自分を知るとは・・・

まず、自分の言動を観察してみましょう。
自分の言動は、どうなっていますか?
じっくりと見てみると。。。
あら、なぜ?そうしたのだろう?
自分でも、不思議。知っている?つもりだった。
そして、なんと、知らない自分に気づいていく、心の軽さ、明るさ。
心の状態に大きく影響するように思います。
5/8~自分を知るためのコースに参加した人の感想レポートの一部を紹介します。


いろいろ思ったことはあったが、知ることができない実際があるように、自分の意識も知らない世界が広がっているのだろうと思った。
全て自分の感覚で、実際を知ることができないが、全て自分の感覚だとなっているのと、自分の感覚が事実実際化しているのは、大きな違いがあるような気がする。
また、自分の感覚だとなっていることと、自分の感覚だと思っていることも大きく違うような気がする。
そのためには、観察が大きなカギのような気がする。
そういう人達で出来る社会は、今までとは確かに違う社会になるなと思った。(20代男性)

自分独自の回路でしか、見れない、判断できない「私」と、まったく別個に「事実・実際」があり、どんなに詳細に五感を働かして調べたとしても「事実」にはならない。
他の人の視点・感覚・判断を、かき集めても、点の集合で「事実」そのものにはならない。 う~ん、なるほど。それでも拠って立つところは自分。 自分独自の回路しかないが、それはとても「自信」といえるものではなく、ここはどうしても「事実がわからない自分」というベースからスタートするしかなさそうだ、となってきた。(60代男性)

悲痛な気持ちでいっぱいになって、自分ではどうしようもない状態だと思って、涙があふれ出た。
ところが、そんなに悲しくて辛い感情というものが、事実・実際を見て反応したわけではなく、ただの自分の認識の世界に反応したことにすぎないと感じた瞬間、「なんだ、そんなことだったのか?」とフッと軽くなってきた。あくまでも自分の感覚、認識、記憶であることに対して、泣いたり笑ったり怒ったり苦しんだりして来たのだったのか。そんなバカなこと、いつまで繰り返すつもりなんだ、、、と思った。
(中略)
認識って、また新しい経験や考え方によって変化を重ねて行くものだろうし、それに応じて反応もまた絶えず変わって行くものではないだろうか。 そして、その反応というのが実際をベースとしたものではないことが明らかになると、どのような反応だとしても、より軽く見て行けそうな気がした。実際ではない、自分の認識によって起こる反応の世界の方じゃなく、実際の世界はどうだろうかと、関心の方向が変わるではないだろうか... 再び希望が湧いてきた。真っ暗な夜の世界から明るい昼の世界へ、一歩、踏み出した、と感じた。(30代女性)
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知るためには・・・

「当たり前」「当然」としていると、そのものの成り立ちや背景を感じたり、知ることは難しいでしょう。ですが、人には、もっと知りたいという知的欲求があるように思います。

5月の連休に開催した<サイエンズセミナー>、参加した方の感想の一部を紹介します。

参加してみて、自分が日頃、周囲から感じる優劣や思い込みから動けずにいる状態だということに気づきました。自分がそういう状態にいると気づくと怒りから解放されたように感じます。自分という存在は今までの積み重ねからの視野でしか見ることができない。当たり前ですが、その当たり前になかなか気付かない。だから他の視点やその姿勢になれたとき、人の話を聞くことができるんだなと思いました。(40代男性)

普段は深く考えることのない『テーマ』、例えば、怒り・自由・所有 等を用意して、その事を誰かの考えを説明し、教え悟すのではなく、参加した各々の考えを出し合って、本当のところはどうなのか? 実際のところ、どうなのか? と見てゆくことは、話には聞いていましたが、体験すると「こんな面白い事はない!!」と感動しました。(40代男性)

・「あたり前だ」と思っていたことを探究して行くと、思いこみ、決めつけに気付き、それが外れると色んな気づきが生まれた。
・「思い込み」「決めつけ」が思っている以上に多くて驚くとともに、これを一つずつ外して行くことで、今まで出来ないと思っていたこともなくなり(出来ないということさえなくなり)←思い込み  何でもできるようになるかも! と思うとワクワクした。
・「知識」と「知ること」とは違うと思った。知識を増やすことはいいことだと思っていたが、逆に知ったつもりになり、そこで考えることをやめることになったり、逆に「~しなければ」という決めつけを増やしていたということに気付いた。(40代女性)
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人生とは・・・

人は、生まれ、そして、生きる。
今を生きている。
ちょっと立ち止まり、落ち着く時間を持って、人の中で自分の人生を振り返ってみると、何が見えてくるのだろう?
4月の「人生を知るためのコース」に参加した人の、感想の中から一部分ですが紹介します。

普段、自分が考えているのは「意識上の自分」。
「実際の自分」はどんなだろう?
いろいろ思い、考える自分、感情や欲求・気持ちと連続射撃のようにどんどん出てくる、その自分をなんとかしたくて、おとなしくしたくて苦労していたのだが、それは「意識上の自分」であって、もっと内面に「実際の自分」がいるのか?
父と母の間で芽生えた命が、その生命力が消えずに今に至っている。
コースを通して、内面(心)・人について・心について・人の成長・人間性・人間らしさと検討してきて、私の中にある 心をおもう。  感じる。  まちがいなくある。
普段は、いろんな欲求や考えに忙しくて、見えなくなっていたり、捉え方で心にまで関心がいかなかったりだが、心がある。
不安をとり除いてみたら、安心、自分は安心していると思った。
無いものをみて、不安や怒り、疑いをふくらます方向から、有るものでやる生き方を強くしたい。
その回路を太くしたい。
(60代 女性)

○○○さんは、心のことを「デリケート」な部分と呼んでいたが、周囲社会からの影響で、どのようにでもなってしまう点では、そうだなと思う。
親をはじめとする周りの人間達から・また自然界からも、無数のものを吸収して、心は成長していくのだろう。
身体が常に正常健康であろうとするように、人間の心も絶えず正常健康な方向に向かっているのではないか。
死刑囚、永山則夫の例も出ていたが、劣悪な環境の中で気持ちが荒み、殺人を犯していまった場合でも、元の心迄そうなってしまったのでは無く、人間的な働きかけの機会などがあれば、正常健康になろうとして、人間味のある心に回復していく。
そういう意味では、人間の元の心は、とてもしなやかなのかもしれない。
人間らしいということは、何より、その人間の心が豊かに成長していくことだと思う。
心が満足している状態というのは、周囲環境から愛情がいっぱいに注がれ続けて、そうなるのだろう。
特に生まれたばかりの、赤ん坊は、受けるばかりだと思うが、心身の成長につれて、受けるばかりではなく、すること・与えることによっても満足を得るようになっていく、それが、豊かな人間関係、人間社会にも繋がっていくのだと思う。
(略)
「人間の心」でも、そこから現れた思い、考え、意志、感情、欲求、気持ちや行為言動の方に、知らず知らず重きを置いてしまうのだが、そういう「意識上の自分」を「自分」だとしていることが、ほとんどだと思った。
日頃は目を向けない「実際の自分」の方に焦点をあててみると・・・・
実際に、自分が今ここに生きているということは、生きるための条件が何十年にもわたって、一瞬一秒も途切れることなく、あり続けたからだと見えてくる。
それだけでも奇跡みたいなことなのに、生まれ時には「生命力」というものまで、タダで宿してもらっている。
(略)
自分自身が、元の心を成長させながら、もっと自由に豊かに生きていきたいとも思う。
悩みとか、不安とか、ほとんどなくて、とてもシンプルな心の状態だった高校時代のことを思い出したりもした。
心を成長させていくには、どうしても周囲環境が大きい。
心に重点を置いて、お互いに育ち合っていける社会が無くては始まらない。
自分の命が終わっても、次の世代・次の世代へとつながっていくことが出来たらと思う。
(50代 男性)
                        
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