安心・満足・分かち合う・幸せへの道を歩む

人は人と人の中に産まれ、人の中で一生を過ごす。
人の中でこそ、安心していられるのではないでしょうか?
人に見守られ、人にやってもらいながら・・・満たされ・自らの内に人に資する欲求が発露され、人と共に仲良く暮らしたい欲求が・・・?
サイエンズスクールの協賛で行われた、8月10日からのアズワンセミナー参加者の感想の一部を紹介します。
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正悪の判断無く、自分の話を聞いてもらえることで、得られる安心感を久し振りに味わわせてもらった。
また、人の話を自分も聞くことで、自分にも変化が生まれるのを実感できた。
自分を在りのまま受容したい
子どもを在りのまま受容したい
親と和解したい
妻と友人とも、これからも話し合って行きたい(40代男性)


今回私がこのセミナーに参加した動機は、夫との家庭生活を見直したいと思って参加しました。
いつも眉間にしわを寄せている私、いつも不機嫌な顔をして、良くないなと思いながら、4年ほど過ごしていました。
セミナーで感じたことは、「その場を離れることの大切さ」冷静に「 」を掘り下げて、探求するためには、一度その場から離れて。「考え、探す」ためだけの時間を設けること、帰宅してからやってみるのが楽しみです。
それから、親しい間柄になれる人の存在をありがたく感じました。
これから自分の事を伝えたり、相手のことを聴くことが出来るかと思うと、わくわくします。
目の前で起こる(私にとって!)良い事も、悪い事も、すべては、自分の手の中にあるのかもしれません。(40代女性)


まず、人の考え、自分の考えであることを自覚することから始まり、そこから、実際はどうか、ということを考えることによって実際に起こっていることは、どういうことなのか、自分を整理すること、自分を知っていくことが出来たように思います。
決めつけや思い込みとは何か、決めつけがあるとどんな状態か、決めつけがないとどうか、幸せとは何か?
自分自身を探究すると同時に、探究する人がどのように変化するのかを見たり、実践している方のお話を聞いたりすることができたのも、とてもよかったです。
普段、何かのテーマについて深く自分を見ていくという事のみ時間を使うという事は、ほとんどないので、とてもぜいたくな時間の使い方をさせていただきました。
人にとっての幸せとは、本来の自分自身でいられて、自分の力を発揮することを楽しんでいる状態なのかなと思います。(40代女性)
- | comments (0) |07:03

自分の中を、そのまま観ていくと、自分を成り立たしているものが観えてくる

自分を顧みる、ゆっくりと、落ち着いて、認識のもっと奥、自分自身を見ていくと、もともとあるものが観え始める・・・自分の成り立ちにゆっくり気づき始めていく。
サイエンズスクール、8月2日~内観コース参加の人の感想文、一部を紹介します。
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終わった今、とても貴重な時で、始まる前に感じていた長さは全く感じていず終わることが残念にさえ思っている。
こんなに丁寧に自分に関わったのは、生まれて初めてもかもしれないくらい、自分に丁寧に関われた。
座っている間に自分の身体の部位を何度も丁寧に触ったのも初めての感触な気がした。
自分と丁寧に関わる以上に大事なことがあるのか、日々一体どんな事を大切にして、大事なことをおろそかにしているのか、とても大きな気づきだった。

母親との最初の調査は、やはり“怒り”の源、母のおかげでどんな目にあったのか、それが亡くなって8年たった今もどんなに自分を縛っているのかそんな気持ちだった。
でも、思ったよりは感情的にならずに進められたことに驚きだった。
そして、自分が認知できていなかったお世話になったことが、たくさん出てきた。
私は10月生まれなので、ちょうど今のような季節を大きなお腹でそれも一人で過ごしていて、それを乗り切ってくれたおかげで私はこの世に生まれでることが出来た。
そしてお乳を飲ませ、おしめを替え、服を着させ、お風呂にいれ、泣いたらなだめてくれて寝かせてもらって、そして長女だったのでそれらを全て揃えてもらって私は育つことができた。

そして、自分の人生を「嘘とごまかし」をテーマに内観。
3日目に入ったせいか、集中力が高まっているのか次々幼稚園時代からの人を思い出す。
出来事と人が走馬灯のように浮かび上がる。
そして出るは出るは、自分をごまかしてきたこと。
言えなかったこと。 やらなかったこと。
寂しいくせに、その場に100%関わっていないと自分から距離を置いてしまい寂しく居続けてきた。
自分からは入れてと言えない、本当に困っていても困っていると言えない、いいカッコをしてしまうがその結果に喜びはなく不満を収めてしまってきた。
本当は私どうしたかったのか、その自分の選択は自分の幸せから遠のいていたのではないか、そしてそのことは今も続けているのではないか。
でもすべての時代を振り返り、おもい出せたのはとても幸せなことだった。(50代女性)

今回の内観で一番に得たものは,自分が我欲の強い人間であることをはっきりと自覚できたことである。
我欲は,自らの普段の自己中心的な言動ともつながっている。
また,虚栄心や,自己顕示欲ともつながっているように感じる。
自分のそのような立ち振る舞いは,時として周りの人々の気持ちを悪くさせたり,傷つけたりする。
場合によっては,その人との関係を決定的に悪くすることもある。
それはまた,自分の幸せ感や喜びを阻害するものでもある。
これまでも,自分は我欲が強いと自覚できるチャンスは多々あったと思うが,それを覆い隠し,自己弁護でごまかしてきた。
またこれも我欲のなせる業であるかと思う。
内観を通じて,これまでの人生は,我欲が少なく,穏やかで,自分に無償の愛を傾けてくれる人たちに囲まれてきていたということも自覚できた。
母,父,弟,祖母,親しい友人たち,いずれも,である。
今頃の気づきでは遅いのではとも思うが,これまで無自覚で過ごしてきた日々を挽回すべく,まずは身近な人々に対して,自分がいただいた愛のお返しをして,さらには,その周りにいる人々や自然環境に対しても,我欲に溺れることなく,愛が傾けられるような人になりたいと思う。(50代男性)

高校時代でしてもらったことを内観、して、高校の恩師を思い出していた。
してもらったことを思うことは、不幸を幸福に変える魔法だった! 
私は、十分に配慮された教育を受けた少女であり、国語の先生の示してくれた思いやりで、私の定時制高校の生活は、苦から愛情いっぱいの高校生活だったことを、内観で思い出した!
決して不幸な少女ではなかった! “してもらったことの回想”は生きる力でさえある!

最後に・・コミュニケーションスタイルの変化!?
今回の内観を通じて、コミュニケーションは心と心の双方向と今更ながら気付く!
この内観の当初、“言いたいことを言っていた私自身”を見て、 一方通行だ! これでは心と心が通い合わない!と気づいた。(70代女性)

今回の内観コースに参加した目的は、自分を深く観察して自分が何を考えてきて何をしたいのかを知ることでした。中でも一番知りたかったのは、父母に対して自分が本当はどう思っているのかでした。
内観を進めるうち4日目あたりに「自分に対する嘘、ごまかし」を調べている最中に、自分があまりにも多くの方々にお世話になっていることに今更ながらに気付きました。
そのあと、感謝の渦に巻かれてしまい、自分が思っていた不満や葛藤はそのお世話になったことに比べると宇宙の中の紙屑くらいに思えて気にならなくなりました。
この内観コースに参加させて頂く目的の一つに父母に対する自分の感情を観るということがありましたが、何よりもこの肉体を産んで頂いたことへの感謝、そして育てて頂いたことに比べると、色々な負の感情は考えることですら無かったことだと思いました。

最終日は、本当に安らかで穏やかな気持ちで迎えることが出来ました。
今後は自宅に戻っても時々日常内観を心掛け、今回の気づきを忘れないようにしてきたいと思います。
また今まで多くの「して返せなかった分」を今後の森づくりやコミュニティづくりに投入して、未来に役立てたいと思います。(50代男性)
- | comments (0) |16:55

現状の自分と社会、誰でもが自由に生きられる社会って?

自分の気持ちや意志を、そのまま見たり探ったり・・・・不自由な心の状態で暮らしていないだろうか?
人としての自由欲求・・・満たされる社会とは?
7月29日~の、社会を知るためのコースに参加した人の、感想の中から一部ですが、紹介します。
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法律、民主主義、合意形成など一見言葉の印象からはクリーンなイメージがあるようにも思うが、実態としてはどれも決まったことに人が従う、やらせる、やめさせるという中身のもので、それに沿わなかった時に責められたり、罰せられたりでの恐怖によって人が動くというのが今の社会のように思う。
誰もが自由や豊かさを求めてそういう方向に向かおうとする作用があるように思うが、権利を拡大すると自由になり、所有が増えると豊かになると思ってそれらを追い求めてやってるように思う。
しかし、実際は権利が増えることによって義務で従う不自由な人が増え、所有が増えることによって所有者以外の自由に使えない人が増えていって本当に求めているものと逆行してしまっているのが現状のように思う・
法治国家で先進国でクリーンなイメージがあっても、実際は不自由で人に対して野蛮な社会というのが現状のように思う。
学校なども通しながら自分の意思や気持ちとは関係なくやることがあると教えられて従って身につけて生きてきたように思う。
自分の意志や気持ちと関係なくやることに従ってやる状態を自発的服従状態のように思う。
自分も小さな頃から外のものに従って生きてきて、長い間自分がどうしたいかということに目を向けないでやってきたように思う。
おかげで気持ちがなくなった訳ではないだろうが、気持ちに目が向きにくく、意識上に昇ってきにくい体質になってるように思う。
やることがあるというのは意識上で、実際は、やりたい、やって欲しいというシンプルな人の気持ちがあるように思う。
「~やって欲しい」というのに対して「予定がある」と答えてたりすることがよくあるように思えた。
逆に相手から予定があると聞いてそうかとそれで諦めることもある。
全然気持ちや意志とは関係ないことを言ってるけどそれも自覚がなかったりする。
特に悪感情も伴ったりが無くあまり問題視されなかったりするけど、ここら辺が見直されていかないと本当に自発的服従状態から自発的自由意思には成っていかないなと思った。
気持ちと気持ちのやり取りっていうとシンプルで簡単そうだけど、長くやって身についたそうじゃないやり取りが染みついててリハビリが必要だなと思った。(20代男性)
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責任・権利・義務・やらせる・やめさせる・・・の探究している時、
事がうまく運ばなくなったり、不都合が生じた時に、そうなった原因を誰かに負わせるために、前もってその任に就かせるのが責任者というのが見えて来た。
お店とお客の関係・会社と社員の関係・親と子の関係でも、今の社会は槍(権利)と盾(義務)を各自が持ち、権利と義務の中で暮らしているように見えて来た。
やらせる・やめさせる状態も、人に心や気持ち・欲求・意志などがあることを知らず、現象面を捉えて、服従状態を強いている状態のように見えて来た。
責任・権利・義務・やらせる・やめさせる・・・で生きている人は、人(自分も人も)の心・本体を知らない野蛮人といえるのかと思った。
自分の中の自発的自由意志を知らずに、自分の中に培ってきた自他を縛る観念・・・自発的服従状態の正体を知りたいと思った。
誰でも本来の人として生まれ、野蛮人で作る社会の中で育つ過程で、少しずつ野蛮人になってきた自分の姿が少しずつ見えて来たように思った。
幼い頃からの育ちの中で、恐怖から、周りの人の顔・態度を見ながら、人間らしさを失っていったように思う。
いい子だね、いい人だねと言われる安心感を得つつ、自発的服従を加速してきたように見える。
人として生まれ、野蛮人に変身(心)していったように見える。
今まで培ってきた自発的服従の癖が、どこまで矯正できるものなのか・・・分からないけど、自分も人も何もしなくてもよい、所有・権利・義務・責任などで縛らず、本当に縛りのない世界の中で、野蛮人から人間復帰したいと思う。(70代女性)
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何もしなくてもいいのに、スーパーではたくさんの野菜が、お菓子が、日用品が並び、ジュースは冷やされて置かれている。
レジにはいつでも人が立ち、駐車場では警備員が案内してくれる。
トイレはいつもきれいに清掃され、買い物しやすいようにかごも用意してある。
それによって、僕たちはどれだけ楽に生活を送ることが出来ているだろうか。
スーパーだけでなく、身の回りのもの全てがそうだ。
洋服、歯ブラシ、ごみ袋、いす、家、食器、食事・・・
そのひとつひとつに誰かの想いが込められている。
どれだけのものを受けて生きているのか、想像もつかない。
そういう中で生きている。

やることや役割があってそれをこなしていく。
それをやってない人に責めることが出来るのは、その人を人として見ていないからだと思う。
それは自分自身すら人として見ていないということにもなる。

どんな国でも、どんな人でも自由を求めているし、平和でありたいとも願っていると思う。
でも、どんなに強く願っていても、それを所有・権利という形で人を縛る事で手に入れようとする。
だから、どんなに活動しても自由にはならないし、平和にもならない。
不安や恐怖で人を圧迫して、従わせたり強いたりしても誰が満たされるのだろうか。
自分の自由のために、相手の自由を認めない・縛る先に本当の自由があるだろうか。

人を動かせるという見方ではなく、自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか気持ちを伝えて、聞いた人もそれを聞いて自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか気持ちを伝えていく。
そういう営みの中から、したいことを実現していけるといいな。(20代男性)
- | comments (0) |16:48

当たり前になっているものから自由へ

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日常、家族や職場や友だちとの間で、どんなやり取りをしているのだろうか? 

人と仲良く暮らしていきたいと、誰にでもある気持ちで暮らせているのだろうか?

相手との間に優しい気持ちが通い合っているのだろうか?

日常から少し離れゆっくり自分の中をみていくと、自分の気持ちや、相手の気持ちは?

観えてくるものは?

7月22日~の自分を知るためのコース参加した人の感想の一部を紹介します。

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見たり、聞いたことが自分の中で認識される過程をゆっくり調べた一週間だった。

どれを見て聞いても、どこまでも自分の中の出来事であることが明確になりながら、

自然と実際に関心が向かう状態になっていくことが楽しかった。

○○○さんが使い捨てのプラスチックのスプーンを食卓の上にのせた。

その瞬間、「使い捨て用品を使うのは、環境にも良くなくて、一度使って捨てることはもったいない…」という気がした。

続いて、「あくまでも私の考えだね、○○○さんは何をしたかったのか」と思っていた間に、ふと、「あくまでも私の考え」という部分がなんだか心にひっかかった。

私の考えだとしているが、「誰もがそう思っている常識」という考えが根底にあるんだと気付いた。

みんなの考えがそうだというのがベースにあれば、自分も知らないうちに自分の考えに自信がある状態になって、私の考え方と違えば、相手が間違ってるとなってしまうんだな。

目が覚めて時計を見た。 5時20分。「あと1時間半ほどもっと寝れる~」と思って眠りを求めた。

その瞬間、本当に寝たい気持ちより、寝れる時に寝ようという考えで動いていることが見えた。

9時からコースが始まることに合わせて、7時から食事、掃除、レポート...などしなければならないことが決まっている感じが少しでもあるように感じた。

しなければならないことが決まっているような考え方のベースでは、主体性を失っていることが見えた。

自分が外の基準によって動く場合では相手の行動も、外の基準で見て是非に関心がいってしまう。

そんな状態ではその人の気持ちや状態に関心が向かないのが見えた。

まず、自分が主体的な状態になると、実際の相手もどうかということが見えやすい気がした。

実際に関心が向ける状態では、善悪を判断したり、相手を縛ったり、動かそうとしたい気持ちが自然には生じないようだ。(30代女性)





「昨日の夜は土砂降りだったよ。 そうなん?自分は寝てたから知らん」日常はこれをやっている。

実際、土砂降りだったのか、小降りだったのか、降らなかったのかと白黒つけようとする。

自分の捉えた「土砂降り」か自分の思う「小降り」か実際はどっちだ?って関心は自分の捉えたものにしかない。

その時その場で言葉を発して伝えようとした相手の中身(実際)には関心がない。

自分の捉えたこと(頭の中のこと)に決着を付けようとしている自分の姿が見えたら、そうしようとしなくても自然と知りたい気持ちが湧いてきて相手を聴きたくなるようだ。

相手も思ったことを言っている。

自分も思ったことを言っている。捉えたことしか、ない。

「人間の考えであることの自覚から始まる」

自分の感じたもの、捉えたもの、認識したものが実際のことになっている。

だから、コーヒーのことを知っている。 分かっている。 これはコーヒーだと言う。

自分の感覚や認識に無意識のうちに自信を持っているようだ。

人間の認識程度で捉えられるほど事実実際は薄っぺらくない。

人間の考えであることを知る、自覚するとは人間の領域を知る、人間の分をわきまえるということではないかと思う。

終わりに、自覚とは思ったり思わなかったりしたり、忘れないようにすることでなく自らそうなる状態のことを言っているのかと思う。

それが出来る環境の中で、それが出来る環境を作って、共にそうなりあって、人間らしく生きたいと思う。(60代男性)





久しぶりに日常から離れて、いろんな角度から探究できてよかった。

日頃、相手の実際は? という意識はあっても、自分が捉えたものが実際となってたら、いくら知りたいと思っても、知る方向にはいかないな~と。

今まで育ってきた中で思いや考えを実際だとしてきた部分や無意識に当たり前としている部分が根強く? 根強くあるな~と、そういう自分に気付いたことも大きいかな。

子どもは感じたことや本心を言葉にしてたり、行動したりで、表現するけど自分は固定した考えでやりとりするから、かみ合わないというか、子どもは反発したり、満足しなかったりで、私は心がモヤモヤしたままで、あ~またやってるな~(自分の状態)と同じことをくり返してしまう。

私の中には相手の実際に向いていきたいという本心があるからモヤモヤしたものが残るのかな。

自分の考えを実際としてやる事があるとか自分の外のものに合わせて動いていたり、子どももそこに合わせて動かそうとしたり、考えを事実化して子どもに伝えたりする。

全部、自分の頭の中で起こってること、決めてることなんだな~と。

実際は自分も相手も一人一人に意思や本心があるのに、そこに関心が向かないのって何か淋しいな~。

人間の考えであるとの自覚があったら、自然と実際の方に心が向いていく感じがする。

知るとか悟とか、どんなかな~と分からないけど、日常の自分がどう捉えてどう反応しているか、客観的に観察することで、知識としてじゃなく、そうなるところに近づいていけたらな~と思う。(30代女性)





4日目の夜、目が覚めると、もの凄い勢いで雨が降ってるように感じた。翌朝、食堂に集まってくる人に「昨日は凄い雨やったなあ」って話しをすると、「私もびっくりして目が覚めた」ってひとや、「窓をしめてまわったよ」ってひとや、「ぼくは何にも気づかんかった」って人がいた。

僕の聞き方をみてみると、「雨が降っていた」っていう僕の反応に関心があるから、同じような反応に感じる人の言葉を聞いて、「やっぱりすごい雨だったんだ」って自分の体験をアップグレードしているような聞き方をしていた。

そうなると「なにも気づかなかった」という人の感覚には関心さえ向けなくなる。

これはいったい何をやってんだろう。

「これぐらいの体験をしたら、実際だってできる」「これぐらいの事は、みんな知っている」「こういう場合は普通こう反応する」そういう自分に決めているものがあるな。「普通」とか「みんな」とか全部自分の捉えたことやのに、その大前提があることの自覚が、全くされてない状態だと気づいた.

「普通はこうだ」「この人はああだ」「みんなはこうだ」このことを組みたてたり、正当性を得ようとするのにもの凄いエネルギー使ってきたように思う。

そうやって組み立てた自分の捉えた「みんな」の範囲で生きてる自覚がないんだな。(40代男性)
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