「知っている」という状態は、

情報を得たり、自分の体験などから、「こういう人」「こういう物」「こういう出来事」「だからそうなんだ」など、人や物事について「知った」つもりになっていることがあります。
それをよく調べてみると、ほとんどが、一時的・部分的・表面的な情報や体験によるもので、自分の中では、「知らない」という意識がなくなり、「知っている」という状態になってしまっています。それは、その人やその物事について、「こうだ」とキメている状態とも言えます。
長年共に暮らしている家族であっても、知らないこと、分からないことがありますね。ましてや、他の人や出来事を「知っている」「分かった」と、言えるでしょうか?
6月の「自分を知るためのコース」参加者のレポートです。


「事実・実際」と自分の認識との違いについて理解するまで、かなりの抵抗と時間がかかった。
今までは、目の前にあるものに、形容詞がついていると本当に思っていた。
でも良く良く見てみると、形容詞(そう感じている)のは、自分の頭の中にあり、どこまでいっても、私の認識でしかないことに愕然とした。
「認識」は、今までの経験や知識など、ぼう大な情報の中から、取捨選択していて、その人その人のオリジナルなものであり、対象物を自分の五感を通して瞬時に判断しているのだが、その「判断」も反射みたいなもので、どのような回路を経て、何に反応して認識しているのか、全く意識していない。
今まで、自分の頭の中にある実際を事実と思い込んでいたので、目の前の実際を見ることができず様々な混乱をきたしていたことが分かった。
私の苦しみの構図が見えたことは大きな収穫だった。
今の段階では、「構図が分かった」だけで、どう、行動が変わるのか分らないが「構図を知った」ことで、物事の捉え方が変わり、反応も変わることに期待したい。(40代女性)

これからの人生の新たなスタートを切った気分です。
今まで、無自覚のまま感覚で認識してきたことを(五感を通しての感覚)自分の考えや思いと判断して行動してきた。
そのことに知識も理解も自覚もないでいた。
脳が捉えている認識を事実と思い込み・・・・ほんとうの意味での事実とは・・・が分っていなかった。
いつも、脳が自分独自の回路で表現しているけど、事実そのものではない(言えてない)
すべてのことは、自覚し続ける認識・意識の捉え方は、脳の仕組みから来る、このメカニズムを解ったことにより、人との関係性、これからの生き方が変わる、よりよく自分と向き合える。(50代女性)

あったはず・そうだったはず、過去は私の認識の中にしかない。
今、これからは、今、そこにあるものからしか始まらない。
ましてや将来を今の自分が決めることなどできないはず。
意識上の自分は日々更新、「実際の自分は自由だ」・・・なんだかすごく気持ちがワクワクしてきた!!誰も決めつける事はできない、やりたくない事をする必要もないが、できないと自分を縛る必要もない。(60代女性)
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人のための社会を

人は寄り集まって、社会を作ってきました。
今も、これからも、社会の中で、生きていきます。
現代社会は、複雑化して、多くの問題を抱えていますが、
本当は、どんな社会が、いいですか?
まずは、じっくりと、自分の社会観を調べてみましょう。
「社会を知るためのコース」の参加者のレポートの抜粋を紹介します。

心は、いつでも正直だ。
心は、決して嘘をつかない。
考えで心を捻じ曲げるから、
「心でないもの」を持ち込むから、
おかしくなる、親しくなくなる、話し合えなくなる。
心に基づいて生きていくことができるのが「人らしさ」だと、私は思う。
中略
『人のための社会をつくる』。
「何もしなくてもよい」観点。
何でも言える、何でも聴ける人間関係で、気持ちを言う、気持ちを聴くこと。
必要なのは、おそらく、たったこれだけ。
どこかの誰かがやってくれるのではない。
そういう社会を望むならば、自分がそうなること。
そういう社会を望むならば、それを望む人と、なり合っていくこと。
私自身も、「社会」なのだ。(20代男性)

社会についてじっくり考える機会が人生で初めてやってきた。
今まで物事の本質とか、人間の本来性とか、やんわりその内容に触れて検討機会があったのに既存の社会観人間観の中でぐるぐる考えて訳もわからずただ道に迷うだけだった気がする。まぁ、それくらいの衝撃というか、すごいことやなぁ。
初日の「責めるとは」はとても重要なテーマでこれが解決すれば世界から争いが無くなると本気で思っている。
考えていくと「責めるのは良くない!」「責めるのはやめよう!」としても解決しないというのは分かる。何かもっと元にある人間観というベースからなんじゃないかというのが見えてきた。
中略
「社会は何もしなくてもよい」
何もしなくてもよいと本当に何もしなくなるのか。
お互いのやりたい気持ちだけでやる社会は実現し得ないのか。
もともとは人の集まりである社会において自分にも他にも強いて、社会にも強いて縛って、それで人を動かそうとする。人を動かすものはその人の意思でしかないのに、それを無視して奴隷のような扱いをする。そんな恥ずかしい行為。
これこそものすごく無理のあることなんだということが浮かび上がってくる。
何もしなくてもよいのだから、ものすごく楽だなー
やりたいだけだと、どんどんやりたくなるなー
どんどん検討したい研究したい感じだし
なんでも言ってもいいからどんどん言える感じ
やりたいことだらけ
楽しみだなー(30代男性)

一人一人が自分の気持ちと意思で動くだけ。
一人一人の気持ちを、感情を、考えを表明するのを妨げるものは何もない。
すべきことは何もない。何もしなくてもいい。
ただ自分の意志でやろうと決めたことをやるだけ。
気持ちは変わる。口に出してみると、誰かに聞いてもらうと、その瞬間に何かが変わる。誰かの話を聞くと、自分の心がそれに反応する。その人のやりたいことが自分のやりたいことになったりする。
これが「自分と人の心は一つ」ということか。自分の中に固定や隔ての無い状態というのはこういうことか。
こういう心の状態でみんなの思いや考えを出し合って、一緒に何かをしたら、どんなことになるのだろう。想像するだけでワクワクする。
僕がやりたいのは、まさにこれだった。(50代男性)
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心の成長

人には、心というものがありますね。「人としての成長」というとき、心の成長を、一番に見ていきたいものです。ところで、その「心」って、一体どういうものなのでしょう?「心の成長」とは、どういうことなのでしょう?
5月の人生を知るためのコース参加者のレポートから、一部を抜粋して紹介します。

   *  *  *

意識上では「幸せになりたい、一人では無理だから周囲の人と成りあっていきたい。本当に皆で幸せになるには何をしようか?」等々浮んでくる。実際の私は、私の意識に上がらないところで、何かをやろうとしているのだろうか? 
人間性を踏み台にして後天的なもの(価値感、常識、善悪、良し悪し・・・・)に踊らされて生きているのだろうか?
4~5才の時、大学病院で、重い心臓病や肝臓病の子をお世話する看護婦を見る機会があった。子ども心に「自分もあんな風にやってあげたいなぁ」と憧れに近い気持ちを覚えたことを思い出す。医師や看護婦、親といった病児を取りまく人的環境に安心していたようにも思う。
途切れることなく与えられることで得た安心という状態の経験から与える側になりたいと思う。それは意志というより心の成長という方が適っている感じがする。
与えられて安心、与えて安心。
授乳中ってこんな感じだった。
(50代女性)

自分自身の実態を知る。人に対して、ある人の行為を見ておかしい常識のない人と、人を裁いている姿、無自覚で人を自分の基準で裁いている。
思いの世界で生きるのか、変わらぬもの、内面(心)、事実、実際の方に行かない図式。
一人ひとりに意志があり、その人の内面(心)があるというのが欠落・自覚なし、相手を動かそうとしたり、とても不自由なことをしていたことに気付かされました。
大きな分かれ道、健康正常(本質)か、不幸に進むのか、その人の行動迄も阻止出来るという、そこまで行ってしまう恐ろしさ、もう終わりにしたい と それだけなのに泣けますね。
(70代女性)
                            
安心と満足について
人の心というものは、人の心によって、人の満足には、「自分のこうしたいといった欲求」が満たされるだけではなく、「人にこうしてほしいという要求」も満たされてこそ、満ち足りた状態になっていくと思う。
これからの子どもたちが、いつも要求が満たされる環境で育つことで、自ずと人の要求を満たしたい大人へと成長していく、そうなることで、道徳や権利・義務の要らない社会になっていくのではないかと思った。
(60代男性)
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自分の状態は、どうなっているのだろう?

私たちは、自分なりに、五感で捉えたことに反応して、暮らしています。捉えたことは、その時々のものだけでなく、過去に捉えたもの(知識や体験など)も大きく関係しているでしょう。
自分が、自分なりに捉えているわけですが、自分が捉えたことを事実、実際であるかのように思い込み、そこからいろんな感情が生じて、怒りや争いになっていることが多いと思います。

5月の「自分を見るためのコース」に参加した人のレポートの一部を紹介します。

自分を見てみると、自分が見たり聞いたりしたことが実際のことのようになって暮らしているのがはっきりした。
ときどき修正しようとしているけれど、ほんとうにここのところをはっきり自覚することが、人と人のあいだの壁をなくし、親しい間柄になるための大事な要素と思えた。
ここのところがお互いにはっきりしたら、何を言われてもその人が捉えたことを言っているのであり、自分が捉えたことを言っているということで、同じと思われることを見ていても反応は異うわけだから、どうしてそう思うのかもっと聴いてみたくなる様に思う。
対立や争いのない社会はこの基本的な、子供にもすぐに理解できることを、実際に顕していくことかなぁ~と思う。(50代 女性)

自分が普段、何を見て反応しているか?
目に飛び込んだ物、手で触れた物・口で味わった物など一瞬にして、自分で、実際として、捉えてしまう。
事柄に追われて立ち止まって考える余裕がないと思っていたが、「事柄に追われる」は自分の中に実際あるのだろうか?自分の中で何かに反応して、そう思っているだけの気がする。
自分の外にある物に対して事実化している以上、自分の中にある経験・記憶・知識などに合わないと、不安になったり、相手を責めたりする、元になるような気がする。
「自分の中の反応だ」という自覚が必要ではないかなぁと思った。(50代 男性)

どんなにはっきりこうだとしてみたところで、自分独自の捉え方で反応しているだけ。<洗ってないお風呂>と、捉えた私の歴史が見える。(ちょっと大げさかな?)こんなこと考えていたら自分がいとおしいっていうか、かわいいなと思えた。自分独自と思えたら、なんか自分に興味が湧くっていうか。周りの人にもその人の一言に人生があるのかなと。
自分も人に対して重くなるのは、自分の中で起こっている自覚がない状態(実際になっている)からきているのかも?
探究会をとおして、明るく霧が晴れていくように心も軽くなってくる。自分の反応の事例を出し合って、笑いとばして、検べていくって楽しいな!こんなこと日常でやりたいなぁ。 (60代 女性)
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