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本当はどうしたかったんだろう?  何が言いたかったんだろう?

ゆっくりと自分をそのまま思い出し、振り返る時間が内観です。
自分自身の過去を振り返り、周囲の人から受けたものを見つめ直すことで、自分の心が膨らんでいくのを覚えます。人は、多くのものを受けて成長しているのですが、そのことの実際に気づかずにいるのでしょう。12月2日から内観コースに参加した人たちの感想を紹介します。

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◆至福の時間
「内観は知るものでなくするものです」である言葉がありましたが、まさにその通りです。
母に対する私について調べていたとき、寒い冬に早起きして部屋をあたためていてくれ、さらに私の下着をストーブにかざしてあたためてくれていた母が思いうかび、涙が流れたのですが、その時内観とは至福の時間と感じました。(60代男性)

◆無条件の愛情
今回の内観で鮮明に蘇ってきたことは、まず父母の無条件の愛情でした。
そのことをいかに当たり前とし、父母の心を軽んじ、不足を思い、恩を感じず、我をとうして来た自分だったなと、
より良い自分を見せることや、得た知識を話すこと、また収入を得て自立したり、社会的立場が上がることが、父母が安心してもらえる事だと感じて行動したり、その行動の日々の中では、父母の心情を思うことなく、全く独りよがりの、自分でした。(60代女性)

◆おばあちゃんから受けていたもの
例えば、東村山に住んでいた時、おばあちゃんが毎日ご飯を用意してくれた。
“あらわれ”からすれば、「毎日ご飯を作ってもらう」という行為が見える。
ただ、その時受けているものは何なのか、ということを考えた時、“あらわれ”として目の前に出されるご飯の奥に限りない奥行きを持った背景があるように思われた。

おばあちゃんはもう高齢で体を動かすのも一苦労で、いつも「腰が痛い」「しんどい」「疲れた」とこぼしていた。
そんな中で、僕が食事を必要とする時はいつも自転車にフラフラと乗ったりして買い物に行き、温かいご飯とおかずを用意してくれた。
時には連絡の行き違いでご飯を作っても僕が帰って来なかったり、家にいなくて、せっかく作ったご飯が無駄になることもあった。
でもそんなことがあっても、僕に不満を言ったりもせず、次の日も「辛い辛い」と言いながらご飯を作ってくれたりしてた。

僕がおばあちゃんから受けていたものはその奥にあるとてつもないエネルギーのようなものだったようにも思えてくる。
おばあちゃんの中の何かがおばあちゃんを動かしていて、それが物理的な作用としておばあちゃんの様々な動きとして現れ、最後の結果として僕の目の前に料理として出される。
そこまでの人の行為を成り立たせるもの、原動力となるものとは何だろうか。
僕が人から行為を受ける、と言った時の本質的な部分は、そういう行為に現れる前の心の働きにあるように思われた。(20代男性)
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◆贅沢な時間
子どもの時のことはあまり覚えていなかったが、だんだん昔の映像だとかが思い出せるようになってきて、楽しくなってきた。
中学高校もあまり楽しくなかった印象があり、記憶もあまりなかったが、なんども調べていく内に少し思い出した。
姉と暮らしていて楽しかった時期のことを思い出すのが凄く楽しかった。
いやな印象が強かった時期も、こまかな記憶をたどってみると楽しいと思っているときもあったことが分かった。
ひとつにまとめてこの時期は嫌な時期、この時期は良い時期、として、人生はおおむねこんな感じだったと全体的にまとめてしまおうとする自分に気付いた。
そのぎゅっとまとめたものの中に今の自分の気持ちを左右していることが沢山あることが分かった。

母にたいして調べていると、気が遠くなるほど食事を作って食べさせてくれたなぁと思った。

誰かに何かをしなさいと言われることなく、言われなくてもした方がいいかなと頭を働かせることもなく、ただ自分の頭の中に集中できるのは贅沢な時間だと思った。(40代女性)
021ELLY18412_TP_V.jpgサイエンズスクールの内観コースのスタッフの方が、スクールブログに雑感を載せています。紹介します。

内観雑感(自分と向き合う)

内観では、「自分と向き合う」という表現を使う

内観では、ある観点(ex.「母に対する自分」「うそごまかし・本心」・・)で、自分の人生を振り返っていく、できるだけ具体的なこと(場面)を思い出していくという作業を繰り返していくわけだが

そういう中で、その時々の自分の中に起きた思いや考え(欲求・気持ち・感情・意志・考えなど)、また、そこから自分の言動なども思い出されてくる

でも、それだけでは「自分と向き合う」ということにはならないだろう

内観が進む中で、そう思っている自分・そう感じている自分・そう考えている自分・そのように振舞っている自分の姿が何かクッキリと浮かびあがって観えてくる、「ああ、そういう自分だったのか」「そういうことを願って自分は生きてきたのか」とその時の「自分の姿や生き様」に気付く、「自分と向き合う」というのはこんな感じだろうか・・

「自分と向き合う」というのは「自分の中の思いや考え」や「自分の言動」にではなく「自分の姿や生き様」と向き合うということ・・「自分の姿や生き様」をありのまま観ようとすること・・

そして、自分の姿や生き様がありのまま観えてきた時、そこに、その心に、次への意欲、本当はどうしたいのかという本当の(正直な)気持ちも湧いてくるようだ・・

*ある辞書には「生き様ーその人の人間性をまざまざと示した生活態度」と書いてあった


以下のページから内観コースの案内が読めます。
http://www.scienz-school.org/hp/naikan.html
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