分かったりすることはできない自分を知ることから始まる。

幼い子どもを見ていると、見る・触れる・聞く・舐めるなど、身の回りの物、人に飽きずに向かっていきますね。「これはなんだろう?」と、知ろうという、知性が働いているように見えます。
知性は、人の意欲や認識する能力のベースとなっているのではないでしょうか?
人には、心があって、この知性もあわせ持っていると思います。
人間らしく生きるには、この知性がポイントになるように思うのです。


自分を知るためのコース(2015/12月)感想レポート

コースを通してひたすら意識するようになったのが、「自分の頭の中の概念や想像、記憶、感覚、想い」と「事実・実際」の違い。
すべては自分の頭の中に事実・実際があると思い込んでいることからおかしなことになってしまったんだなぁと思う。

”目の前にある美しい花”も”困っている人”も、自分がそう思っているものとは次元の異なる実際がある…。
まずは五感で感じてINPUTした時点でただ在る存在が美しい花になったり、困った人になったり、様々な解釈を頭の中でし捉え、それに判断を加え、ときにはOUTPUTとして、悩んだり、怒ったり、しなければいけないことをキメたり、よく頭を使ってきたなぁ…。

これまで、頭のなかに事実と思い込んでいる知識や経験を詰め込んで、行き着いたのが、世界を知っている、その人を知っている、自分を知っているという思い込み。
また、分かっている、分かるはずだという思い込み。
おそらく次元の異なる事実・実際を頭で知ったり、分かったりできるはずもないであろうことにも気づかなかった。

そしてもう一つ。数学的思考法のAだからB。
なんとも分かりやすいことだが、実際の世界ではどうやらそんな単純になっていないようだ。
BのためにはAだけでなく、世界の実際のあらゆるものが関係してBとなっている。
例えば、自分が電気を点けている。自分が稼いでいる。自分が生きている…。
自分で何でもできる、していると思っていたが、自分ができる・していることは世界のほんの一部なのに。ある意味傲慢な考えであったと思う…。

自分で自分を縛っていることも目からウロコ。
朝何時に起きるか、仕事に何時に行くか、何をするか、しなければいけないか…。
やりたいことがあって決めたことでもいつの間にか、自分の心よりも頭で決めたことを守るために実際を合わせていく。
こんなことを当たり前のように自分に、人に強いていたなぁと。

最後に、自分を知るためのコースを終わってみての総括として…。
思うに、(実際の)世界を(自分の頭で)知ったり分かったりすることはできないが、知ろうとしたり近づいたりすることはできるということ。
思うに、(実際の)人の心を(自分の頭で)知ったり分かったりすることはできないが、知ろうとしたり近づいたりすることはできるということ。
思うに、(実際の)自分を(自分の頭で)知ったり分かったりすることはできないが、知ろうとしたり近づいたりすることはできるということ。

そしてそれらに対して、分からないからこそ知りたいという関心がでてきたということだと思う。
これまでへんてこなことしてきたな…。
そしてこれから面白いことになりそう…。
はたして実際はどうだろう…。これから、試みはじめてみよう。
(30代 男性)
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