過去の暗い記憶が、明るい記憶に変わっていく〜内観によって〜
子供時代、「こうするものです」と押しつけられる環境の中での育ちをしていませんか?
気持ちに蓋をして、我慢したり、反抗したりの育ちだと、どんな記憶が作られていくのでしょうか?
思い出したくない記憶や、無意識にしまい込んでいる不快な記憶も、ありのまま見ていくことで、その時の気持ちが見えてきます。
自分自身で自分を縛る不健康な記憶に、明るさが戻ります。
縛りからの解放が起こり、自由を取り戻す「健康な記憶」に変わっていきます。
健康な記憶になっていくことで、明るい自由な人生へのスタートが切られます。
9月28日からの内観コース参加者の、感想の一部を紹介します。
◆受けているものの大きさを知ると、気持ちが動き始める
自分の中にある過去をそのまま、ありのまま観る。
実際はどうだったか、具体的に観ればどうか、自分の心はどうだったか。
ただ、してもらったことを思い出しなおし、自分がしてあげたことを見てみては、心配をかけたことはなかったかと捉え続ける。
したのはそれだけ。
そう、それだけ。
それなのに、母に対する捉え方「母自体」に対する見方が変わる。
そして自分が母にしてもらってきたものを、さも当然かのように受け取ってきた事実を目の当たりにし、膨大なしてもらったものを前に平伏すような想いが込みあげた。
それは、母に対してだけではなく、今日観た祖父母・同僚・友人に対してもそう。
また、その他の人々にさえ、見え方が変わっている感もある。
「人は一人では生きてはいけない、というような格言めいた言葉は自分の中にはあるが、それをより実感している感じがする。
どれだけ、してもらったことを見落としてきたのだろう、どれだけ人に心配をかけたのだろう。
それなのに、してあげたことはどれだけあっただろう。
今は、とにかく母に合いたい。(男性30代)
◆自分の気持ちを誤魔化したり、抑えたりを、よく見ると・・・
自分の気持ちや感情を騙したことについても小学校時代から見てきた。
見える場面で私の気持ちや心境がどうだったのか見ようと思った。
心の状態がよく見えなかったり、どんな気持ちだったのか紛らわしい場面も見ようとした。
私の心を騙したり、どうしたいのかよく知らない状態で行動したのが後悔として残るんだなと思った。
そのように生きるのは本当にもったいない。(女性40代)
◆「ダメ」とする自分をあるがまま観ると、素直さへの欲求が湧く
こんな(ダメな)自分が、、、 でも、ダメ!ってなんだ?? という思いを持ってスタート。
ダメ!というのは、強~いキメツケだな。
そしてダメ!というのは、ダメとしていることを認めない(受け入れられない)。
私の場合、劣っている、できない、悪い、至らないetc.をそういう自分としてダメ!としてしまうことが多い。
ダメ!とすると、それをそのまま認められなくなってしまう。
ダメとしている事に気づき、ダメ!が何なのか?、少し見えてきたかな。
見えてきたら、、、「あー、そのままでいい、そのままでいいんだな」となってきた。
そして、ホントのホントの自分はどんな自分なんだ?
なにをしているんだろう? となってきた。
ダメ!とすることで(決めつけることで)、そのままを見れなくしている、あるものが見えなくなっているようだ。。。
あー、こうやってその時してたことをみて、ダメ!と裁く。
「ダメ!」とする思考パターンが癖づいているなぁ。
「実際」に目を向けようとしなくても、ダメといていることに気づくと目が実際の方に向くようだ。
そのままでいい、そのままで十分。
こうでないといけないものは何もない。
何かしなければならないことも何もない。
今のままでよし!私のペースでゆっくりと地に足つけて進んでいきたい。
人生の途中の今、そしてまだ続いてる、、、。(女性50代)
◆客観的に自分を観察すると、自分の気持ちが観えてきた
自分を客観的に観るとはどういうことだろう?
内観の資料の中にも、「自分を客観的に観察する力を養い」「客観的に自分を観る能力ができていく」とある。
客観的に観るには、その能力が必要ということなんだろう。
今まで、相手に反応する自分をなんとかしようと頑張っていたけど、まず、反応が起こったときに、どういう反応か、どうなってるかその時の自分をじっくり観察してみる、ということなんだーー
「本気を出したい」という気持ちが出てきた。
たぶん、もっと、自分の気持ちに向き合って、正直に生きたい、その気持ちを無視しないで、生きたいという気持ちなんだと思う。
そして、「落ち着いて生きたい」とも思った。(男性50代)
◆縛りが出来るプロセスが見えると、自然に縛りの紐が解けていく
最初の三日間くらいあまり集中できなくて、四日目らへんで諦めようかと思った。
内観と全然関係ないことに意識が向いてばかりで、効率良く出来なくてやめようかと思った。
母、父、周囲の人々、また母をやってみて、漠然と調べた気持ちで、時々じんわりするところあったけど それだけかよ ってかんじ。
皆に対しての自分を調べながら、中学時代の友達たちに対して今まで強くあった反発的な感情も溶けていった。
最近その人たちと時々話をしようとしながらやってるけど、「やっぱりあの時アイツらはクズだった」とかいつも考えてたところが、その時のその人たちの気持ちと俺の気持ちを観察しようとしながら、素直に彼らの言ってたことを受け入れることが出来たかな。
それを調べた時の夜、夢で彼らと出会ってなんか分らんけど仲良くやった。
「人に対して腹が立った時」と似てて、小さいころは単純な例があって、大きくなっていくたびに複雑な動きや癖がついていくのが見えてきた。
現状は、人の目を気にすることが当たり前のようにやってる、頭の中でいつもなってる雑音みたいに、人と接してる場面では大体全部どこか気にしているところがあるみたい。
人に迷惑かけると思う状況でそれを気にするのが特に多く、いつからそれが強いのかを考えてみると、高校の始まりごろに好きな人に「あんた、いばりすぎだよ」みたいなことを言われて、それから非常に人にどう見られてるか、嫌な気持ちをさせてないかを意識するようになったみたい。
それ以前からあったけど、その事件が特に強かったか。
今回の内観やってみて うわー っと変わったところとか、驚いたところとかはあまりなかったけど、自分の中で考えで縛ってたところがほどいて軽い気持ち。(男性20代)
◆しまわれていた心の働き、うれしい、楽しい気持ち、愛する気持ちが蘇る
長年、母との関係が上手くいってないと思い込んでいた。
母に対する自分を調べた。
調べ始めると母との過去が変わっているのに気がついた。
もう、前の自分の様な見方は出来なかった。
してもらったことがありすぎる。
そして、ずっと、してもらってるのが当たり前で見えてなかった。
してもらったことをこんなに意識したことはなかった。
してあげたことは調べても、調べてもない。
あったと思ったら、してもらったことだった。
心配をかけていることも次から次へと出てくる。
父に対する自分を調べた。
今もなお愛されていることを再確認した。
まるで一緒にいるような幸せな感覚だった。
亡くなる1年前、倒れて意識が無くなる前日の父の願いを思い出し、ただ、ただ自分を見ていたら、父の本心を聴けたように思えた。
嬉しかった。
夫に対する自分を調べた。
ずっと自分のことしか考えていなかった。
彼と私の生活ではなく、私の結婚生活だった。
どこまでも自己中心的で、被害者意識の私とよく一緒にいてくれたなと思う。
姉に対する自分を調べた。
姉にしてあげたと思っていたことは、
全てさせてもらっていたことに気がついた。
どこまでも愛情深く優しい姉を感じた。
私は子供のころから姉が大好きだ。
姉も私を大好きでいてくれている。
母に対する自分をもう一度調べた。
私はどこまでも自己中心的だった。恥ずかしい。
自分のことしか見えていない。
そして、調べても、調べても、自己中心、傲慢な自分が出てくる。
これだけ自己中心的だったら母との関係が幸せに思えなかったはずだと思った。
母への甘え方が分からないと思い込んでいたが、
甘えて、甘えて、甘えきって生きてきた。
小学生低学年のとても大きな嘘とごまかしと思っていた出来事があった。
それを調べてから、目をつぶっていたら、
走馬灯のように小学生低学年のころに住んでいたアパート、周り、通学路、小学校、家の中、家具、庭。詳細に情景が思い出されて、遊んで飛び回っているのをそのまま体験しているかのような感じの映像が浮かんだ。
楽しい気持ちも蘇ってきて。
学校から家に帰ってきて「ただいま!」「おかえり」
私は安心して外で遊んでいる。
ああ、あったね。
楽しい思い出。
忘れていたけど、たくさんあった。
幸せな気持ちになって目を開けたら。
なにより、私は母を愛していた。
そして、愛されていた。
ずっと、そうだった。
それを思い出した。
周りの人を愛して、愛されて、今の私が存在している。
嬉しすぎる。
これから、日々暮らしのなかでも内観ができたらいいと思った。
良いも悪いもなく、ただ、ただ見てみる。
そうしてみよう。(女性40代)
以下のページから「内観コース」の案内が読めます。
http://www.scienz-school.org/hp/naikan.html
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