なぜその人の世界に関心がいかないか?

ふだん、人と、どんな関わりをしてますか?
人と話して、お互いに分かり合って暮らしていますか?
人と話すって、そもそも、何をしているのだろう?と振り返ってみると・・・・

人を聴くためのコース
「人の話を聴く」のではなく、「人を聴く」のです。
その人そのものを理解しよ うとする営みのことです。

7月の「人を聴くためのコース」に参加した方の感想です。

検討を進める中で、言葉を聞いて自分の中に立ち上がった自分の言葉、経験、記憶、その人に対する印象等が立ち上がってくる。それらを総合して、相手が「こう言った。」として来た。
自分の事(自分の捉え)とその人の事(その人の実際)とが、混線状態にある、と見えて来た。

しかし、さらに検討してゆく中で、その人の世界として築き上げてたものが、すべて自分の捉え、自分のその人に対する印象だった、という事が見えて来た。
つまり、すべて自分の世界一色ジャン、という事に気づいた。
自分の世界一色、すなわち、相手の存在のない世界。他者が受け入れられない、と思っていたが、自分の中に、その人の存在がないのだから、その人の世界に関心が行かないのは、当然の事だ。

言葉とは、物事を抽象化して、概念(分類)にしたものに「音」を貼り付けたもの。
その言葉の実際は、それを発しているその人の中(心)にある。それを聞いた時の(自分の)言葉は、自分の世界の言葉。言葉にとらわれる、とは、自分の世界一色の中で、生きている、という事。相手の存在はない。

他の人の例から
孫から電話「バーバ、あした来てね。」
私「・・・ウン、なあに」
その子の心に、私の心がダイレクトに向かう。
心通う。
聞いていて、何か、ジンとくる。

ミヒャエル・エンデの「モモ」の一節(モモが人の話を聴けるという)を聞いてなぜか、ジワット、涙が出て来た。
「何かを言う、というわけでもなく、大きな瞳で、ただ見つめているだけで、その人は・・・」

その時、自分の中に起きたものを、言葉にすると、
「自分を解き放ちたい」
「自分のままで生きたい」
と、いった衝動のようなものが、湧き上がってきた感じがした。

「人を聴く」が実現する事で、どんな世界が現れて来るのか。
人には、聴いてほしい。
見てほしい。
受けとめてほしい。
等の欲求があるように思う。

聴いてもらって、心底満たされて、初めて、他者の世界が見えて来て、関心が向かうのかも。
望んでいるのは、自分を解き放ち、その人と心通わせる。心通い合う世界。
そこに現れるのは、今だかつて見た事のない世界。 (60代男性)
- | - | trackbacks (0)

Trackbacks