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本心で生きる・本心を生きる、幸福な人生へ ⇒ 社会の解明

人が人と寄り、社会をつくってきた目的は何でしょう?
だれの心にもある、幸せに生きたい欲求と、一致するのではないでしょうか?
だれの心にもある、本心。
本心で生きられる社会を探る、健康な社会の中で本心を生きる・・・。
一人として不幸な人のいない社会の探究。

サイエンズスクールで11月月24日から開催された「社会を知るためのコース」参加者の感想の一部を紹介します。

以下のページから「社会を知るためのコース」の案内が読めます。
http://www.scienz-school.org/hp/syakai.html
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◆健康を志向するこころ、本心。本心を生きる快適さ!
本心のまま生きられたら、自由で安心で、主体的で、生命力に溢れて、愛に満ちて、持てる力を十分に発揮できるんだろう。
本心が出てくるのを阻むのが、様々な「人間の考え」だ。
権利、義務、責任、所有、悪平等などが、罰を伴い恐怖を与え、人を強制・束縛しようとする「人間の考え」だということがはっきりした。

中でも悪平等には驚いた。
自分も人も社会も自由。 何をしてもしなくても自由。
それが実際の世界で、目指す「次の社会」。

自由な一人一人が、本心からの行為によって作る社会の一員になりたい。
自分も人も何を言ってもやっても自由。
責められる事も罰せられることもない。
これが実際の世界。

これに気づく事で、自分を縛っている「人間の考え」とまで言えないような「自分の考え」が浮かび上がって来たように思う。
このような「自分の考え」が邪魔をして、自分の本心が見え難くなっている。(男性60代)

◆本心に焦点を当てると、本心で生きられる社会が浮き上がってくる。
人が社会に合わせ支えている、社会が変容していくのにも合わせていく、自分と社会との距離は遠いけれど、その社会に自分を合わせ続けている自分。
そうしなければならないと守り通している。
枠の中の抑圧された状態に反発心を抱えつつも、不自由、不幸せでない状態を自由、幸せだとしている。
自分の意志なんてあったのだろうか?

そんな社会観の中で生きてきたのか。

社会に対する不満・不安を抱え、服従している状態で人の言動を気にして怯え、身動きの取れない不自由なわたしが見えてくる。

社会が人を満たし、社会が人を聴く、人によって満たされる心の作用がある、気持ちを受け取り、応えようとしてくれる気持ちに満たされていく
人を満たすことでその人自身も満たされるという満たし合い、その人らしさが発揮されるように周りの人が見て、聴いて、考えてくれる
その人の本心へ向かうよう力を注ぎ応援し協力してくれる社会

やってもいいし、やらなくなくてもいい、それでもでやってくれている人の行為は溢れている
本来、何もしなくてもよい あるのは本心だけ、その本心でいられる
安心した社会の中でその人らしさが発揮されてその人の可能性が膨らんで見えてくる

現状の社会の仕組みを構成させているものをひとつひとつ解いて見て知っていくと、自分の固さが取れていくようだった。

元々何もしなくてもよい。人間の考えを外せば、人には本心だけがある。
その人らしさが発揮されて本心で生きている姿は周りに響いていく。

本心が出るよう、人同士が本来の人に成り合っていく。
その本心で生きる人たちで創る社会になっていくのだろう。

社会は私のためにある、みんなにもその人のためにある社会がある。
(女性40代)
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◆して欲しい・してあげたい、気持ちのある行為のみで作られる社会
「何もしなくても良い」「何しても良い」実際の世界はこのことなんだ。
ここには人と人、本心から出てくるやり取りしかない。
したい、してほしい、してあげたい、気持ちのある行為だけの世界。
こんな社会を描いて見ると楽しい。
描くことですでに社会を創っているんだ。

やらなければならない、やることがある、やった方がいい、これらは全部考えからくる気持ちなしの行為。
自分の内面を重視する。

気持ちの無い行為って、やらなければならないからやるとか、言われたから仕方なくやるとか、そんな事じゃん。
そんなのやっても、普通で当たり前の世界では何の意味もない。
当たり前の世界は、自分も人も何もしなくていい、社会も何もしなくていい。
だから、気持ちがなかったら何もしない。
やりたいだけで、お弁当作ったり、野菜作ったり、人を迎えたりしてるだけだから、もし、「やらなくちゃならなくてやってる」なんて人がいたら目立って目立って仕方ない。(男性50代)

◆本来の姿、人のための社会を創っていきたい
どの人も自由にしたら社会はどうなる?
という質問にワクワクした。
自由ということが、やることも、やらないこともどちらでもできる。
という心の自由みたいなものだとしたら。
どの人もということは、不幸な人のいない世界になることのように思えたからだった。

人にやらせよう、やめさせようとするために権利、義務、責任、罰、所有、平等などのフィクションが出来たと聞いた。
長年、染み付いている思考。
人を責めている。
逃れる為に、自己肯定の為に自発的服従でやっている。
ねばならないになっているから、人を責める。
そこに気が付くこともなく、本心など見えるはずもなく、知らないうちにやっている。

「自分も人も何にもしなくてもいい」
「社会も何もしなくてもいい」が実際の社会。
そこがベースだと、現れるものは本心だけだった。
根底からガラッとひっくり返った感覚。

どれだけ人にしてもらっていることで溢れているのだろう。

楽しく生きたいと思った。
人とも社会ともやわらかい心でいたいな。
何もしなくてよいのだから、人や社会にお任せ~。
してくれたら本当に嬉しいだろうな。
してくれなくても、元々そうだな~。
そんな感じで生きたいな。

「何もしなくてもよい」ということがベースだと知ると、本当にありがたいし、自分も益々安心の中やっていける感じがしている。
そんな安心の中、自分はどうしたいかな? と本心を観ていくと、私は人のための社会を創っていきたいと思った。
観てもらいながら深めていって、私も人を観ていける人になりたいな。
観ていけるようになっても、観てもらえるのかな~。
本当に安心だな~。(女性40代)
20191206-034-150x150-300.jpg◆美しいこころのままに・自身の力を発揮できる社会が、観えてくる
学生時代から社会を敵視し、社会に反発してきた。
社会=大人。
パンク、ヒッピー、中国哲学、仏教、古神道、スピリチュアル…様々なものに傾倒してきた。
今の社会から逃れるために、色々試行錯誤してきた。
大なり小なりの社会があるが、すべてうまくいってないように感じていたし、無くなってしまえと、むしろ破壊衝動さえあったようにも思う。

社会は、自分から遠いものにしていた。
でもよくよくみていくと、自分を含めた「人」で構成されている。
たくさん社会を責めてきた。権利を謳ってきた。
でもよくよくみていくと、全部自分の首を絞めていた。

権利を一つ主張すれば、義務は他に放射される。
社会を責めることは、人を責めることでもあり、周り廻って自分を責めていた。
責められないように、罰されないように、どんどん自分を小さく小さくして苦しんでるのに、また社会が悪い、「ねばならない」をたくさんまた負荷してきた。

でも、よくよくまたみていくと、人は何もしなくてもよい、ことがみえてくる。
会社も、社会も、何もしなくてもよい。
本当に楽になった。
誰かを責めないと、社会はよくならないとさえ思っていたけど、責めなくてもよい、むしろ責めると苦しみ合う構図だったのだ。

今の社会を、よくしようとする人達はたくさんいる。
でもこの責めや罰を内包したレイヤーから逃れていないんだなと、気づいた。
そりゃ、変わらんし、人が散り散りになるか、資本主義にまかれるかになるわな、と。

でもでも本当に楽になった。
何かをしないといけないと思っていた。
社会に責任を持たないといけないと思っていた。
強く動かないといけないと思っていた。
自分が犠牲になってでも次世代のために、としていた。
全部ちがった。
何もしなくてもいい。

何もしなくてもよい。
そこから動きだす自分、人、社会。
「ねばならない」を取り除いたら、本心でしか動かない、実際を観た。
何もしなくてもよい、安心からは、それぞれの本当にしたい願いに適ったことにしか動けない。

人の本心で動くと、したい、してほしい、してあげたい、が自然と廻る。
今の社会のように、法律がどうだ、責任がどうだ、モラルがどうだ、礼儀がどうだ、と人間の「考え」をたくさん潜り抜けないと、行動できないのではなく。
自然に、思うがままに、あるがままに、人がある社会。

想像するだけで美しい。
自分がしたい、居たいところに、適材適所で、自分の力を発揮できる社会。
それには、人の内面を重視する社会となるのが、大事だろう。
共に観合い、聴き合い、話し合い、自分に気づき、自分を知っていく。
すべてが満足につながる社会。

そしてそれらは、本当に「何もしなくてもよい」「何をしてもいい」人と人。
そこから始まる、本心・本質に適った社会。
楽しみしかない。(男性30代)
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