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自分らしく自由に生きたい‥‥誰にでもある願いが叶えられる社会を探る!

「だれもが自由に生きられる社会って?」
「縛られるものが一切ない社会って?」
「誰の中にもある自由欲求を満たしながら暮らせる、正常・健康な社会って?」
サイエンズスクールの「社会を知るためのコース」は、正常・健康な、本来の社会を探る機会です。11月25日から開催されました。参加者の感想を一部ですが紹介します。

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◆一気に、こどもに戻ったような感じ。心が穏やかになり、気が楽になった。

「自分らしく、自由に生きたい」と多くの人が願っているけれど、
現代社会で生きてきた過程で長年染み付いた自分の意識を変えるだけで良いんだ、と理解できて気が楽になった。

罰則、責任、権利、義務という、現代社会にある概念が、ひとりひとりに「~すべき」「~してはいけない」「~しなければならない」「やらせる」という服従意識を植え付けていることを知って、強い衝撃を受けた。

事件が起きるたびに、罰則が強化され、義務、責任が増え、責められる機会が増える。
誰かが権利を主張するたびに、表裏一体である義務が増え、責められる機会が増える。
責められる機会が増えると、それを守らなければならないという責任感、精神的負担が増える。
自分だけでなく、他人にも、罰則、責任、義務を守らせようとする。

責める、叱るという行動が、親から子へ、先生から生徒へ、先輩から後輩へ、上司から部下へと伝わり、それが連鎖することで、世代を追うごとに、恐怖、不安、ストレス、自信喪失、自主性低下、無気力、服従意識が強化されているように思う。

みんなが望んでいるひとりひとりが人間らしく自由に生きる社会は、ひとりひとりが自発的自由意思で行動出来るようになることが出発点になる。(40代男性)


◆実際の世界にはない、所有・権利・義務。その概念を調べることで現状の人の中身を垣間見ることができた気がした

自由を好み、自由を求める人間が、自ら同族の足を引っ張り共に服従の世界に収まろうとしている姿。
意識では権利があれば自由が増えたような感じだが、権利の裏は人を服従させることだと知らないために、広まれば広まるほど自ら服従の機会を増やして行くことになると思う。

服従状態の心から創る社会ではなく。
自由状態の心から本来の社会を創っていけるのかな。

人のための社会とは、要求が満たされる社会とは、と探っていくとやはり自由平等というのがベースでそこから人を聴くというか、一つを聴くというか。
心の状態に関心が行く状態か。
すぐにやることにいくということではなくて、ほんとうにやろうとして聞くという感じかな。

そこに本来の、理想の社会ができていくように思った。
コミュニティー創り、職場創り、家庭もそうだろう、社会に自分にしなければならないことがない。
そうなって本当の発揮がはじまる感じかな。(30代男性)
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◆これからどんな風に生きていきたいのか,どんな社会で生きていきたいのか。そういうことを考え続ける一週間であった。

当然に,自由でありたいと思う。当然に,良質な人間関係の中で生きたいとも思う。また,人は,社会の中で活き,活かされるという感じもした。

そういう願いを阻害しているものの正体は何か。
コースではそういうところから探ってみた。
すると,その正体は,一言でいえば恐怖や不安による行動抑制や自己規制,自分を守るための他者への攻撃等々であるように思える。

少し丁寧に振り返ってみたい。・・・・・(長くなりますが全文です。お読みください)

規則や罰則は何のためにあるのか。一見すると,社会の秩序を維持し,人の自由や権利を守るためにそれらは存在するようにも思える。

しかしその原理は,違反したら罰を与えるという「恐怖」によって人をコントロールする仕組みのようにも思える。
ちょっとした手違いや間違い,作為などによって問題が起こると,更にそれを規制する規則や罰則が増える。
これでは自由になるどころか,規則や罰則に人が縛られ不自由になる。


また,他人や社会を責めるというのはどういうことか。

自分の考えや信念のようなものに,こうすべきというのがあり,それと違うことが起こると,他人を攻撃するがごとく責め立てる。
他人が自由にしているのも,許せない感情をもって責めることも多い。

この時の心理は,何か自分が侵されたことに対する防衛反応,あるいは不利益を受けたことに対する攻撃のような気もする。
責めた後は,責められた人も,責めた人も後味が悪い。
これでは良質な人間関係など望めない。


権利や義務といった意識も,「不自由」を作っているようだ。

権利や義務をかざして,他人にやらせる,やめさせる。
人ばかりか,社会に対してもそれを主張して,社会に強いて,社会も縛る。
さらに,人によっては,権利を主張しないとその権利が侵されるかの如く,権利確保・拡大のために猛進していく姿勢も見受けられる。

これは,社会がよくなってほしいという願いもあるかもしれないが,一種の不安による意識,行動の一つの現れであろう。
これではどんどんがんじがらめになって,人間関係も,社会もどんどん窮屈になっていく。

このように,現状の社会に生きる私たちは,罰がないと悪いことが起こる,自由を認めたら社会が混乱する,権利を主張しないと体制に飲み込まれる,義務をしっかりと果たされなければ社会秩序が崩壊するといった社会観に支配されているように思える。
これでは,現在の社会は恐怖と不安の巨大プールのようで,私たちはその中から這い出すこともできず,溺れないように必死になって浮かぼうとして,責めたり攻撃したりしている哀れな存在に思えてくる。



自由な暮らしを創る、自由な社会を探ってみると!

しかし,このような社会観は,私たちが生まれたばかりの時から身についたものなのだろうか。否,元々なかったものが,社会で生きているうちにしみ込んだものに違いない。
それでは,実際の社会はどうだろう。
生まれたばかりの時は,権利や義務も,責めるも縛るも,不安も恐れもなかったはずだ。
それが人間本来の姿であろう。
つまり,生まれたときの状態=自由である状態が人間本来のあり様であり,それをベースに営まれる社会が実際の姿なのである。
そうすると,これまで染みついたものを落し,人も社会もいかに本来の姿を取り戻していくのか,ということがこれからの真に自由な社会を創るためのポイントとなるのではないだろうか。


それでは自由がある状態とは,どのような状態なのだろうか。

「しなければいけないがない」,「してはいけないがない」といった状態であろうか。
また,「やりたいときに,やりたいだけ」というと,自分の意思をもって自由にしている状態と言えるかもしれない。

つまり,何からも縛られず,服従もせず,赤子のように意のままにいられる状態を示しているのではないだろうか。
これは人ばかりではなく,社会も同様である。
このような,ある意味,無重力空間に人も社会もあったら,権利や義務も,責めるも縛るも,不安も恐れもあり得ない。

これほどの楽があるだろうか。

これを知ったら,自由がなく,何かに服従しているような不自由な状態には,もう戻れなくなる。



このように,自由意志を基盤とした人と社会の中で生きていったら,人はどうなるのだろうか。

すべてが自由だとストレスが生じない。
その分,自分の好きなこと,得意なことに集中できる。
また,社会からも,お互いからも自由が縛られずに,その人がその人として尊重されるため,人の内面も重視され,人の要求も満たされるのではないか。
次の社会はこのような人々が織りなし,豊かに広がっていくことだろう。

最後に,これまで,縛られずに自由に生きていきたいと思っていた自分は,自分を縛るものは自分の外にあるとずっと思っていた。
日常は,仕事も付き合いもあって縛られる。
だから,非日常を求めて旅行に行くとか,日本の日常は縛りが多くて疲れるから,海外で自由に暮らしたい,の如く。
しかし,ここにまできて気がついたのは,本来の社会には縛りも,不自由もない。
自分を縛っているように感じているものは,単に現状の社会の影響を受けて自分で創り出してきていたということだ。

そうなると,自由を獲得するためには,不自由としている既存の社会そのものを変えるのではなく,不自由を創り出してきた自分の意識に働きかけをして,それを解放することから始めればよいということだ。

本来の人や社会を知ることで,それは容易に叶うこともこのコースで学んだ。
次の社会へトランジットするきっかけは,自分の中にあり,簡単に始められるということになる。(50代男性)
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