当たり前になっているものから自由へ

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日常、家族や職場や友だちとの間で、どんなやり取りをしているのだろうか? 

人と仲良く暮らしていきたいと、誰にでもある気持ちで暮らせているのだろうか?

相手との間に優しい気持ちが通い合っているのだろうか?

日常から少し離れゆっくり自分の中をみていくと、自分の気持ちや、相手の気持ちは?

観えてくるものは?

7月22日~の自分を知るためのコース参加した人の感想の一部を紹介します。

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見たり、聞いたことが自分の中で認識される過程をゆっくり調べた一週間だった。

どれを見て聞いても、どこまでも自分の中の出来事であることが明確になりながら、

自然と実際に関心が向かう状態になっていくことが楽しかった。

○○○さんが使い捨てのプラスチックのスプーンを食卓の上にのせた。

その瞬間、「使い捨て用品を使うのは、環境にも良くなくて、一度使って捨てることはもったいない…」という気がした。

続いて、「あくまでも私の考えだね、○○○さんは何をしたかったのか」と思っていた間に、ふと、「あくまでも私の考え」という部分がなんだか心にひっかかった。

私の考えだとしているが、「誰もがそう思っている常識」という考えが根底にあるんだと気付いた。

みんなの考えがそうだというのがベースにあれば、自分も知らないうちに自分の考えに自信がある状態になって、私の考え方と違えば、相手が間違ってるとなってしまうんだな。

目が覚めて時計を見た。 5時20分。「あと1時間半ほどもっと寝れる~」と思って眠りを求めた。

その瞬間、本当に寝たい気持ちより、寝れる時に寝ようという考えで動いていることが見えた。

9時からコースが始まることに合わせて、7時から食事、掃除、レポート...などしなければならないことが決まっている感じが少しでもあるように感じた。

しなければならないことが決まっているような考え方のベースでは、主体性を失っていることが見えた。

自分が外の基準によって動く場合では相手の行動も、外の基準で見て是非に関心がいってしまう。

そんな状態ではその人の気持ちや状態に関心が向かないのが見えた。

まず、自分が主体的な状態になると、実際の相手もどうかということが見えやすい気がした。

実際に関心が向ける状態では、善悪を判断したり、相手を縛ったり、動かそうとしたい気持ちが自然には生じないようだ。(30代女性)





「昨日の夜は土砂降りだったよ。 そうなん?自分は寝てたから知らん」日常はこれをやっている。

実際、土砂降りだったのか、小降りだったのか、降らなかったのかと白黒つけようとする。

自分の捉えた「土砂降り」か自分の思う「小降り」か実際はどっちだ?って関心は自分の捉えたものにしかない。

その時その場で言葉を発して伝えようとした相手の中身(実際)には関心がない。

自分の捉えたこと(頭の中のこと)に決着を付けようとしている自分の姿が見えたら、そうしようとしなくても自然と知りたい気持ちが湧いてきて相手を聴きたくなるようだ。

相手も思ったことを言っている。

自分も思ったことを言っている。捉えたことしか、ない。

「人間の考えであることの自覚から始まる」

自分の感じたもの、捉えたもの、認識したものが実際のことになっている。

だから、コーヒーのことを知っている。 分かっている。 これはコーヒーだと言う。

自分の感覚や認識に無意識のうちに自信を持っているようだ。

人間の認識程度で捉えられるほど事実実際は薄っぺらくない。

人間の考えであることを知る、自覚するとは人間の領域を知る、人間の分をわきまえるということではないかと思う。

終わりに、自覚とは思ったり思わなかったりしたり、忘れないようにすることでなく自らそうなる状態のことを言っているのかと思う。

それが出来る環境の中で、それが出来る環境を作って、共にそうなりあって、人間らしく生きたいと思う。(60代男性)





久しぶりに日常から離れて、いろんな角度から探究できてよかった。

日頃、相手の実際は? という意識はあっても、自分が捉えたものが実際となってたら、いくら知りたいと思っても、知る方向にはいかないな~と。

今まで育ってきた中で思いや考えを実際だとしてきた部分や無意識に当たり前としている部分が根強く? 根強くあるな~と、そういう自分に気付いたことも大きいかな。

子どもは感じたことや本心を言葉にしてたり、行動したりで、表現するけど自分は固定した考えでやりとりするから、かみ合わないというか、子どもは反発したり、満足しなかったりで、私は心がモヤモヤしたままで、あ~またやってるな~(自分の状態)と同じことをくり返してしまう。

私の中には相手の実際に向いていきたいという本心があるからモヤモヤしたものが残るのかな。

自分の考えを実際としてやる事があるとか自分の外のものに合わせて動いていたり、子どももそこに合わせて動かそうとしたり、考えを事実化して子どもに伝えたりする。

全部、自分の頭の中で起こってること、決めてることなんだな~と。

実際は自分も相手も一人一人に意思や本心があるのに、そこに関心が向かないのって何か淋しいな~。

人間の考えであるとの自覚があったら、自然と実際の方に心が向いていく感じがする。

知るとか悟とか、どんなかな~と分からないけど、日常の自分がどう捉えてどう反応しているか、客観的に観察することで、知識としてじゃなく、そうなるところに近づいていけたらな~と思う。(30代女性)





4日目の夜、目が覚めると、もの凄い勢いで雨が降ってるように感じた。翌朝、食堂に集まってくる人に「昨日は凄い雨やったなあ」って話しをすると、「私もびっくりして目が覚めた」ってひとや、「窓をしめてまわったよ」ってひとや、「ぼくは何にも気づかんかった」って人がいた。

僕の聞き方をみてみると、「雨が降っていた」っていう僕の反応に関心があるから、同じような反応に感じる人の言葉を聞いて、「やっぱりすごい雨だったんだ」って自分の体験をアップグレードしているような聞き方をしていた。

そうなると「なにも気づかなかった」という人の感覚には関心さえ向けなくなる。

これはいったい何をやってんだろう。

「これぐらいの体験をしたら、実際だってできる」「これぐらいの事は、みんな知っている」「こういう場合は普通こう反応する」そういう自分に決めているものがあるな。「普通」とか「みんな」とか全部自分の捉えたことやのに、その大前提があることの自覚が、全くされてない状態だと気づいた.

「普通はこうだ」「この人はああだ」「みんなはこうだ」このことを組みたてたり、正当性を得ようとするのにもの凄いエネルギー使ってきたように思う。

そうやって組み立てた自分の捉えた「みんな」の範囲で生きてる自覚がないんだな。(40代男性)
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