の中の反応であるわけだが、自分の反応とは思っていない。
むしろ、自分は相手の言葉(意味・気持)をそのまま受け取っているつもりでいる。
相手の話を聞いていて、ああ、面白いと言うときも、えっ、何?と言うときも、コトバにはしなくとも、自分の中にいろいろ出てきている。<捉え方>の面白さや<表現の仕方>の面白さを感じて反応しているように思う。そして自分の中で思い考えが展開いく・・」

「自分の反応に反応しているってことになるのかなあ?
相手には関心がいっていない?」

「あらためて、人の話しを聞く、というのは、どういうことしてるんだろうね?」

「そこを焦点にして、自分の中を観察してみようかな。」
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雑感 スタッフのつぶやき  8/4 

内観ーー対人的な味わい・情・親しみ

本来的な情とは、人と人が接することで自然的に湧いてくるもの。

人に対する親しみというものかもしれない・・
好きとか嫌いとかいうものではない・・
親愛の情という言葉もある・・

内観体験で味わうのは、そういう<人>に対して
自分の中に自然に湧いてくる情とか親しみというものだろう。

内観では主に人に対する自分を調べる。
(どのテーマで調べる場合でも、主題となるのは、
人との関係の中での自分、つまり人に対する自分ということになる・・)

調べる中で、相手の人に対して自分が抱いていたイメージ(印象)が変る、
その人に対する見え方が変わる、
そういう時にフッとその人に対して親しみを覚える・・
近しくなる・・心が通じるみたいな感覚を・・その人に対して情が湧く・・

時には心底からこみあげてくる、強く突き上げてくる、
そういう感覚を持つこともある・・こういうものを
情動(情が動く)と言うのか?
これは日常に体験する感情とも異うようだ・・

内観して何に気づいたとか、何か分かったという意識を持つことはあるにしても、
少しでも対人的な味わい(情、親しみ)を体験することの方が
実質その人の身(糧)になるというか・・最近そんな気がしてきた・・
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雑感 スタッフのつぶやき  7/5

○内観するということにはいろいろな面があるが 内観することで「自分についての捉え直し」が自然と成されていくという面がある。
言わば「過去(の自分)を捉え直し、未来の可能性を 開く」ということが、内観の本質というか核心を成すと言えるかと思う。
(「・・・」は内観とはまったく関係のないある論文から借用したことば)

○ある人が内観することで見えてきたことを話してくれた。
 面白そうだと思ってあることを引き受けた。
 やっているうちに「うまくやれるだろうか」とか、いろいろ不安に思うことがあった。
 事柄的にはいろいろ相談できるが、不安の部分は、自分の中で貯まっていったのだと思う・・
 そんな自分の姿(実態)が見えてきた・・

 事柄の進行と人の内面のギャップというか、人の内面をなおざりにして事柄だけが進んでいく・・・
 今の世の中そんなことばかりと言ったら言いすぎだろうか?・・
 結局何を優先するか、何に価値を置くかということなのだろうが・・
 先ずは自分の実態を知ることから・・
 そしてそこから何かしら(生きていく)方向性も見えてくるようだ・・

○人に対して抱く優越感と劣等感や上下感というあたりで自分を調べていた人 が「自分は人をその能力(が高い低い)で見ていた、何か自分は人に対して 冷たかった気がする」というような話をしてくれた。
 人を人として見ない、人を見るのではなくいつもその能力を見てしまう。
 情(人情、親愛の情)というのはその<人>に対して湧くのであって、<能 力>に対して湧くのではない・・・
 何か得心するものがあった・・考えてみれば、あたりまえのことだが・・

 <能力対能力>としてではなく、
 <人と人>として生きる・・
 <能力対能力の社会>ではなく
 <人と人の社会>を・・
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雑感-スタッフのつぶやき- 6/16

   ーー人として人らしく生きるための要件ーー

何かモヤモヤしたものとして,自分の中に残っている。
そのときのことを調べてみようと思った。

何人かであることを一緒にやっていた。
最初はやりたい気持ちだった。
そのうち気持が変わっていく。
そういう自分のことを素直に出さないで
「めんどうくさい」とか「早く終わらせたい」
とか遠まわしに表現する。
だんだん面白くなくなってくる。
まわりの人の言動にもひっかかるようになる。

そんな経過が思い出されるなかで、自分の中の気持を
見ようとしない、またそれを素直に出さず、
やらなくちゃという意識でやり続けようとしていた。

そんな自分の姿が見えてくる。
見えてくると何かモヤモヤも晴れていくようだ。
自分の気持をどう扱っていたか、その辺が事
(モヤモヤ体験)の核心であったような気がする。

自分の気持やその変化がすっきりと捉えられる、
またそれを素直に表現できるからと言って、
そのときの状況もあり、また相手もいることだから、
事がどう展開していくか分からないわけだが、
最低自分の気持を知っている(つかんでいる)
ということが・・人として人らしく生きるための要件
(必要条件)であるのだろうと思う・・
その要件を満たす環境(社会)を・・
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