自分を客観的に見えると、多くの愛情に気づき始める

「内観」とは、「内を観る」こと。  
幼少時から現在までの自分と向き合い、記憶を辿りながらその時その時、どうだったかを具体的に調べていきます。
自分が自分を客観的に見えるようになると、どこででも、誰とでも、幸福に生きていける力がついていきます。
穏やかで幸福な人生のスタートです。
サイエンズスクール開催の内観コース。
3月31日~に参加した人の感想を紹介します。

20190416_105527-300.jpg◆嬉しすぎる自分・気にしている自分、自分自身が明らかに!

父母からはいつも、どんな時でも、色々してもらっている事がすごく多くて言葉が出ないほど感謝の気持ちが強くなってた。
してあげた事が何も思いつかなくて泣いてた。

皆に対する自分を調べた時はもう (´;ω;`)ブワッ ってめっちゃ泣いてたなー。
昔の友達とか、もう全然思い出す事も無かった人々が記憶からまた出てきて、すごく嬉しくなった。
そしてそんな色んな人を知られた機会を作り上げてくれた父母家族の事がまた嬉しくなった。
アーもう数えきれない、考えきれないほどの事があって嬉しいわ、って感じだった。

「嘘やごまかし」の事を調べてみてたら、自分はあまりそんなのやってないし気にしてないって思っていつも気楽に過ごしてたと思ってたけど、無意識に自分をごまかしてる事がものすごく多かったように見えた。

意識して自分にごまかしをしていた時も色々あったけど、「こんなの軽いごまかしだからいいでしょ」っていつも思ってたので、気付かない内に本心ではやりたくないのにやってた事がいっぱい集まってるのが見えた。

内観に参加して人にどう見られるかとか、認められる事をめっちゃ気にしてる自分がいるって明らかに見えるようになったと思う。(20代男性)


◆客観的にそのまま見る → 気づきの体験を!

特に自分が固定した印象や強い感情を持っている記憶に関しては、捉え方を変えようとするわけでもなく、ただ具体的な記憶を調べることに集中することで、自然と自分が持っている捉え方に気づく経験があった。

記憶の中の自分に対する固定した捉え方に気づいていくことで、自分の中で起きている反応が変わっていくということも起きてくるように思う。

日常の生活でも「こういうことか」という解釈や結論を出すよりも、ただ冷静に客観的に見るほうに重点をおいてやってみたいと今は感じている。(20代、男性)
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内観コース | - |

誰にとっても快適な、「健康な社会」を探る!

人間社会とはそもそもどう創られているのだろう。
始まりは、よりよく快適に暮らそうと人と人が寄り添い社会をつくってきたのだろうが、今の社会はどんな現状といえるだろうか?
一人ひとりの中に、社会はこうあるべきだ、ルールを守らなければ社会は混乱すると「人を縛ろうとする考え方」がないだろうか?
その考えは、「〇〇をしてはいけない」「〇〇をしなければいけない」と、縛り合う不自由な暮らしの元になっているのではないだろうか?
そのために人が人を縛り、社会が人を縛り、自分自身が自分を縛る、「自発的服従状態」にある。
縛り合いから解放へ! 自由な人、自由な社会、本来の人と社会を探究していくと――
3月24日から開催された「社会を知るためのコース」参加者の感想の一部を紹介します。

20190409_121220.jpg◆恐怖心が蓋をする、蓋の下にある素直な気持ち、本心は?

本当に自分がしたいことというのものを恐れている。
恐怖心が本心や自分の自由意志を邪魔していた。
いいようにいいひとに見られる。
それで安心しようとする。
ただただ知らないというところから現れる自分の状態、社会の状態。
人間の考えというものを知らない。
たったそれだけ。

人間本来、強制・束縛をすることができない。
思い通りに動くこともない、それはただそう思っているだけ。
自分自身がやらされた・やめされたと思っていても実際は自分が意識でそう思って自分自身で自発的服従状態で自分の意志でやっているなぁ。
自分が意識でいくらあの人をやらせたと思ってその人がやっていても、その人はその人の意志でやっているなぁ。
ただそれだけ。

だから人にこうしてほしい、やめてほしいというときも、自分の気持ちをストレートに伝えることだけでスッキリと生きていくことは簡単にできる。
また感情が高ぶってやらせたり・やめさせたりはだめだと自分自身を縛って、言えない本心で生きられない状況を作るということも日常あるけれどシンプルに生きられるのではないか。(20代男性)
20190409_121626.jpg◆安心をベースに、本心と知性で創られる、新しい社会のプロセス!

探究してくる中で、現状の社会が、所有意識がもたらす恐怖心や警戒心、不安をベースにして成り立っているのが観えてきた。
人に強いたり、束縛したり、偏った平等感で成り立つ社会の中に生まれ育ち、自分が自発的服従状態であることを知らずに、人や社会を何とかしようと、いろいろやってきたのだなと・・・、
安心をベースに、本心(自発的自由意志)で生きる人は、無理がなく、イキイキとその人らしさを発揮するなと、容易に想像することができる。
しかし、それができないのは、そもそも「人間の考え」を知らないことが起因していた。

「社会を創る」と聞くと、今までは活動のように「やること、方法」を考えることをしてきたが、この6日間を通して感じたのは、先ずは「知ること」だなあということだった。
サイエンズメソッドの1番目にある、「人間の考えを知る」ということが、今回のコースではっきりとしてきて、考えを知ることで、「では、事実、実際はどうか」に関心が向くということ。
探究するということがどういう事なのかをまた少し知れたような気がした。

知ることで現われ出る、人の本心と知性で創られる社会。
本心で生きる人に触れ、響き合い、寄り合って社会のベースがつくられる。
そんな気風の社会が、ひとりひとりの本心の顕れをサポートし、ひとりひとりの本心が発揮されることで、社会もさらに豊かに変化を続けていけるのだなあ。

サイエンズメソッドを通して人を知り、社会を知り、自分を知り、本心に沿いながら、身近にもそんな仲間を見出していく。
互いに持ち寄り、出し合い、聴き合いながら、新しい社会づくりのプロセスを進めていきたいと思う。(40代男性)

以下のページから社会を知るためのコースの案内が読めます。
http://www.scienz-school.org/hp/course.html#h
社会を知るためのコース | - |

不安や警戒心の元、固定した「考え」を知る探究を!

人に対して不愉快な感情が出てくるのは何故でしょう?
人に対する警戒心からかもしれません。
自分自身を観察していくと、自身の育ちの中で不安や恐怖の体験から警戒心を身につけ、自分を守ろうとしてきた実態が見えてきます。
観察によって、そんな自分自身が見えはじめると、自分の不自然さに気づきいてきす。
そして、安心できる環境、満足しながら暮らせる環境、本来の育ちの環境づくりへ、そうしたい気持ちが自然と湧いてきます。
健康な暮らしは、「自分を知る」ことからのスタートです。
3月24日からサイエンズスクールで開催された、「自分を知るためのコース」参加者の感想の一部を紹介します。


20190403_170543-300.jpg◆不安や警戒心が、身を守る考えをつくり、自分自身を縛っている!

自分の中で見えてきたこと
★「嫌い」について
この間、「この人嫌い!」って思うことが何度かあった。
どうなっているのだろう?
「この人、私を受け容れてない」と思う時に、「この人嫌い」が出てくる。
その人が怖くなる、邪魔になる。
なんで怖いんだ?なんで邪魔になるんだ?
“自信のある考え”をやっていて「人に認められることが安心」という考えが見えてきた。
私を受け容れない人は、その安心が脅かされるように感じてしまうんだ。
その人は私の安心を脅かす、私の安心を守ろうとして「嫌い!」と反応する。
「嫌い」は、不安、恐怖からきている。
そしてその不安は、「人に認められることが安心」としている私の“信じている考え”が生み出している。
「不安」「嫌い」がどうなっているか、少し明らかになった。

★「できない」について
自分の考えで自分を縛っている。
「あなた嫌い!と面と向かって言えない、できない」
実際は言うことも言わない事も出来るけど、「それはしちゃいけない、絶対してはいけない」という考えが自分を縛る。(50代女性)


◆人間の考えで“できない”と決めている窮屈な自分、固定~の解放を!

5日目、“自信のある考えについて”がその夜の宿題テーマで、その日までは“できない”の固定が強かったけれど、やってもいいし、やらなくてもいいとなった時に出来ないという自信が揺らぎ、決めたことに随分頼っていることに気付く。
少し不安を持ったけれど、縛られていた・縛っていたものから解放されるような感覚を持った。
その頼っていたことが“人間の考えだ”と知ると、ねばならないが無くなり、人間の考えに囚われずに、実際・事実をそのまま見て、知って受け止められると思った。
そうするとただそのひとのどうしたいかの気持ちが元から出てくるのだ、と頭の理解でなく底のほうから出てきた感覚だった。(40代女性)
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◆「消し忘れ」というフィクッションを、事実にしている「考え」とは?

~実際はどうかに関心があるだろうか~
家のリビングのテーブルの下に、足元を温めるための小さな電気ストーブが置いてある。
ある日夜中に目が覚めて、リビングを通ったらストーブが点いていた。
それを見て「あ、消し忘れている」「私は消したから、息子が使ってそのまま点けっぱなしにした」と思い、一言、言いたくなって、
朝、「ストーブ点けっぱなしになってたよ、気をつけてね」と息子に言った。
すると息子は「ウニ(飼っている猫)がストーブの前に座っていたから点けておいた」と答えた。
それを聞いて「私の勘違いだったんだ、息子は優しいなあ」と思った。

このことを人に話す時、「私がストーブ点けっぱなし、消し忘れだと見たけれど
実際は息子が猫のために点けてあったんだよ」というふうに(実際)という言葉を使っていた。
ここでいう実際は、ストーブの実際、息子の実際、そして私の実際もある。
ストーブとしているものの実際は、言葉で表現するとしたら、
「消しても消さなくてもいい」というようなものだろうか。
ストーブは点けてあってもいいし、消してもいい。
それに対して私は、「電気は使ってなかったら消した方がいい」という考えを
、自分の考えだという自覚がなく、暗がりに赤くなっている様子を見て、
「消し忘れ」という事実を作り出していた。
そして、息子は消し忘れたのではなく、あえて点けていたのだ。
そしてその時の私の実際は、一人で解釈して一人で「節電しなくちゃ」「一言言わなくちゃ」とバタバタ動いている。(60代女性)
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