「知っている」って、何を知ってる?

情報を得たり、自分の体験から、「こういう人」(例えば、優しい人 仕事のできる人など) 「こういう物」(例えば、甘いイチゴ 汚い部屋など) 「こういう出来事」(例えば順調な人生 忙しい日々など)と、言う時、自分は、その人や物事について「知った」つもりになっていませんか?「もう知っている、もうわかった」としていませんか?
長年共に暮らしている家族、自分自身についても、例えば「母はこういう人だ」「自分は、こうだ。」と、キメている状態から、見ていないでしょうか?

「自分を知るためのコース」(1月)に参加してみての感想レポートの一部を紹介します。

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僕は時々、人間関係がキツクなる時がある。友達間ですらも。
それは何で? って考えたら、僕自身が僕自身をこーゆう人間だ、こーゆうキャラだってキメつけて不自由さを感じていた。
事実・実際など誰も知り得るハズもないのに、人間が考えただけのこと、それがあたかも事実・実際のようになり、強大なパワーを生み。
人の悩みの種となり、思い込みという名の根を張り巡らせていく。
人はキメつけたがり、共有し合いたがる、か弱き生き物。
それも、また自分。
そんな自分に興味を持ち、何で? って優しく、ゆっくり観察していけたらなぁ・・・
自分について知ることは出来なかったけど、自分について知るための考え方は何となく分った気がしている。
自分探しの旅、いや、自分観察の旅はまだまだ続いていく。(20代男性)

「正さ」という名の自縄自縛。 
皆縄皆縛・事実化・集団事実化から「実際はどうか?」に向かう時、まず一人が事実化された事実から抜け出すこと。そして、事実化の問いを共にできる人の存在が「正しい」という「人の考え」「人々の考え」を超えた人間と人間の暮らす新しい世界観を、新しく続けられるのかもしれない。
まず、一人。は自分自身。(30代男性)

自分をいかに知らないかと言う事に気付いた6日間でした。
その知らない自分も愛おしく感じられて、さらに知りたくなった。
霧の林のなかから手探りで抜け出した4日目から、面白くなって、感じたことを素直に表現していけばいいのだと言う、開き直りのようなところが出てきて、楽になった。
実際はどうなのか? と問う事さえしなかったと言うより、そう思って、自分を見ていなかった。
日常の生活に戻って、人と接する時に自分がどう感じるか観ていく楽しみができた。
(60代女性)

まさか事実・実際が捉えることのできないものだったなんて…
まさか自分の感覚があいまいな不確かなものだなんて…
まさか自分がこんなに決めつけていたなんて…
まさかこんなに知ったかぶりを日常的に繰り返していたなんて…
このコースに出る前と後では、
世界がひっくり返った!? ほどの衝撃をうけた感覚を持ちました。
それは、ぶあつ~い常識の皮を何枚もはぎ取るほどの大きな出来事…
少し気持ちが軽くなり、もっともっとみんなで幸せになれる予感。(40代女性)
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