もっと、自分らしく~自分を知るためのコース

自分らしく生きたい、でも、自分らしさって何だろう?

「自分らしさ」「自分らしく」を捜し求めたり、自分ひとりで考えてみても、わかるようなものではないでしょう。みんなの中、人のなかで、自然に現われてくるものなのかもしれません。また、気づかない縛りや決めつけから自由になることで、もっと自分らしく、もっと軽やかに生きられるようになるでしょう。

9月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



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自分の回路の根底に「善し悪し」の概念が相当の強さで存在しているだろう、ということに気づきました。

目の前の現象や、行為をとらえる際のベースになっているとさえいえるような「善し悪し」。

しかも、それはふと立ち上がる“思い”さえも支配していました。

そんなことを思ってはいけない・・・・。子どもを亡くした時に、自分で気づいてしまったある思い。

母親だったら、絶対にそんなことは思ってはいけない・・・。わたしは、それを30年以上も忘れることなく、心の中にしまい込み、自分を責めてきました。

あまりにも自分を知らない、という実態。 というのか、自分の知り方を知らなかったということなのかもしれません。(50代女性)



自分の中で起きるすべてが、どこまでも、自分の感覚、自分の考えという自覚があるか、からが始まりだなという気がした。

「自分の考え」というのが鮮明になれば、鮮明になるほど、実際の自分に、実際の世界に対して、関心が進むことになるのではないかな。

「自分の考え」という自覚が消えるとき、断定することになったり、自分の考えに自信を持つようになったり、自分が思ったのが変えられないことになるかなと思った。

一つ一つのテーマで、探究してみて、「自分の考え・感覚」という自覚が、なぜ消えるのだろうか考えるほど不思議だった。

「 自分の考え」は、考えだということがもっとも易くて,簡単な感じだが、あえて事実化して、事実化からもともとの状態に戻るのがどうして難しくなってしまったのだろう。

「知った」「断定」「事実化」「善悪」「当然」などが、考えの中でいくらあると考えても、追求しても、実際の世界は、考えの世界とは別だろう。

実際の世界にない幻想を見ながら暮らしているんだと思う。

実際の世界が見えないほどの人間の考えで。。。 (30代女性)



そうなってしまってきているのは、自分を含め、そもそも人は人間はどういうものか、どうなっているのかというのを”知らない” ”知っているつもり”というのもあるのだなと感じる。

そのあたりがハッキリしてきたらずいぶんと楽に生きられるような気もするし実はとてもシンプルに感じる。

そこで「知っている状態」になるとまた同じ回路の考え方で、固まってしまってその先がなくなる。

どこまで行っても「知っていく」ことでやわらかく生かしていけるのかな。

“決めつける”というのと“決めつけない”というのは同じ回路な気がする。

決めつけていた自分を否定して、蓋をし、そうなってしまっていることを否定する感じ。

思ってしまった自分が悪い。

それは2重のレッテルを貼っているようなもので決めつけよりも複雑化させてしまっているような感じだ。 とても無理がある。

そもそも“決めつけること”自体が可笑しく思えてきた。

出来ない気がするのだ。

自分がどのように捉えているのか順を追ってみていくと…”自分”ってなにをさしているのか見ていくと…そもそも決めつけることなんて出来るのだろうか?

“決めつけないようにしよう”ってとても無理があるように感じる。

決めつけること自体がなくなってくると独自の回路も徐々に書き換えされていくように思う。(30代女性)



人間が持っている考え、認識、言葉、記憶、心、知性など個人の中にありながらも世代、地域、社会の中で影響し合っていると思った。

一度その集団の考え方、価値観などをインプットすると無意識にいつでもそれを踏襲する。

そうなると、自分にとってそれがどういうモノか?

そのことで何がどうなっているか?

見直すことが難しくなるように思う。

「私はこう感じるけど、本当はどうだろう?」とならないのは、単にそれを知らないからだと思う。

それは人の中で自分がセットしたように、人の中で気づき調べていくことのように思う。

自分の存在を知っていき、考え、記憶、言葉などの性質を知っていき、自分の現状を知っていくことが人らしく生きていく上で欠かせないと思う。

良し悪しの評価ではなく、只々自分がどうなっているのか?

その中に何があるのか?

子どもを見守る親のように自分を知っていきたいと思う。

今までに何回か自分を知るためのコースに参加したが、今回は、自分でもたくさんの人の中にいて安心している自分が浮き彫りになってきた。

日常の私を取り巻くすべてのモノの中から現れてきた。

それは私一人では現れようのない自分だと思う。

こんな風に人の中でどこまでも知っていける。(40代女性)
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人としての成長・・・成長とはどういうことだろう? 

人は本来、知的な欲求を持ち、自分自身のこと、自分を取り巻く世界を「知る」ことで、人として成長していくのではないでしょうか?

自分を知り、自分を支えている人や物や社会を知り、本当の願いや自分の生きる目的を知ることで、より良い日常生活、ひいてはより良い人生を送ることができるようになります。

自分を見つめ、本当はどうなんだろうと調べる知性が育つことで、人間関係や周囲の環境に振り回されずに、自分の生き方で、周囲の人と共に歩んでいけるようになると考えています。

8月「自分を知るためのコース」に参加した方の感想の一部を紹介します。



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いろいろな視点で検討していくなかで、両者はまったく別物であるが、人間(自分)は、自分の感覚、思い・考えを事実としてしまうことが多々あり、そのことでいろいろな問題が発生するのが見えてきた。

自分の考え思いが「そうだ」「わかった」「知っている」など固定化した時点で事実としたのではないか。

「できない」「やめられない」など未来を予想して断定した時点で、事実としたのではないかということが、検討する中で見えてきたと思う。

「自分を知るためのコース」の自分を知るとは?

まず自分を観察して、その時の自分の考え思いが、固定したり、事実となったりしているのか、それとも決めつけずに「実際はどうだろう」と探究しているのか、どちらなのか知ることが自分を知る事のスタートではないかと思う。

サイエンズを知り「実際はどうだろう」という知性を知った自分。

人として知性と心の成長を考えるようになった。

そのためには日常のなかで「自分の実際はどうだろう」と探究していくことがその第一歩だと思う。

何才になっても人として成長していける可能性があると思うと、これからの人生が楽しみになってきた。(50代男性)



「私はものごとをどう捉えるのだろうか」とニュートラルな状態が、決め付けのない自分を知る状態なのではないかと思った。

“知る”とは、いつまでも「知っている」状態にならず、答えを決めつけずに常にゼロから観察すること。かな。(40代女性)





決めつけようがない。唯々限りなく知っていくだけの、また別の次元の「知る」の世界。その「知る」が始まるところから、人間を含んだあらゆる物事の実際に向き合い、知れば知るほど、そのものを大切にし愛する心が育ち、その心から自ずと現れる行為で成り立ち、営まれる暮らし・人間社会が実現する。どこまでも果てなく豊かになり、成長していく人生。

「人間を知り、人間らしく生きる」の意味が自分の中でもうちょっと繋がったように思った。(30代女性)
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自分の成り立ちを知ろう 自分を知るためのコース

「自分を知るためのコース」は、自分の行動や思考・感情などを、自己観察し、科学的に分析するコースです。

自分の存在、成り立ちや背景、あらゆるものとの関連を知ることで、心豊かな自分になっていきます。思い込みや決め付けから解放され、人間らしさを発揮し、知的に幸福を探究していくための基礎コースです。6泊7日で毎月開催しています。

7月(7/23~29)の「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



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私はどうして今の私になったのだろう。

いくつもの???が膨らんだ7日間だった。

自分を知るということは、自分という個から抜け出し、無限に広がる世界に踏み込む一歩なのかもと思った。(40代女性)



やれているか?

間違ってないか?

おかしい事言ってないか?

いいか悪いか、正しいか等で、考えに行くと

不安や焦燥感、(劣等感・上下感・優越感)

何かに反応してイライラする感じ。

やれているか?からでなく

とりあえず、観てみよう

やってみようっていう方に行くと

不思議とストレスが和らいでいった気がする。(20代女性)



記憶や経験で作り上げた根拠もまた、自分の感覚であり、事実ではない。

他の人と、共通のものとして通用しそうな、一般概念、色、ものごとの形容なども自分が捉えた感覚であるが、それを自分の外にあるもの、自分の感覚外のものとすることでその考えに自信をもち、自分が正しいとしてしまう。

自分の捉えた世界があれば、他人が捉えた世界もある。

捉えたものが自分独自のものだと自覚し、他の人に通用するものではないと気づくことで、決め付けや思い込みが減っていき、よりよい関係を続けていけると思っている。(40代男性)



「知った。」「わかった。」という固定的な考えが生じるメカニズムが以前より明らかになった感じがする。

隔てというのもあるだろうが、基は固定の考えから来ているように思う。

このコースで触れてる部分は人間問題の根本の部分だなという感じがした。

人間の頭の中のどの部分で、固定が生じてるかを改めて調べていくと、「人間の考え」の部分のように思う。

もっと言うと、「固定的な考え」が生じてるのは「固定する考え方」からだろう。

「わかった。」ということがどういうことかと言うと、「事実をわかった。」ということだろう。

言い換えると、事実を知らないという意識が無い状態だろう。

事実実際と自分の感覚の区別が無い、事実実際と自分の感覚というのをそれぞれ知らないとも言えるだろうか。

事実実際のことと、事実実際の何かを自分の感覚で見て聞いて捉えていることが関係はあるが全く別のモノということを知ることが大きいように思う。(20代男性)
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私は、「自分」について、知ろうとしているだろうか?

日ごろ、人や物事について、「もう知っている、もう分かった」としていることが、ずいぶんあるように思います。

情報や、自分の体験から、「こういう物」「こういう出来事」「こういう人」など、「知った」つもりになることがあるでしょう。

もしも、「そのことについては、もう分かった」としてしまったら、それ以上は、進まない、理解し合えないのではないでしょうか?

6月「自分を知るためのコース」に参加した人の感想レポートを紹介します。





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自分がいかに「自分」というものを決めつけているか、そして自分から見ている世界をも決めつけているか、そのことがコースを終えて一晩明けてひしひしと感じられるようになってきた。

自分自身で作り上げた舞台の上で、自分で作った台本を読んで、自分は劇を演じていることを忘れて、自作の舞台を世界そのものと勘違いしていなかったか。

今回は、自分を知ることをいかに自分が疎かにしているか、に気付くようなコースだった。

自分のやっていたことにただボウゼンとしているが、今の地点から世界を見つめ直したら自分は何を見ることが出来るだろうか楽しみに思う自分もいる。

今回のコースは自分を知る「ための」コースであり、ここを出発点として、これからどう再出発できるか自分なりに試行錯誤していきたい。(20代男性)



これまで感覚ということを、五感で感じたり、身体感覚で感じたりするものとしていました。そういえば、あの人の生活感覚はどうなっているのだろうとか、あの人はセンスが良い悪いなど、ものの形状だけでなく、人の行動の様子まで、良い悪いと判断をしていたことを、自分の感覚でやっていることだと、はっきりと自覚していませんでした。

その人はその人の感覚でやっていることであり、それを見たり聞いたりして、私は自分の感覚で捉えたことを元にして判断していることを、他人事にしていたようなものです。(70代男性)



別に自分を知らなくても、知らなければならないこともない。

ただ、思ったことは、でも、まだ僕は、そんな自分とこれからもずーと一緒で、この人生を生きていくということだ。そして、もっとも、自分に近い一番身近な存在でもある。

その自分を通して、実際の自分を知りたいし、そしてその自分を通して、この世界や人を見ているし、その実際を知りたいと思っている。

そう思うと、本当にそんな自分を「大事にしてあげたい」と思った。

「自分を大事にしたい」、初めて思ったかもしれない。

もちろん、なんやかんや、自分のやりたいことをして自分優先して生きてきた自分だが、はたして、自分自身を、じっくり、ゆっくりとみつめて大事にしてきたか、どうか、というと、ずいぶん、乱暴にし、ムチを打って、強いて、責めて、苦しめて、無理くりに生きさせてきたような気がする。乱雑だったな。

たぶん、人に対して、同じようにしてきたんだろうな。

その自分の実際にふーっと目をやると、両親の愛情を受け、世話になり、また多くの人たちに世話になり、一人ひとりの大切なものを注がれて生きてきたことに目が向いた。

ほんとうに自分の存在って、大事なんだ、かけがえのないものなんだなー(50代男性)
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「知っている」って、何を知ってる?

情報を得たり、自分の体験から、「こういう人」(例えば、優しい人 仕事のできる人など) 「こういう物」(例えば、甘いイチゴ 汚い部屋など) 「こういう出来事」(例えば順調な人生 忙しい日々など)と、言う時、自分は、その人や物事について「知った」つもりになっていませんか?「もう知っている、もうわかった」としていませんか?

長年共に暮らしている家族、自分自身についても、例えば「母はこういう人だ」「自分は、こうだ。」と、キメている状態から、見ていないでしょうか?



「自分を知るためのコース」(1月)に参加してみての感想レポートの一部を紹介します。



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僕は時々、人間関係がキツクなる時がある。友達間ですらも。

それは何で? って考えたら、僕自身が僕自身をこーゆう人間だ、こーゆうキャラだってキメつけて不自由さを感じていた。

事実・実際など誰も知り得るハズもないのに、人間が考えただけのこと、それがあたかも事実・実際のようになり、強大なパワーを生み。

人の悩みの種となり、思い込みという名の根を張り巡らせていく。

人はキメつけたがり、共有し合いたがる、か弱き生き物。

それも、また自分。

そんな自分に興味を持ち、何で? って優しく、ゆっくり観察していけたらなぁ・・・

自分について知ることは出来なかったけど、自分について知るための考え方は何となく分った気がしている。

自分探しの旅、いや、自分観察の旅はまだまだ続いていく。(20代男性)



「正さ」という名の自縄自縛。 

皆縄皆縛・事実化・集団事実化から「実際はどうか?」に向かう時、まず一人が事実化された事実から抜け出すこと。そして、事実化の問いを共にできる人の存在が「正しい」という「人の考え」「人々の考え」を超えた人間と人間の暮らす新しい世界観を、新しく続けられるのかもしれない。

まず、一人。は自分自身。(30代男性)



自分をいかに知らないかと言う事に気付いた6日間でした。

その知らない自分も愛おしく感じられて、さらに知りたくなった。

霧の林のなかから手探りで抜け出した4日目から、面白くなって、感じたことを素直に表現していけばいいのだと言う、開き直りのようなところが出てきて、楽になった。

実際はどうなのか? と問う事さえしなかったと言うより、そう思って、自分を見ていなかった。

日常の生活に戻って、人と接する時に自分がどう感じるか観ていく楽しみができた。

(60代女性)



まさか事実・実際が捉えることのできないものだったなんて…

まさか自分の感覚があいまいな不確かなものだなんて…

まさか自分がこんなに決めつけていたなんて…

まさかこんなに知ったかぶりを日常的に繰り返していたなんて…

このコースに出る前と後では、

世界がひっくり返った!? ほどの衝撃をうけた感覚を持ちました。

それは、ぶあつ~い常識の皮を何枚もはぎ取るほどの大きな出来事…

少し気持ちが軽くなり、もっともっとみんなで幸せになれる予感。(40代女性)
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なぜ?自分の感覚、考えを主張し合うのだろう。

リンゴを食べて甘いと感じたら、「リンゴが甘い」と言えるでしょうか?

脳科学が進歩し、「物事の認識は個々の脳の中の作用」と、認識のメカニズムは、解明されてきました。が、日常では、自分が捉えたものを事実であるかのようにして、平然と、人に押し付けたり、人を裁いていることが多いのは、なぜ?でしょう。

9月「自分を知るためのコース」参加者の感想をどうぞ。



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言葉として「おいしい」「同じ感覚」でも、よくよく調べてみると違うのは、自分の中で発見だった。足りない、出来ない、行けないで悩む事が多かったからこの辺は今後考えてみたい。

「実際と自分の考えを区別して実際と自分の感覚を比較して考える」

「事実化」はおもしろそうなのでどうゆう事か考えてみたい。(30代男性)



自分が見たり聞いたりした事、自分の感覚で捉えた事が、「事実そう」になっていて、自分の頭の中で創り上げた人や事柄に反応していたんだなぁ。

「私は今、どうしたいのかなぁ、それは私の感覚であって、相手は別」と思っていても、自分の正しいとした上で、人の事を見ているので、事実・実際など「どうなんだろう?」と考える余地もない。(20代女性)



それぞれ一人一人の中の「分かった、知っている」が「決めつけ」となって事実として捉えられているから、正しい・正しくないとかなってしまうのだけど、それはどうしてそうなってしまうのか?

「自覚がないから」と言ってしまえば簡単だけれども、生まれてこのかた、そのような人間に囲まれ、環境に育ったのだから根は深いような気もする。

その都度その都度、丁寧な観察をして、自覚していくしかないだろう。(40代男性)



自分の感覚や思考を意識化,自覚化していきながら自分を知ることは,同時に他者を知ることにもつながる。こういうことができる者同士が話し合いをすれば,それは,感情や固有の価値観に縛られずに,相手を尊重しながら,冷静かつ有意なものになるのだろうと思う。そして,このようなことが広がっていけば,平和な社会,世界につながっていくとも思える。

人間の本質とは何か,理にかなった暮らしとはどういうものなのか,という思考にも少し進んだ。それは既に答えのある世界ではなく,答えを探求し続けるものであるということも目からうろこであった。(40代男性)



「人間の考え」と「事実、実際」

「人間の考え」はどこまでいっても「人間の考え」なのだなと。

「事実、実際」は原点?といったところか。

「事実、実際」と言っているのも人間。

張り合って、決め合って仲たがいしていきたいのか。

言い合って、聴き合って調べ合いたいのか。

言葉の前にある中身か、言葉巧みになりたいのか。

何のため?何故?それをするのか、何かそこを問われているような‥

人間の考え、自分の考えを自覚する。と、その先に何が現れてくるのか・・・。(20代男性)
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「自覚」、自分を見つめ知ること

「意見が違うから仲良くできない」「意見が対立する」と言うことがあります。

この場合、相手に対して悪感情を抱いていることが多いでしょう。

意見が違うことはいくらでもあります。悪感情の原因は、意見が違うことではないですね。

悪感情の激しいのが、怒りや憎しみなどですが、ほとんどは、無意識に湧いてくる感情や感覚ですから、そうしている自覚もないことが多いでしょう。まず、それを「自覚」することです。

「自覚」は、反省ではありません。もちろん、自分を悔いたり、責めたりするものでもありません。良し悪しをつけずに、ありのままの自分を見つめ、知ることです。気付かないうちに、「こんな感情が出ている」「こんな風に人に接している」と、自覚し合うことです。

「自覚」は、意識上のことですが、この「自覚」が「心の状態」に大きな影響を及ぼすのです。



8月の「自分を知るためのコース」に参加した方の感想の一部をどうぞ!



こういう人は許せない、嫌だ。がある。

しかし、そう思う相手も、自分の中(脳)で捉えていること!

実際の相手は、自分が捉えている相手そのものなのかは分からない。 

そこで、実際の相手に興味が出てきた感じです。

相手は、どう考え、思っているのか? 

実際の相手を知りたいと思えてきた感じがします(50代女性)


なぜ自分の考えを事実と思うか。

それは、未だよく知らないからだ。

自分や相手が何をしているか、どうなっているのかを知らない。

知った分だけ、そのものを活かすことができる。

意識的な考えではなく、無意識に出てくる反応に自分の状態、回路が現れる。

どのようになっているかを観て、知っていく。(20代男性)


最初で最後のテーマ“自分を知るとは?”に対して私は自分が捉えたものは、認識であると自覚し、認識と事実のズレに気付いていくこと、という感じの事を書いた。

「自分が捉えたものはすべて自分の中の認識である」。

言葉ではこう言えても、実生活でどこまで自分のものになっていくか、それが重要だなぁと思ったし、今実生活に戻ってもすぐに戻ってしまう様な気がする・・・。

又、このセミナーを受けて一番感じた事でもあるが、私はどちらかというと自覚した後に認識と事実のズレに気付いていく方が重要なのではと今まで思っていたが、他の意見も聞いてみて、ただ“気付いていく”“知っていく”それだけでいいのかなぁと思った。(10代女性)
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「知る」とは…、「その成り立ちを知る」

「自分を知る」とは、「自分の成り立ちを知る」ことです。

これまでの、周りから受けたもの、今も受けているものを知ることだと思います。物や人の行為、心や情など、どれほど多く受けてきたか、受けているか・・・

現状は、権利、義務、責任やお金などの交換条件や、「当たりまえ」とする観念などによって、受けてきたもの、受けているものを見えなくしていることが多いようです。

人は、年を重ねるほどに、受けたもの、受けているものは、膨大になり、とても知りつくせるものではありませんが、それを知り、見えるようになっていくことが、人間性の成長でもあると思います。

「自分を知るためのコース」参加者の感想の一部を紹介します。



何を「自分」としているのだろう?

音や光など、それ自体は意味を持たない。

人間が、捉えて、意味づけをする。

先ほども述べたように、各々の感覚によるもの。

事実・実際そのものは捉えられないのだから、

ハッキリと言えるのは、結果「そういう感覚が起きた」という自分側のことのみ。

事実の一側面だけを捉え、自分なりの解釈をし、感情が生まれ(ここまでほぼ自動で無自覚)、

その感情を正当化するための理屈を考え、付け加えていく。…という感じがする。

「考え」も「感情」も、「正しい、当然のこと!」となる。

否定されれば腹が立つ。

「考え」、「感情」を、自分自身だと思い込みがちのように思う。(20代男性)



自分の感覚で捉えたという、自覚の欠如と、心の不健康というのが密接に関係している気がする。頭の中の事実化による「妄想」が怒りや憎しみ、人間問題のところまでいってしまう。事実化が事実化をさらに進めることでそれを当然とすることで、本来の心の健康とは離れてしまう印象がある。(40代男性)
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「知っている」という状態は、

情報を得たり、自分の体験などから、「こういう人」「こういう物」「こういう出来事」「だからそうなんだ」など、人や物事について「知った」つもりになっていることがあります。

それをよく調べてみると、ほとんどが、一時的・部分的・表面的な情報や体験によるもので、自分の中では、「知らない」という意識がなくなり、「知っている」という状態になってしまっています。それは、その人やその物事について、「こうだ」とキメている状態とも言えます。

長年共に暮らしている家族であっても、知らないこと、分からないことがありますね。ましてや、他の人や出来事を「知っている」「分かった」と、言えるでしょうか?

6月の「自分を知るためのコース」参加者のレポートです。





「事実・実際」と自分の認識との違いについて理解するまで、かなりの抵抗と時間がかかった。

今までは、目の前にあるものに、形容詞がついていると本当に思っていた。

でも良く良く見てみると、形容詞(そう感じている)のは、自分の頭の中にあり、どこまでいっても、私の認識でしかないことに愕然とした。

「認識」は、今までの経験や知識など、ぼう大な情報の中から、取捨選択していて、その人その人のオリジナルなものであり、対象物を自分の五感を通して瞬時に判断しているのだが、その「判断」も反射みたいなもので、どのような回路を経て、何に反応して認識しているのか、全く意識していない。

今まで、自分の頭の中にある実際を事実と思い込んでいたので、目の前の実際を見ることができず様々な混乱をきたしていたことが分かった。

私の苦しみの構図が見えたことは大きな収穫だった。

今の段階では、「構図が分かった」だけで、どう、行動が変わるのか分らないが「構図を知った」ことで、物事の捉え方が変わり、反応も変わることに期待したい。(40代女性)



これからの人生の新たなスタートを切った気分です。

今まで、無自覚のまま感覚で認識してきたことを(五感を通しての感覚)自分の考えや思いと判断して行動してきた。

そのことに知識も理解も自覚もないでいた。

脳が捉えている認識を事実と思い込み・・・・ほんとうの意味での事実とは・・・が分っていなかった。

いつも、脳が自分独自の回路で表現しているけど、事実そのものではない(言えてない)

すべてのことは、自覚し続ける認識・意識の捉え方は、脳の仕組みから来る、このメカニズムを解ったことにより、人との関係性、これからの生き方が変わる、よりよく自分と向き合える。(50代女性)



あったはず・そうだったはず、過去は私の認識の中にしかない。

今、これからは、今、そこにあるものからしか始まらない。

ましてや将来を今の自分が決めることなどできないはず。

意識上の自分は日々更新、「実際の自分は自由だ」・・・なんだかすごく気持ちがワクワクしてきた!!誰も決めつける事はできない、やりたくない事をする必要もないが、できないと自分を縛る必要もない。(60代女性)
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自分を知るとは・・・

まず、自分の言動を観察してみましょう。

自分の言動は、どうなっていますか?

じっくりと見てみると。。。

あら、なぜ?そうしたのだろう?

自分でも、不思議。知っている?つもりだった。

そして、なんと、知らない自分に気づいていく、心の軽さ、明るさ。

心の状態に大きく影響するように思います。

5/8~自分を知るためのコースに参加した人の感想レポートの一部を紹介します。





いろいろ思ったことはあったが、知ることができない実際があるように、自分の意識も知らない世界が広がっているのだろうと思った。

全て自分の感覚で、実際を知ることができないが、全て自分の感覚だとなっているのと、自分の感覚が事実実際化しているのは、大きな違いがあるような気がする。

また、自分の感覚だとなっていることと、自分の感覚だと思っていることも大きく違うような気がする。

そのためには、観察が大きなカギのような気がする。

そういう人達で出来る社会は、今までとは確かに違う社会になるなと思った。(20代男性)



自分独自の回路でしか、見れない、判断できない「私」と、まったく別個に「事実・実際」があり、どんなに詳細に五感を働かして調べたとしても「事実」にはならない。

他の人の視点・感覚・判断を、かき集めても、点の集合で「事実」そのものにはならない。 う~ん、なるほど。それでも拠って立つところは自分。 自分独自の回路しかないが、それはとても「自信」といえるものではなく、ここはどうしても「事実がわからない自分」というベースからスタートするしかなさそうだ、となってきた。(60代男性)



悲痛な気持ちでいっぱいになって、自分ではどうしようもない状態だと思って、涙があふれ出た。

ところが、そんなに悲しくて辛い感情というものが、事実・実際を見て反応したわけではなく、ただの自分の認識の世界に反応したことにすぎないと感じた瞬間、「なんだ、そんなことだったのか?」とフッと軽くなってきた。あくまでも自分の感覚、認識、記憶であることに対して、泣いたり笑ったり怒ったり苦しんだりして来たのだったのか。そんなバカなこと、いつまで繰り返すつもりなんだ、、、と思った。

(中略)

認識って、また新しい経験や考え方によって変化を重ねて行くものだろうし、それに応じて反応もまた絶えず変わって行くものではないだろうか。 そして、その反応というのが実際をベースとしたものではないことが明らかになると、どのような反応だとしても、より軽く見て行けそうな気がした。実際ではない、自分の認識によって起こる反応の世界の方じゃなく、実際の世界はどうだろうかと、関心の方向が変わるではないだろうか... 再び希望が湧いてきた。真っ暗な夜の世界から明るい昼の世界へ、一歩、踏み出した、と感じた。(30代女性)
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