足るを知り・味わう、暮らしへ・・・・。

この毎日、心から楽しく暮らしているだろうか?
人の安心や満足は、どんな状態なのだろう?
母乳を飲む赤ちゃんや、母乳を与えるお母さんの満ち足りた心に思いを馳せる。
言葉の前の、感情や気持ち、人の心を知りたい。人の心の声を聴きたい。
8月18日~「人を聴くためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。
フォト009.jpg
======================
言葉の性質を知らずに起こる、知ったという勘違いは
----------------------
言葉を通じて感情や気持ち、考えを伝達する。
言葉は非常に具体化された表現方法という考えに、言葉を聞いて、認識された言葉にその人の考え方や気分、感情などがあると思っていた。
しかし、言葉というのをよく知らずに使っていたことを気づくところからコースが始まった感じだった。
相手の言葉を聞いて、同一の性質だと捉えた私の中にカテゴリーと結びつけて、認識されるプロセス。
そのカテゴリーがどのように分かれているかによって認識されることも変わることが新たに感じられた。
韓国語ではウチワとセンスを同じ言葉「ブチェ」という。
しかし、日本語でウチワとセンスを分類して言うことを知ってから
「ブチェ」を見るときウチワか、センスなのか分類してみる方式が私の中に新たにできた。
各自の中に分類されたカテゴリーに言葉を認識するのが見えてきた。
しかし、知識や経験などによって各自のカテゴリーが異なるにもかかわらず、言葉を聞いて'知った'という勘違いが、 その人の中にどのようなことから言葉が出たのかに関心が行かないようにするんだという気がした。

"エルサドレスを買って"という甥の言葉を聞いて、エルサドレスを買った。
甥の言葉を聞いて何かを満たしてあげた感じがしたけど、今振り返ってみると、甥に関心があるというよりも、甥が言った言葉に関心を置いた。
話を聞いて、物や行為を通じて豊かにする方向に向けがちだが、感覚的に豊かにする行為はその瞬間の快感はあるだろうが、 すぐに再び感覚は消え、再び感覚的に満たそうとするパターンに陥りがちになってしまう。
そうしたら、満たし、満たして受ける行為に執着するようになる状態になっていくかもしれない。
行為以前に本当にその人に関心を向けた状態が本来の人と人が満たされる状態で行ける道かな? よく分からないが、一応ここにポイントを置きたい。(30代女性)

======================
相手が発する言葉の前のものへの興味・関心は?
----------------------
聴くということを調べていく中で、改めて言葉になる前のものがあって言葉が出てきていて、聴く側はまず言葉が聞こえるのだろうけど聴くということは言葉を手掛かりに言葉になる前のものに目を向けることだなというのが浮かんだ。
現状は言葉になる前のものに目が向くのではなく、聞いた言葉に大きく目が向く構造になっているように思えた。
人が満たされるというのも、肉体的な面は食べ物などで満たされるようにも思うけど、心はというと人の関心を受けることによって満たされるように思う。
体で言うところの酸素のような要素かもしれない。
人を聴くためのコースに入る前に社会を知るためのコースや集中研究会を経て、人が安心して満たされるということが人にとってとても重要な要素だなというのを思い、人を聴くという要素が大きいなというのを思った。
本当は人と人は常にお互いの独自の世界同士が聴き合うことによって交流しあってるのが正常で健康な本来の姿のようにも思えた。
それは言い換えると精神面も一つの存在という人の姿が少し自分の中で浮かんだ気がする。(20代男性)

======================
相手が何が言いたいのか聞けないのは、なぜだろう?
----------------------
今回コースの参加した目的は 、相手が何を言いたいのかがキチンと聴けて、尚且つそれに対して的確な返答が出来て、本当の意味での「話し合い」が出来る自分になりたいと思って参加しました。
今回やっとその本当の「話し合いとは?」ということが分かったような気がします。
というか、「なぜ今まで私の聴くが実現しなかっただろう」ということが分かった。という表現が適切かと思います。
それが実現しない「4つの原因」を具体的に丁寧に探っていく中で特に自分に当てはまったことは、「聞くこと」と「やること」の癒着、そして「聞くとすぐに自分の見解を言いたがる」という癖でした。
良かれと思い自分がやっていたことが、実はその人の本当の心を理解していない(聴けてない)が故に、相手の依存を増長し結果的に双方が悲しむ結果を生み出していたことに気づいたときは愕然とした。
またそれを繰り返すうちに私の人間不信が深まっていったことにも気づきました。
その瞬間瞬間に相手の内面(本心)に意識を向けて聴くことができていたら、このようなことも起きなかったろうと深く感じました。(50代男性)

======================
聴くと心の関係は? 人の満ち足りるとは?
----------------------
次の日の午前中、「言葉とモノとの関係は?」を検討していると、ますます娘の言葉ではなく気持ちを聞いてあげたいという気持ちが起きて、スッタフさんに電話したいと言ってみた。
スマホを持って来てくれたので、電話してどういう風に不安なのかをじっくり聞いてみた。
娘はだんだん安心したらしく、
「お母さん、聴いてくれてありがとう」と3回も言っていた!!!
このことを、電話を切ってから、思い返していると、じんわり涙が出てきた。
今「聴く」コースにいることを知ってるわけじゃないのに、「聴いてくれてありがとう」と3回も言ってくれたなー、安心してくれたみたいで、私も安心したなー。
なんで涙が出るんだろう。
言葉に出来ない感情が心にあるなーと思った。
3日目に「なぜ聴くが実現しないのだろう?」というテーマをじっくりやっていくうちに、早く実践したい!という気持ちでいっぱいになった。
そういう訳で、4日目の夜、無事に帰宅して、娘や夫の話を聴いた。
とても おだやかで満ち足りた時間だった。

そして翌日の午前中。自分の店の仕事をして、猫の世話して拭き掃除、片付け、掃除、たまった洗濯もして、銀行と郵便局と動物病院に行こうと用意をしていたら、娘が「行きたくない」とぶすっとし出した。
早速、聴くモード。
するとすぐに機嫌がおさまった。
すごい。
その後、「お母さん、これ見て」「お母さん、耳かきして」などなどをこなすうち、遅い朝ごはんを作ろうとしていたのが、いつのまにか12時になっていた。
リビングは娘のもので散らかりっぱなし。
だんだん、余裕がなくなってきた。
さらに、仔猫の1匹が、吐きはじめ、様子がおかしくなってきた。
病院に電話するも、昼休みで15時まで連絡がとれない。
15時になってすぐ電話し、連れて行くことにした。
郵便局で発送する仕事の荷物があったけど、慌てていて、家に忘れて来てしまった。
家に帰ったのが17時半、すぐに荷物をもってまた山を降り、夜も開いているちょっと離れた郵便局まで行き、戻ってきたら夕食の準備が待っている。
疲れた・・・。
完全に聴く余裕を失ってしまった。
そこから寝るまで、いつも通りに、片付かない部屋にイライラし、片付けない娘にいつもと同じように小言を繰り返すはめになってしまった。
頭では聴けてない、聴けてない、と分かってはいても、私の心が満たされない状態になっていると無理!ということが判明した。
そうかー、そこはコースではやらなかったもんなー。早速実践で、そう簡単にいかないことが分かった(笑)
その後、仕事から帰ってきた夫に、1日の出来事を聴いてもらったら、心が少し回復した。
そうすると、娘の話も聴くモードになれた。
聴く、には、自分の心の状態も大事!!!これ大事!!!(40代女性)
- | comments (0) |07:46

歌にも歌われている、世界は「一つ」、自分の中を探ってみると・・・

「太陽の周りを地球が回っている」という、観察によって、実際の宇宙を捉えようとしてきた歴史が垣間見える。
「明日は晴れるでしょう」天気予報士の言葉にも観察の世界が感じられる、観察の世界に怒りや不安は存在しない、どうなっているのだろうか? どういうことだろうか? 謙虚に実際の世界を探る姿勢を、人間に・自分自身に向けて探っていくと、観えてくるものが・・・・理の世界の中に、存在する人・社会・・・
8月26日~開催された、「一つ」を実現するためのコース参加者の感想の一部を紹介します。
40595166_2712407158785144_2746197544987000832_n600.jpg
****************************************************************
私の中の、固定や隔てから生じる自分の心の状態は?・・・
-------------------------
終わってみての感想を一言でいうと、「まずは私から」ということにつきる。
「as one 一つの社会」のテキスト中には「心の状態」という言葉がそこかしこに出て来る。
自分でも最近この言葉に焦点が当たりだして、自分の「心の状態」に関心が向けられるようになってきていた。
そして自分の場合、姑との確執から解放されて心の状態は健康になったと思い込んでいた。
ところがどっこい、不健康な心の状態が出るわ出るわ、、、夫とのことで、また研修所での暮らしのことで固定や隔てから生じる自分の心の状態があらわになって来た。
責めたり、疎外感だったり、警戒心だったり本来の人間にはないはずのものが、ぞくぞくと出て来た。
今まで意識上に上らなかっただけで内在していることが初めて自覚できた。
それまでは、あって当たり前という意識でもあった。
「心の状態」を分かったつもりになっている自分だったなと思う。
人類史から見ると、そういう「心の状態」を作り上げてきた歴史でもあるわけで、言い換えればフィクションを共有してきたのだ。
実際あるものに目が向けられず、ないものばかりを追いかけてきた空しい歴史とも言える。
実際にあるものの豊かさを私は何にも知らない。
知らなさすぎる。
目が曇ってしまって見えない自分だ。
その目の曇りは自分ひとりで取れるわけもなく、「一つの社会」を志向する人たちと手を取りながら明るい豊かな愛にあふれた社会を目指して進んで行きたい。(50代女性)

****************************************************************
本質的なものが実現しないのは当然な状態って?・・・
-------------------------
自分の不健康な心の状態が次々と明るみになってくる。
それも、大笑いの安心の輪のなかで。
不平不満があれば、それをなんとかしなくっちゃ、問題があればそれの手当をしなくっちゃ。
不平不満を言う人がいないように、疎外されたという人が出ないように、みんなが明るく元気でいられるように、「人を大切にしなくっちゃ」でも、やっていることは不健康な心の状態の現れを肯定して、相手の機嫌が悪くならないように、機嫌良くやってもらえるように、そのことに力を入れている。
本質的なことよりも、表面的な優しさで繕って、不平不満も安心して出せる職場 とか、
休みたい?いいよいいよ とか、そんな風に言われたの?そりゃ相手が悪いわ不平も出るわ とか、そう言っている人の「心の状態は?」といけない、不平不満があることを肯定している、疎外感のように実際にないものを外にあるとしていることを肯定している
本質的なものが実現しないのは当然な状態
そうなってしまう、自分の心の状態に気がついていなかった、観ようとしていなかった、
「良くない」として、蓋をして気付かない振りをしたり隠したりしてた
大きいのは「不安」な心の状態(40代男性)

****************************************************************
不健康な心・健康な心・・・人間の考えとの関係は?・・・
-------------------------
健康な心の状態とはは何か? 自問 自答、どうやら”人間の考え”が、影響している。
既存の常識としている人間の考えのままでは、うまくいかない・・ のだ。
日頃、”対立感情の火種”になっている。(不安、恐れ、劣等感、焦り)、健康な心は、理にかなっていこうとする”人間の考え”がベースとなり、それが、”人”と”社会”の本来の姿を明らかにし、そして、実現につながると。
自分の考え、常識、観念が、心の状態に影響している。
なぜ、自覚が大事か、何を焦点にしていきたいか?
何が、不健康にさせているのか?
探っていきたい、自覚のイメージが変化した感じである。

話のテーマはこの視点も必要になるのだろう~
それが、自覚の焦点、ハッキリと自分を知ることになるのか?
固定や隔ての無い”心の状態” 
社会は一つ  理とは
○固定しているものは何もない
○単独で存在しているものは何もない
2つの 何もない えっ たったこれだけなのか? といった感じである。
この理を いいかえると ”あらゆるものは一つ” となるらしい、空気は一つ、水は一つ、地球は一つ、宇宙は一つ・・??・???
今回、自分はどれだけ、理解できたのだろ~(50代男性)

****************************************************************
体も心も「健康な状態」へ、大笑いの中で・・・
-------------------------
鈴鹿に通い始めて4年目。
コースに参加するたびに、新しい視点や世界が観えてきて、自分自身が軽くなっていく感覚が好きだった。
戻ってからもスクールを体験した友人たちと、「自分を調べたり」「検討したり」する場を続けてきた。
それをやっていたら、何となく「サイエンズ」をやれている人になっていける感じがあった。
でも、今回のコースを受けてみて、それが大きな勘違いだったなぁ! と今衝撃を受けている。(笑)

すべてのものにとっての「理」が本来あるということ。
それは人の考えとかではなく、もともとの本来の姿。
その「理」のベースの上に、あらゆるものやこと、現象があるということ。
あらゆるものの「根幹」
人に関していえば、体も心も「健康な状態」~理に適っていれば、人と人は誰に対しても親密で、心もオープンな状態なのだろう。
幸福ととりたてて言わなくても、ただ「ある」だけで、幸福なのだろう。
そのことが、このコースで観えてきて、「ああ、このことに気付かずに、今まできたんだなぁ、この根幹なくして、検討会とか自分を調べると、やってたんだなぁ」と。
自分の中にある「悪感情」に蓋をして、「かりそめ」の幸福を幸福と捉えて
生きてきたなぁということ。
「悪感情」に気づいても、それは個人的なことで、自分で何とかするもの、としてきたこと。
けれども、それも「不健康な社会」の中で、身についてきたもので、個人のモノでもなさそうだということ。
まずは、自分の悪感情に気づいて、「こんなのあったんですよ~!」と軽く出せるようになったらいいな。
今回のコースの中でも大笑いな中で、出し合えたように。
そうすれば、社会はもっと生きやすくなっていくだろうな。
人はもっと伸びやかに、本来の人らしく「健康な心の状態」に、なっていくだろうな。
そんな社会で生きていきたいし、そんな社会をつくっていきたいな。
そんなシンプルな思いから始めたい。(50代女性)

****************************************************************
変化の中・繋がりの中に、「一つ」の実現への道が!
-------------------------
1つの実現…あらゆるものは、ひとつであり、固定しているもの、単独で存在しているものは何もない…という「理」に適った本来の姿に立ち還る(ゼロ)こと。
アズワン鈴鹿コミュニティは、ただただこれを実践しているのだ!ということが腑に落ち、とても元氣をもらった。
真理、理、ピュアなものに触れると、人は元氣になる。それを体験したコースだった。
そこで、重要になってくるのは、1つを実現するための人的環境であり、それはいかにコアな根幹をなす人が健康な心の状態を維持して、ブレない人たちになりあえるか、ということ。
そこを基点=スタートラインとして、1つというのが成り立つのだそうだ…いろいろな失敗談などを聞いたり、検討したりしてみて、きっとそこが難しい部分なのだと、想像できた。
もともとすべては1つなのだから、(みんなで)(一緒に)などという必要がないのだ、ということが身に染みて理解できた。
あとは、とりあえずSmile MAPやまぐちの3人で根幹な人的環境を整えたいと思った。(40代女性)
- | comments (0) |13:30

地に足ついた、幸福な人生を生きているだろうか?

人は、生まれて自分の人生を生きる! 
どこからどこまでが自分と言えるものなのだろうか! 
ここからが自分・これが自分だと、厳密に区切れるところがあるのだろうか? 
つながりの中での存在、人にやってもらったり・甘えたり、ゆっくり観ていくと、人の中で安心出来る性質が観えてくる。
人は生きて、何する生き物なのか? 
8月12日~の人生を知るためのコースに参加した人の感想の一部を紹介します
*******************************************************************
_DSC0047.jpg
これまでも、自分が何者かを知るために色々な所へ行ったり、色々な方たちにお会いして自分なりに探究してきた。
今それを思うとあたかも自分の中で想像していた理想の図のパズルを完成させるためにそのパーツパーツをあちらこちらで拾い集めては、一喜一憂していただけの自分だったかもしれないとさえ思える。
それは決して無駄だったとは思わないが、随分と遠回りをしたものだと思う。
まずは今回のコースで、自分が何も知らないということを知ることがこのメソッドのスタート地点でもあり、ベースともなるところだと改めて思った。
次に、では実際はどうだろう?と色々と考えてみると、そこには自分の存在を成り立たせるための膨大な情報が織り込まれていることに改めて気づかされた。

そうするともっともっと自分を知りたいという意欲が湧いてきて、自分の内面に目を向けるようになってきて、同時に周りの人にも意識を向けるようになる。
自分の内面にある心を観てみると色んな心があり、場所や時間と共に移ろい変化しているように感じるが、比較的変化の少ない心もあるようで、それが本心というものかも知れないが、それさえも意識上の産物だとも思える。
ただその心というものの中にも反応や判断を超えた「何か」があると感じた。
自分なりにそれが「愛」というももの正体かも知れないと思った。
見返りのない絶対愛とでもいうか、相手に与えることを自分の喜びとして、お互いを生かし合おうとする心・・・・無償の愛。
本来私たち人間には、それが元々備わっていて大人になるにつれて外部からの影響をうけ、知らぬ間にそれを忘れていってしまっているのかも知れない。
しかしその外部の影響も意味のあることで、自分を知るためには自分以外のものを体験しなければ分からないと思えば、それさえも有難く思える。

現時点ですべてが明確なったわけではないが、一つの「道すじ」が見えてきたような気がする。本当に有難いことだと思う。(50代男性)
***********************************************************************
夜、娘がどう過ごしているかな、私がいなくて寂しい想いをしていないかな、と不安・心配が起こった。
その日に「安心・安心感」をテーマにしたばかりだったので、早速、「私の今の不安・心配は意識上のものだな」と認識することが出来た。
もしかしたら、娘は私のことを忘れるくらい楽しく過ごしているかもしれない。
頭で不安を作り出して、それに捉われているより、コースに集中したい、と思った。
もちろん、娘が楽しく心地よく過ごしてくれることを願う気持ちは持っている。
私の本心は、それだろうか。それともまだ奥にあるのだろうか。
きっと、娘が心地よく過ごしていると、私は幸せなのだ、と思った。
その幸せを求める心が私の本心?

Aちゃんの話を聞いて、「(相手が求めているのは行為じゃないと分かっても)どうしたらいいのかなーって思う」と言ったら、「どうしたらいい?を考えるんじゃなくて、やっぱり相手を知るとか自分を知るとか、それをやっていくことかなー」と話してくれた。
その言葉が、ずどーーん、と自分に響いて、「なるほどー!!!」という感じだった。
人間は何をする生き物か?
「知る」生き物。
本心をよく知って実現に向かう。
意識上のものと実際のものの区別がちゃんとついていれば、実際に沿ったものを知るようになっていく。(40代女性)
*******************************************************************
コースで時間を過ごすうちに、自分に根深く入り込んでいる観念が見えて来た。
「何か人に与えなければ愛情をもらうことはできない」
「仕事で成果を出したり、役に立たなければ、人から受け入れてもらうことはできない」
頭ではそんな考えを「ばからしい」と思いつつ、無意識のうちにそれを当たり前のように原則として行動していたように思う。
頭では全然別の所を目指して進んでいるつもりでも、心の奥底に染み付いている強迫観念に気付ききっていなかった。

自分で自分を満たすことはできない。
「自分で何とかしなければいけない」という発想を強く持ちすぎて、人から満たされる余地がなくなっていた。
心が満たされることで初めて人は健康に成長していく。
心の充足によって、自然と人に愛情が湧いてきた理、知性が働き始めたりする。
心が満たされるところから人の健康な成長は始まるのだと思う。
自分の場合、自分が満たされないまま、知性の成長や人を満たそうとすることを追い求めてきた気がする。
それはかなり無理のあることで、自分が疲れ果てるような状態にもなっていた。
そもそも、自分が満たされるとはどういうことか、そこから始めたい。

人に満たされるとか、「甘える」とはどういうことだろう。
現状の自分としては「甘える」ということに抵抗感を感じたりする。
「甘えてはいけない。自分で何とかしなければいけない。」という観念が強い。
それでも、きっと本当は満たされたくて、人に甘えたいのだと思う。
意識上では今まで特に苦労もなくうまいこと生きてきたつもりが、だいぶ無理をしていたのかもしれない。
本当は自分を追いつめていて、しんどかったのかもしれない。

そんな現状から少しずつ、人に素直に求めたり、甘えたりすることを始めてみたいと思う。(20代男性)
**********************************************************************
何をどう捉えて感じたのか、それは客観的に観て実際に何をしているのか、どういう本音や反応が起こったのか、それは実際にどのような状態なのか・・・で、本心は何をしたいのだろうと徐々にじっくりゆっくり調べることが大切かなと今回思った。
そして、人と人とで探究しながら一緒に調べ合う探究会というのはそのような状態でそのようにしていくことに適っているということをとても認識した。

探究会で一緒に調べよう探ろうとすることに関心が出てくるのは人と人とのつながりの中での本来の人間の活力から生じてくるのかな。
若いころから「自分の適性を見出して自分を生かしたい」と強く願っていた。
能力や資格等身につけても結局うまくいかなかった・・・自覚のない状態で自分の考えやこだわりで自力で頑張ったからかな。

でもそういえば人間社会に対する関心や疑問は気持ちを我慢しながらも子供のころから子供なりにあったよな、そして気づかないけど心や知性を動かす源は強く動いていたんだろうな・・・
その根源からの生きる活力に気づく喜び・・・本当の人と人との間柄から、人間を知り人間らしく生きる営みから、人として生きていきたいし共に活かし合いたい・・・
そのような本心からの社会づくりをしていきたい・・・ゆっくりとじっくりと知る状態からやっていきたいと思う。
その中に本当の適性を見出して生きるというのがあるのかな。
人への感謝が大切だと人間の観念で言われてきたけど・・・人が人らしく生きるを知るという状態が本当のいままで出会ってきた方々への感謝なのかなと今は思う。(50代男性)
- | comments (0) |14:04

安心・満足・分かち合う・幸せへの道を歩む

人は人と人の中に産まれ、人の中で一生を過ごす。
人の中でこそ、安心していられるのではないでしょうか?
人に見守られ、人にやってもらいながら・・・満たされ・自らの内に人に資する欲求が発露され、人と共に仲良く暮らしたい欲求が・・・?
サイエンズスクールの協賛で行われた、8月10日からのアズワンセミナー参加者の感想の一部を紹介します。
**********************************
img123ab500.jpg
正悪の判断無く、自分の話を聞いてもらえることで、得られる安心感を久し振りに味わわせてもらった。
また、人の話を自分も聞くことで、自分にも変化が生まれるのを実感できた。
自分を在りのまま受容したい
子どもを在りのまま受容したい
親と和解したい
妻と友人とも、これからも話し合って行きたい(40代男性)


今回私がこのセミナーに参加した動機は、夫との家庭生活を見直したいと思って参加しました。
いつも眉間にしわを寄せている私、いつも不機嫌な顔をして、良くないなと思いながら、4年ほど過ごしていました。
セミナーで感じたことは、「その場を離れることの大切さ」冷静に「 」を掘り下げて、探求するためには、一度その場から離れて。「考え、探す」ためだけの時間を設けること、帰宅してからやってみるのが楽しみです。
それから、親しい間柄になれる人の存在をありがたく感じました。
これから自分の事を伝えたり、相手のことを聴くことが出来るかと思うと、わくわくします。
目の前で起こる(私にとって!)良い事も、悪い事も、すべては、自分の手の中にあるのかもしれません。(40代女性)


まず、人の考え、自分の考えであることを自覚することから始まり、そこから、実際はどうか、ということを考えることによって実際に起こっていることは、どういうことなのか、自分を整理すること、自分を知っていくことが出来たように思います。
決めつけや思い込みとは何か、決めつけがあるとどんな状態か、決めつけがないとどうか、幸せとは何か?
自分自身を探究すると同時に、探究する人がどのように変化するのかを見たり、実践している方のお話を聞いたりすることができたのも、とてもよかったです。
普段、何かのテーマについて深く自分を見ていくという事のみ時間を使うという事は、ほとんどないので、とてもぜいたくな時間の使い方をさせていただきました。
人にとっての幸せとは、本来の自分自身でいられて、自分の力を発揮することを楽しんでいる状態なのかなと思います。(40代女性)
- | comments (0) |07:03

自分の中を、そのまま観ていくと、自分を成り立たしているものが観えてくる

自分を顧みる、ゆっくりと、落ち着いて、認識のもっと奥、自分自身を見ていくと、もともとあるものが観え始める・・・自分の成り立ちにゆっくり気づき始めていく。
サイエンズスクール、8月2日~内観コース参加の人の感想文、一部を紹介します。
**********************************************************************************

終わった今、とても貴重な時で、始まる前に感じていた長さは全く感じていず終わることが残念にさえ思っている。
こんなに丁寧に自分に関わったのは、生まれて初めてもかもしれないくらい、自分に丁寧に関われた。
座っている間に自分の身体の部位を何度も丁寧に触ったのも初めての感触な気がした。
自分と丁寧に関わる以上に大事なことがあるのか、日々一体どんな事を大切にして、大事なことをおろそかにしているのか、とても大きな気づきだった。

母親との最初の調査は、やはり“怒り”の源、母のおかげでどんな目にあったのか、それが亡くなって8年たった今もどんなに自分を縛っているのかそんな気持ちだった。
でも、思ったよりは感情的にならずに進められたことに驚きだった。
そして、自分が認知できていなかったお世話になったことが、たくさん出てきた。
私は10月生まれなので、ちょうど今のような季節を大きなお腹でそれも一人で過ごしていて、それを乗り切ってくれたおかげで私はこの世に生まれでることが出来た。
そしてお乳を飲ませ、おしめを替え、服を着させ、お風呂にいれ、泣いたらなだめてくれて寝かせてもらって、そして長女だったのでそれらを全て揃えてもらって私は育つことができた。

そして、自分の人生を「嘘とごまかし」をテーマに内観。
3日目に入ったせいか、集中力が高まっているのか次々幼稚園時代からの人を思い出す。
出来事と人が走馬灯のように浮かび上がる。
そして出るは出るは、自分をごまかしてきたこと。
言えなかったこと。 やらなかったこと。
寂しいくせに、その場に100%関わっていないと自分から距離を置いてしまい寂しく居続けてきた。
自分からは入れてと言えない、本当に困っていても困っていると言えない、いいカッコをしてしまうがその結果に喜びはなく不満を収めてしまってきた。
本当は私どうしたかったのか、その自分の選択は自分の幸せから遠のいていたのではないか、そしてそのことは今も続けているのではないか。
でもすべての時代を振り返り、おもい出せたのはとても幸せなことだった。(50代女性)

今回の内観で一番に得たものは,自分が我欲の強い人間であることをはっきりと自覚できたことである。
我欲は,自らの普段の自己中心的な言動ともつながっている。
また,虚栄心や,自己顕示欲ともつながっているように感じる。
自分のそのような立ち振る舞いは,時として周りの人々の気持ちを悪くさせたり,傷つけたりする。
場合によっては,その人との関係を決定的に悪くすることもある。
それはまた,自分の幸せ感や喜びを阻害するものでもある。
これまでも,自分は我欲が強いと自覚できるチャンスは多々あったと思うが,それを覆い隠し,自己弁護でごまかしてきた。
またこれも我欲のなせる業であるかと思う。
内観を通じて,これまでの人生は,我欲が少なく,穏やかで,自分に無償の愛を傾けてくれる人たちに囲まれてきていたということも自覚できた。
母,父,弟,祖母,親しい友人たち,いずれも,である。
今頃の気づきでは遅いのではとも思うが,これまで無自覚で過ごしてきた日々を挽回すべく,まずは身近な人々に対して,自分がいただいた愛のお返しをして,さらには,その周りにいる人々や自然環境に対しても,我欲に溺れることなく,愛が傾けられるような人になりたいと思う。(50代男性)

高校時代でしてもらったことを内観、して、高校の恩師を思い出していた。
してもらったことを思うことは、不幸を幸福に変える魔法だった! 
私は、十分に配慮された教育を受けた少女であり、国語の先生の示してくれた思いやりで、私の定時制高校の生活は、苦から愛情いっぱいの高校生活だったことを、内観で思い出した!
決して不幸な少女ではなかった! “してもらったことの回想”は生きる力でさえある!

最後に・・コミュニケーションスタイルの変化!?
今回の内観を通じて、コミュニケーションは心と心の双方向と今更ながら気付く!
この内観の当初、“言いたいことを言っていた私自身”を見て、 一方通行だ! これでは心と心が通い合わない!と気づいた。(70代女性)

今回の内観コースに参加した目的は、自分を深く観察して自分が何を考えてきて何をしたいのかを知ることでした。中でも一番知りたかったのは、父母に対して自分が本当はどう思っているのかでした。
内観を進めるうち4日目あたりに「自分に対する嘘、ごまかし」を調べている最中に、自分があまりにも多くの方々にお世話になっていることに今更ながらに気付きました。
そのあと、感謝の渦に巻かれてしまい、自分が思っていた不満や葛藤はそのお世話になったことに比べると宇宙の中の紙屑くらいに思えて気にならなくなりました。
この内観コースに参加させて頂く目的の一つに父母に対する自分の感情を観るということがありましたが、何よりもこの肉体を産んで頂いたことへの感謝、そして育てて頂いたことに比べると、色々な負の感情は考えることですら無かったことだと思いました。

最終日は、本当に安らかで穏やかな気持ちで迎えることが出来ました。
今後は自宅に戻っても時々日常内観を心掛け、今回の気づきを忘れないようにしてきたいと思います。
また今まで多くの「して返せなかった分」を今後の森づくりやコミュニティづくりに投入して、未来に役立てたいと思います。(50代男性)
- | comments (0) |16:55

現状の自分と社会、誰でもが自由に生きられる社会って?

自分の気持ちや意志を、そのまま見たり探ったり・・・・不自由な心の状態で暮らしていないだろうか?
人としての自由欲求・・・満たされる社会とは?
7月29日~の、社会を知るためのコースに参加した人の、感想の中から一部ですが、紹介します。
****************************
法律、民主主義、合意形成など一見言葉の印象からはクリーンなイメージがあるようにも思うが、実態としてはどれも決まったことに人が従う、やらせる、やめさせるという中身のもので、それに沿わなかった時に責められたり、罰せられたりでの恐怖によって人が動くというのが今の社会のように思う。
誰もが自由や豊かさを求めてそういう方向に向かおうとする作用があるように思うが、権利を拡大すると自由になり、所有が増えると豊かになると思ってそれらを追い求めてやってるように思う。
しかし、実際は権利が増えることによって義務で従う不自由な人が増え、所有が増えることによって所有者以外の自由に使えない人が増えていって本当に求めているものと逆行してしまっているのが現状のように思う・
法治国家で先進国でクリーンなイメージがあっても、実際は不自由で人に対して野蛮な社会というのが現状のように思う。
学校なども通しながら自分の意思や気持ちとは関係なくやることがあると教えられて従って身につけて生きてきたように思う。
自分の意志や気持ちと関係なくやることに従ってやる状態を自発的服従状態のように思う。
自分も小さな頃から外のものに従って生きてきて、長い間自分がどうしたいかということに目を向けないでやってきたように思う。
おかげで気持ちがなくなった訳ではないだろうが、気持ちに目が向きにくく、意識上に昇ってきにくい体質になってるように思う。
やることがあるというのは意識上で、実際は、やりたい、やって欲しいというシンプルな人の気持ちがあるように思う。
「~やって欲しい」というのに対して「予定がある」と答えてたりすることがよくあるように思えた。
逆に相手から予定があると聞いてそうかとそれで諦めることもある。
全然気持ちや意志とは関係ないことを言ってるけどそれも自覚がなかったりする。
特に悪感情も伴ったりが無くあまり問題視されなかったりするけど、ここら辺が見直されていかないと本当に自発的服従状態から自発的自由意思には成っていかないなと思った。
気持ちと気持ちのやり取りっていうとシンプルで簡単そうだけど、長くやって身についたそうじゃないやり取りが染みついててリハビリが必要だなと思った。(20代男性)
*****************************

責任・権利・義務・やらせる・やめさせる・・・の探究している時、
事がうまく運ばなくなったり、不都合が生じた時に、そうなった原因を誰かに負わせるために、前もってその任に就かせるのが責任者というのが見えて来た。
お店とお客の関係・会社と社員の関係・親と子の関係でも、今の社会は槍(権利)と盾(義務)を各自が持ち、権利と義務の中で暮らしているように見えて来た。
やらせる・やめさせる状態も、人に心や気持ち・欲求・意志などがあることを知らず、現象面を捉えて、服従状態を強いている状態のように見えて来た。
責任・権利・義務・やらせる・やめさせる・・・で生きている人は、人(自分も人も)の心・本体を知らない野蛮人といえるのかと思った。
自分の中の自発的自由意志を知らずに、自分の中に培ってきた自他を縛る観念・・・自発的服従状態の正体を知りたいと思った。
誰でも本来の人として生まれ、野蛮人で作る社会の中で育つ過程で、少しずつ野蛮人になってきた自分の姿が少しずつ見えて来たように思った。
幼い頃からの育ちの中で、恐怖から、周りの人の顔・態度を見ながら、人間らしさを失っていったように思う。
いい子だね、いい人だねと言われる安心感を得つつ、自発的服従を加速してきたように見える。
人として生まれ、野蛮人に変身(心)していったように見える。
今まで培ってきた自発的服従の癖が、どこまで矯正できるものなのか・・・分からないけど、自分も人も何もしなくてもよい、所有・権利・義務・責任などで縛らず、本当に縛りのない世界の中で、野蛮人から人間復帰したいと思う。(70代女性)
******************************

何もしなくてもいいのに、スーパーではたくさんの野菜が、お菓子が、日用品が並び、ジュースは冷やされて置かれている。
レジにはいつでも人が立ち、駐車場では警備員が案内してくれる。
トイレはいつもきれいに清掃され、買い物しやすいようにかごも用意してある。
それによって、僕たちはどれだけ楽に生活を送ることが出来ているだろうか。
スーパーだけでなく、身の回りのもの全てがそうだ。
洋服、歯ブラシ、ごみ袋、いす、家、食器、食事・・・
そのひとつひとつに誰かの想いが込められている。
どれだけのものを受けて生きているのか、想像もつかない。
そういう中で生きている。

やることや役割があってそれをこなしていく。
それをやってない人に責めることが出来るのは、その人を人として見ていないからだと思う。
それは自分自身すら人として見ていないということにもなる。

どんな国でも、どんな人でも自由を求めているし、平和でありたいとも願っていると思う。
でも、どんなに強く願っていても、それを所有・権利という形で人を縛る事で手に入れようとする。
だから、どんなに活動しても自由にはならないし、平和にもならない。
不安や恐怖で人を圧迫して、従わせたり強いたりしても誰が満たされるのだろうか。
自分の自由のために、相手の自由を認めない・縛る先に本当の自由があるだろうか。

人を動かせるという見方ではなく、自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか気持ちを伝えて、聞いた人もそれを聞いて自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか気持ちを伝えていく。
そういう営みの中から、したいことを実現していけるといいな。(20代男性)
- | comments (0) |16:48

当たり前になっているものから自由へ

**********************************

日常、家族や職場や友だちとの間で、どんなやり取りをしているのだろうか? 

人と仲良く暮らしていきたいと、誰にでもある気持ちで暮らせているのだろうか?

相手との間に優しい気持ちが通い合っているのだろうか?

日常から少し離れゆっくり自分の中をみていくと、自分の気持ちや、相手の気持ちは?

観えてくるものは?

7月22日~の自分を知るためのコース参加した人の感想の一部を紹介します。

**********************************





見たり、聞いたことが自分の中で認識される過程をゆっくり調べた一週間だった。

どれを見て聞いても、どこまでも自分の中の出来事であることが明確になりながら、

自然と実際に関心が向かう状態になっていくことが楽しかった。

○○○さんが使い捨てのプラスチックのスプーンを食卓の上にのせた。

その瞬間、「使い捨て用品を使うのは、環境にも良くなくて、一度使って捨てることはもったいない…」という気がした。

続いて、「あくまでも私の考えだね、○○○さんは何をしたかったのか」と思っていた間に、ふと、「あくまでも私の考え」という部分がなんだか心にひっかかった。

私の考えだとしているが、「誰もがそう思っている常識」という考えが根底にあるんだと気付いた。

みんなの考えがそうだというのがベースにあれば、自分も知らないうちに自分の考えに自信がある状態になって、私の考え方と違えば、相手が間違ってるとなってしまうんだな。

目が覚めて時計を見た。 5時20分。「あと1時間半ほどもっと寝れる~」と思って眠りを求めた。

その瞬間、本当に寝たい気持ちより、寝れる時に寝ようという考えで動いていることが見えた。

9時からコースが始まることに合わせて、7時から食事、掃除、レポート...などしなければならないことが決まっている感じが少しでもあるように感じた。

しなければならないことが決まっているような考え方のベースでは、主体性を失っていることが見えた。

自分が外の基準によって動く場合では相手の行動も、外の基準で見て是非に関心がいってしまう。

そんな状態ではその人の気持ちや状態に関心が向かないのが見えた。

まず、自分が主体的な状態になると、実際の相手もどうかということが見えやすい気がした。

実際に関心が向ける状態では、善悪を判断したり、相手を縛ったり、動かそうとしたい気持ちが自然には生じないようだ。(30代女性)





「昨日の夜は土砂降りだったよ。 そうなん?自分は寝てたから知らん」日常はこれをやっている。

実際、土砂降りだったのか、小降りだったのか、降らなかったのかと白黒つけようとする。

自分の捉えた「土砂降り」か自分の思う「小降り」か実際はどっちだ?って関心は自分の捉えたものにしかない。

その時その場で言葉を発して伝えようとした相手の中身(実際)には関心がない。

自分の捉えたこと(頭の中のこと)に決着を付けようとしている自分の姿が見えたら、そうしようとしなくても自然と知りたい気持ちが湧いてきて相手を聴きたくなるようだ。

相手も思ったことを言っている。

自分も思ったことを言っている。捉えたことしか、ない。

「人間の考えであることの自覚から始まる」

自分の感じたもの、捉えたもの、認識したものが実際のことになっている。

だから、コーヒーのことを知っている。 分かっている。 これはコーヒーだと言う。

自分の感覚や認識に無意識のうちに自信を持っているようだ。

人間の認識程度で捉えられるほど事実実際は薄っぺらくない。

人間の考えであることを知る、自覚するとは人間の領域を知る、人間の分をわきまえるということではないかと思う。

終わりに、自覚とは思ったり思わなかったりしたり、忘れないようにすることでなく自らそうなる状態のことを言っているのかと思う。

それが出来る環境の中で、それが出来る環境を作って、共にそうなりあって、人間らしく生きたいと思う。(60代男性)





久しぶりに日常から離れて、いろんな角度から探究できてよかった。

日頃、相手の実際は? という意識はあっても、自分が捉えたものが実際となってたら、いくら知りたいと思っても、知る方向にはいかないな~と。

今まで育ってきた中で思いや考えを実際だとしてきた部分や無意識に当たり前としている部分が根強く? 根強くあるな~と、そういう自分に気付いたことも大きいかな。

子どもは感じたことや本心を言葉にしてたり、行動したりで、表現するけど自分は固定した考えでやりとりするから、かみ合わないというか、子どもは反発したり、満足しなかったりで、私は心がモヤモヤしたままで、あ~またやってるな~(自分の状態)と同じことをくり返してしまう。

私の中には相手の実際に向いていきたいという本心があるからモヤモヤしたものが残るのかな。

自分の考えを実際としてやる事があるとか自分の外のものに合わせて動いていたり、子どももそこに合わせて動かそうとしたり、考えを事実化して子どもに伝えたりする。

全部、自分の頭の中で起こってること、決めてることなんだな~と。

実際は自分も相手も一人一人に意思や本心があるのに、そこに関心が向かないのって何か淋しいな~。

人間の考えであるとの自覚があったら、自然と実際の方に心が向いていく感じがする。

知るとか悟とか、どんなかな~と分からないけど、日常の自分がどう捉えてどう反応しているか、客観的に観察することで、知識としてじゃなく、そうなるところに近づいていけたらな~と思う。(30代女性)





4日目の夜、目が覚めると、もの凄い勢いで雨が降ってるように感じた。翌朝、食堂に集まってくる人に「昨日は凄い雨やったなあ」って話しをすると、「私もびっくりして目が覚めた」ってひとや、「窓をしめてまわったよ」ってひとや、「ぼくは何にも気づかんかった」って人がいた。

僕の聞き方をみてみると、「雨が降っていた」っていう僕の反応に関心があるから、同じような反応に感じる人の言葉を聞いて、「やっぱりすごい雨だったんだ」って自分の体験をアップグレードしているような聞き方をしていた。

そうなると「なにも気づかなかった」という人の感覚には関心さえ向けなくなる。

これはいったい何をやってんだろう。

「これぐらいの体験をしたら、実際だってできる」「これぐらいの事は、みんな知っている」「こういう場合は普通こう反応する」そういう自分に決めているものがあるな。「普通」とか「みんな」とか全部自分の捉えたことやのに、その大前提があることの自覚が、全くされてない状態だと気づいた.

「普通はこうだ」「この人はああだ」「みんなはこうだ」このことを組みたてたり、正当性を得ようとするのにもの凄いエネルギー使ってきたように思う。

そうやって組み立てた自分の捉えた「みんな」の範囲で生きてる自覚がないんだな。(40代男性)
- | comments (0) |06:17

自分を守る生き方から、自分そのまま・楽な生き方へ

自分の思いや行動をゆっくり・じっくりそのまま、思い出し振り返ってみていくと、素直な自分の気持ちに出会える。

力の入らない、楽な自分に出会う。 自分の気持ちが見えてくる、本当に自分の思い・気持ちは? 落ち着いたこころへの道を・・・どうぞ。

サイエンズスクールの、7月1日~の内観コースに参加した人の感想の一部を紹介します。

吉田・稲.png



「自分が好き勝手やるせいで母親が怒っている」と思って、自分の感情を抑えたり、自分の感情を出すのは良くない、と思ったりした。

その経験が自分の中で大きくなって、「自分の感情を出すと人が困ったり不快感を感じるのではないか」という不安をその後も引きずっていたように思う。

実際は、母親は慣れない環境、三人の男の子の子育て、父や親戚との関係でストレスを受けたりしていて、子供に怒りたかったわけではなかったのだと思う。

僕が元気に遊んだり、笑っている母親の姿もたくさん思い出せる。

母親はいつも僕が笑って楽しくしているのを嬉しそうに眺めてくれていたし、僕が元気に感情豊かに育つのを願っていた。

僕が自分の中で「感情を出してはいけない」と思い込んでいただけだった。

幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、高校でも、いつも母親は僕のことを見てくれていた。

そんな母親を相手に僕は一人で「自分の素の感情を出すと嫌がられるのではないか、怒られるのではないか」と自分を隠そうとしたり、「別に普通だよ、何もないよ」と突き放したりしていた。

実際に母親から受けている愛情には眼もくれず、母親を恐れたりしていた。

それも自分でその状況を作っているということにも気づかず、「理解してくれない親」「子供を責める親」と相手のせいにしていた。

今回、母親はどんな状態で何を願っていたのかということも調べたが、母親へ向き合う以前に、いかに自分が自分の狭い観念の中で母親を見ていたのか、自分の思い込みがいかに強いのかが見えてきた。

僕が本当に求めている愛情は目の前にすぐ手の届くところにあったというのに、僕は自分で作り出した物語の中で母親を恐れて、突き放していた。

自分の外にある世界、環境、人を変えたり、自分自身を変えればいつか愛情のある場所へ辿り着けるのではないかと必死になっていたが、そもそも目の前にある愛情に気づかない自分の状態だった。

母の内観を通して、幸せや愛情を求めるにしても、何かを変えようとしたり、やろうとするものではなく、ただ知ること、実際にあるものに素直に目を見開けばいいだけなのだと思った。

現状の自分から出てくるいろいろな不安や反応はあるにしても、そこで自分を抑えたり、守ったりせず、そんな自分も出しながら、進んでいければと思う。

そんな思いで、あらためて日常に戻っていきたい。(20才代男性)



最初はひたすらに記憶を掘り起こすような感じでした。

内観の三つの見方「お世話になったこと、して返したこと、迷惑をかけたこと」に沿うというよりは、ただ思いつく限りのことを意識上に引っ張り上げる作業をしていました。その中で自分が如何に自分にとって都合のいいモノの見方をしているかを気付かされることになりました。

思い出しながら恥ずかしさとも申し訳なさともつかぬ感情に涙がこぼれることもありました。

二回目の母のことを調べていく中で、一回目の時と見方が違っていることに気付きました。

一回目の時は自分中心の視点で記憶を手繰っていましたが、二回目の時は「その時の母はどんな気持ちだったのだろう」と母の視点で想像するようになっていました。

二回目の父のことを調べ終え、ある友人のことを調べ、最後にこの一週間の自分のことを調べました。

その中で内観の二つ目の視点「して返したこと」もまた相手の視点に立たなければわからないのでは、と思いました。

自分がして返したと思っていてもただの自己満足に陥っているかもしれない、と思ったからです。

そして今回の内観は終了となりました。研修所を出たらとりあえず、家族に電話をかけようと思っています。(45才代男性)





7年ぶりぐらいの内観だったと思う。

昨年、身辺に大きな変化があって自分の気持ちを整理したくて臨んだ。

一つは姑の事。

昨年の10月に87歳の生涯を閉じた。

私が嫁いでから約29年間生活を共にした。嫁いでからの姑との暮らしをつぶさに観察してみると、お世話になったことがたくさんあった。

たくさんあったのにそのことが見えないめくらな自分であった。

改めて姑の墓前に感謝の気持ちを捧げたいと思った。

二つ目は父の事。

昨年、救急搬送され一命をとりとめた。

持病の糖尿病からくる心筋梗塞で認知症も発覚した。

家族の生活が一変した。動転する母を支えながら、介護支援が受けられるよう世話をした。

私自身も父の変化に戸惑いながらも、これを機に内観してみようと思った。

私が生まれてから今まで家族のために一心不乱に働いてきた人生だったと思う。

一生懸命なあまり、私たち3人を管理するような教育だったけれど、それもこれも愛情のなせる事だったと思う。

大きな愛で育ててもらったことに感謝で一杯です。

これからは残された時間を自分のためだけに使ってほしい。それが娘からの恩返しです。そのために娘として全力でサポートします。(50才代女性)





嘘・ごまかしでは自分の思考の傾向・癖が見えて面白かった。

中学のころ日本にいたが学校最後の日に友達が何か話したいということを別の人から自分が下校途中で聞いた。その時「また学校戻って話しするの?めんどくさい」と言って流してそのまま無視して帰った。

めんどくさいは言い訳で本当はその時言ってきた人に対してそう重い価値を置いていないよと見せたい自分がいて、自分が必死に何か人との関係を求めるのはかっこ悪いと思う考えがあり、言ってきた人もそうだろうと思い込み「めんどくさい」と発した。

本当の気持ちを振り返ると話ししたかった。

何か言いたかったのかな。後悔している

自分が受けたもので調べたとき改めて一つ一つ自分が受けているということは本当に世界と繋がっている実感が湧いた。行為にしろ物にしろ。

悟ってしまうのではと思ったぐらいに。

その瞬間繋がっている実感なくなった。

実際を事実を知るということで内観は改めて重要だなと思った。

事実・実際どれほど受けているかを知れば知るほど恐らく自分の意識に上ってくる人に対しての恐怖心・悪感情が小さくなる。

「自分」という意識も薄れる。

自分のおよび一つの本心に焦点が当たってくるというメカニズムに実感が湧いた。(20才代男性)
- | comments (0) |07:00

「やること」の縛りから、「私の気持ち」への解放

「やることになっている」というのは、「やる」という選択しかない状況に人を追い込んでいないか?

「やりたい」「やってほしい」または、「やらない」「やりたくない」「やってほしくない」とかの、人の気持ちや意志は、どこにいったのだろう?

気づかないうちに、自分も人も「やること」で、人の心を縛ってないだろうか?

6月17日~「自分を知るためのコース」に参加した人の感想の一部を紹介します。



永野5サイズ変更済.jpg



私は今まで自分なりに色々と探究してきました。

そして、ある程度は分かっているかと思っていました。

しかし、今回はその記憶の破壊からスタートしました。

毎回ホワイトボードに文字化していくのですが、自分の知識が毎回否定もされず肯定もされず、自分は本当に正しいことを書いているのだろうか? と自分は本当に知っているのだろうか? 今まで自分は何をしてきたのだろうか? という思いが重なり時折頭が混乱し毎回夕刻あたりからはほぼ思考停止の状態が3日間続きました。

3日目は終わりの感想すら皆さんの前で喋れなくなって無言のままパスしてしまいました。

4日目の朝、自分自身の知識・記憶・体験を一旦白紙に戻してみようと思った時点から、少し流れが変化してきて、少し冷静に自分と周りにいる方たちを見ることができるようになったと思います。(40代男性)



                        

自分の前に食べ終わった弁当箱が置かれた。

おれが片付けるの?

何だか心がざわついた。

ただ、置いてあるだけだけど、片付けろと命令された気になった。

急いで、相手の前に弁当箱を押し返した。

僕は、洗いませんから返却します。

言葉は何もなかったけれど、相手とのやりとりが鮮明に聞こえたような気がした。

あなたの言いたいことはわかってますよ。

ふだん、けっこうこういう風に相手のことが分かったとなっていることが多いような気がした。

自分が認識したことが実際に相手がそう思っていることとして捉えていて、自分の捉えたことに対してではなく、相手に対して反応しているように思っている。

だから、相手に対して関心がいかない。

もし、相手が弁当箱を洗ってほしかったとしてもそうでなくても、なんで素直にそれを受け取れない自分がいるのだろう。

すごく反発しようとするのはどこから来ているのだろう。(20代男性)



日常 意識が大きくなって自分の本当の気持ちが分からなくなっていた。

やるべき仕事が目の前にある

空いてるシフトがある

休んでいる人がいる それを穴埋めしなければならない 

など やるべき事が山積みのような感じになっていた。

それで自分の気持ちや身体の不調な時まで、仕事に合わせてきた。

それで自分の気持ちよりも仕事の方が上になっていた。

自分で決めて自分にやらせるような感じだった

私は本当はどうしたいんだろう? 

本当は人らしく安心して暮らしたい。気持ちを大事にして生きていきたい。

(50代女性)

                 

田舎でやっていくには地元の人を大事にしなきゃそこではずっとやっていけないという考え。

毎朝6時半に来る地元のおじさんのために店をあける。

地元の常連さんだから大事にしなきゃここでやっていけない。

おじさんへの捉え方を変えて「自分のお父さんのように思って気持ちを込めて朝ご飯をつくろう」とするが、ん~~なんだか無理がある。

捉え方を意識の中で変えても根っこはあんまり変わってないような。

私の気持ちは、朝はゆっくりしたいなあ。

もっと寝ていたい。お父さんのように思ってなんて、ちょっと苦しい~~笑。

「なんだかあの人楽じゃなさそうだなあ」と捉えると、「自分が何かしなきゃ、何かできることがある」と力が入る。自分の問題と捉えているのかなあ。

みんなが楽になったらいいなあと私は願っていると思っていたけど、本当かなあ??それは願い??なんか願いっていうといい感じに聞こえるけど・・・。

相手が楽じゃなさそうだと自分が捉えて事実化している前提に、こうなったらいいな~と思う自分。

ん?自分の本当の気持ちは??ただ、わたしが楽になりたいのかなあ?? 実際を自分のいいように捉えて事実化して、それを「問題=取り組むべきこと」であり「自分の取り組むべきこと」だと捉えてモチベーションを上げている??

自分がやるってどういうことだろう?自分がやったってどういうことだろう?これは自分がやったこと?

1人でやったのかなあ?自分はここにいるよ、っていいたいのかなあ。自分の役割をやった、生まれて来た理由とか、使命とか、使命を果たすとかってどういうこと?使命があるのか?役割があるのか?

自分ってなんだろう?(20代女性)

         



途中2日目は、やる気が起こらず、思考が停止した状態だったが、これも自分が変化していることで起きる反応だったかも知れない。

人の感覚というものは、捉え方が違うものだという、これまで考えもしなかったことを考えることが出来た。

たとえ、同じ事実(物・現象)を捉えたとしても、感覚器官の感度、過去の経験などが、人それぞれ異なるために、認識したことが全く同じということはない、認識したことが異なって当然という気づきは大きい。

見たり聞いたりして認識した情報は、こころの中にある独自の回路で反応として現れるという反応の仕組みは興味深かった。

独自の回路は、受胎以降の経験の中で養われたもので、潜在意識の中にあると思われる。幼児期の環境、両親や周囲の大人の影響が極めて重要だと感じた。

人が作り出した概念であるフィクション(法律、ルール、通貨、常識)に、人は心の自由を縛られている。

人の反応にも影響を与えているように感じる。

自分でフィクションを強化して、こころを不自由にしていないか、探究したい。

日常の生活の中で、今の意識に集中して、自分のこころの状態・本当の気持ちを観察して、素直に受け止めたい。出来るだけ、自分の素直な気持ちを相手に伝えていくよう心掛けたい。自分と同じような仲間とつながっていきたいと思います。(40代男性)
- | comments (0) |13:57

私は、何によって生きているのだろうか?

「人生を知るためのコース」では、「人が生きている」とは、どういうことだろう?、と、思いや感覚的なものでなく、具体的に「人が生きている」ことの実際について調べていきます。自分たちの頭を使って調べてみると、「自分そのもの」「人そのもの」が見えやすくなり、自分の周囲の多くの人たちについて、「その人そのもの」を理解しようとする気持ちが自然と湧いてくるようです。

5月「人生を知るためのコース」に参加した人の感想レポートを紹介します。

紫陽花.jpg

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



先ずは「本来の人間」や「本来の社会」というものを、私はそもそも「知らない」ということ。

そして、これまでの知識や経験の積み重ねの中で「知っている」「分かっている」気になって、それをもとに考えをこねくり回しているに過ぎないという自覚をもつことから始めることなのだなということが見えてきた。

「知る」ことを通して観えてくる人間、社会がどのようなものになっていくか、自分自身もそのあらわれの一部となって楽しんでいけたらと思う。

現状においても、人間のつくり出した考えや概念によってゆがめられているとはいえ「この人生の途中の今、なぜにここにいるのか?」というテーマを探究する中で観えた「今、この場所にこの人たちと、このような状況になっている、あらゆる要因、働きの不思議さと間違いのなさ」は、全く否定しようもなく、ただただ「本心」に沿った人の営みの過程にある、今のあらわれなのだというところに立てた。

ついつい意識上のあらわれに囚われ、自分自身や人と人の間に隔たりや縛りを作ってしまう、今の人間社会のありようだが、自覚をもった個人が本心からの願いに沿って自分を知り、人を知り、そんな人と人との間でその人らしさを発揮し始めたら、自ずと本来の人間の営みがあらわれ出るだろう。

その実際に思い至るとき、「私だけの独自の人生」という視点ではなく、あらゆるものの営み、ここまでのいのちの営み、ヒトの人生が、いろんな形で響き合い、織り成して今があるのだなぁと思う。

これから開かれていく人生に希望が見えた。(40代男性)







誰もが求める、快適も、満足も、幸せも、人と人との間にあるもの、と言うか、一人では得られないもの。私の快適が、あなたを快適にし、あなたの満足で私は満々足になる。

一人の幸せより、70億人の幸せの方がいいよね。

「一つのもの」という観方も、人間の考えではあるけれど、本来、本質に則しているように観える。

空気は一つ、水は一つ・・・そうだな~と思う。地球は一つも、そう観える。

でも、人類は一つは抵抗感があるなあと誰かが漏らす・・・

人間は、鼻の穴からお尻の穴まで“空洞”だよねと言う話になった。

へえ~、だったら、その空洞の周りに肉やら骨やらが付いて人間が居るわけで、全人類が空気で繋がって一つと観えてくる、絵に描いてみた、面白い。

みんな小さな頃から、個々別々、隔てがあると無意識に刷り込まれてきた。

そして、その観方から政治・経済・教育・社会制度・家庭生活すべてが組み立てられている。一回リセットして、“一つのもの”という観方ですべて組み立て直してみよう。

コース中、5人の人間で探究した。

本心、満足、安心、内面、人の豊かさとは、なぜ心を重視するのか、・・・

快適で、豊かな時間だった。

いつも人間の内面・心を観ていく。

その人・そのものを観よう、知ろうとしていく。

人間の考えだって自覚あるかな~

事実・実際はどうなってるかな~

本来・本質・本当は?

その探究の中に、“人間交際”“一つの社会”が現れてくるような・・・

こうやって、話し合いながら、心満たし合って見晴らしがよくなっていくのも、人間にしかやれないこと。

人間を知り、人間らしく生きる営み、人知革命の真っ最中。(50代男性)
- | comments (0) |09:30